籠鳥月を恋う




 √A

 同居人——望月綾時が忽然と姿を消したことに、僕はすぐに気がつけなかった。だって、昨日までは何事もなく、異変もなく、予兆もなく、穏やかに暮らしていたから。
 いつも綾時は、僕より早く起きていて、朝食を作っている。ジュウと何かが焼ける音、食器のぶつかる音、コーヒーの香り。それらが廊下も扉も越えて、眠っている僕の元へと届く。それで僕は、今日が始まったことに気がついて、目を覚ます。だけど、今日は違った。

 目を覚ますと、朝日が部屋に差し込んで、薄っすらと明るい天井が見えた。僕はごろりと寝返りをうって、自室の外の様子に耳を澄ませたが、物音一つ聞こえなかった。時計を見ると、いつもより少し遅い時間で、朝食を寝過ごしてしまったかな、とぼんやり思う。僕はのそのそとベッドから起き上がり、一度伸びをする。肩の骨が鳴った。カーテンを開くと、光が眩しくて少し目を細める。冬の透き通った淡い青空に、白く丸い月が浮かんで見えた。僕らの暮らす十階の角部屋は、移動が面倒だけれど、空が近くて景色が良いところは、気に入っていた。視界を遮るものが少なく、満月より少しだけ欠けた月がよく見えた。僕は部屋を出て、まずリビングへと向かった。綾時は、自分の部屋に籠る時間より、誰かと会えるリビングに居る方がずっと多かったから。
 廊下はひっそりとしていて、人の気配もない。どの部屋も、明かり一つ付いていなかった。いつもより家が寒く感じるのは、気温はもちろん、静かな家の雰囲気のせいかもしれない。底冷えした家は肌寒く、床の冷たさが素足から這い上がり、意識を無理やり叩き起こす。凍える廊下を抜け、たどり着いたリビングも、太陽の光だけでは薄暗く、静かで、そして誰も居なかった。すぐに、大きく膨らんだカーテンに目が留まる。ここで暮らすと決めた時、彼と一緒に選んだ白のレースカーテン。ベランダに続く窓が開いているようで、風で布が大きく膨らみ、揺れて、床に不思議な影を作っていた。通りで寒いわけである。カーテンを退かすと、網戸はなく、大窓は全開だった。サンダルをかけてベランダまで出てみるけれど、彼は居ない。洗濯物当番は僕だから、まだ何もないベランダは広く、見通しが良かった。一瞬、嫌な想像が浮かんで、僕は恐る恐る下を覗いた。がしかし、特に気になるものはない。平日のお昼過ぎ、犬を散歩させる老人や、スーパー帰りの主婦など数人が歩道を歩いている程度の、いつもと変わらない世界。少しだけ安心して、白い息が零れ落ちた。
 僕は窓を閉め、部屋に戻る。どのぐらい窓を開けていたのか分らないが、冷えきった家暖めるため、とりあえず暖房をつけた。食卓を見たが、朝食どころか食器一つ見当たらず、リモコンの位置すら眠る前と同じ状態だった。綾時は、まだ起きていないのだろうか。僕はそう考えて、彼の部屋へと向かう。途中、先に玄関の方へと足を運び、靴を見た。綾時が愛用している黄色のラインが入ったスニーカーは、綺麗に揃えられたまま、玄関にも鍵がかかっている。靴箱の上にある小物入れを見たけれど、彼が使う家の鍵も置いたままだった。つまり、外には出ていない。僕は廊下を引き返し、綾時の部屋へと向かった。少しずつ、温かな空気が広がり始めた廊下は、寝起きの時より冷たくない。
 彼の部屋の扉をノックし、「綾時、起きてる?」と声をかける。返事はなかった。
「綾時?」もう一度声をかけたけれど、何の反応もなかった。少し耳を澄ませてみたけれど、物音が聞こえる気配もない。
 眠っているだけ? それとも、声を出せない程具合が悪いとか? 様々な考えが頭に浮かぶ。僕らの私室に、鍵はついていない。少し迷ってから、僕はドアノブへ手をかけた。金属の冷たさが、手のひらから体全体へ伝わって来た。念の為、「綾時、入るよ」と声をかけてから、僕はそっと扉を開けた。
 え、と声とも呼吸とも言える小さな音が、口から飛び出した。
 綾時の部屋はぐちゃぐちゃに荒らされていた。が、それ以上に目を引いたのは、部屋の床一面に散らばる黒い羽だった。冬の夜空のような、黒い羽。よくよく見ると、羽軸の方が淡い青色をしている。一見、無作為に散らばっているように見えた羽だったが、特にベッドの周辺に多く落ちているようだった。ベッド自体も損傷が激しく、本体は大きくひしゃげ、あちこちに布団の羽毛が落ちている。よく見ると布の切れ端のようなものも混じっていた。近くのランプは倒れ、ベッド脇の窓に掛けられたカーテンは破れ落ち、金具が散乱している。何者かに荒らされた、というよりは、何かがここで暴れた、と言う方が正しい気がする。一体、何が?
 そもそも、綾時はどこへ行った?
 体全体が心臓になったのではないかと思うぐらい、大きく鼓動が鳴り響き、体は熱く、汗が垂れた。ふと、一番近くに落ちた羽に目をやると、羽軸は赤く染まっていた。頭から下へ、血が落ちていく感覚が分かる。米神の辺りが痛み、ふらついた。僕は壁に寄りかかりながら、部屋全体を眺めることしかできなかった。痛む頭は、一つの記憶を手繰り寄せる。

 この羽には、見覚えがある。三日前、綾時から落ちた羽にそっくりだ。
 外から帰り、廊下を歩いていた時のこと、前を歩く綾時から、一枚の羽が落ちた。
「え」僕は間抜けな声を上げる。見間違いではない。現に目の前——僕らの暮らす家の、廊下の真ん中に、淡い青を含んだ黒い羽が落ちていた。薄い茶色のフローリングに、冬の夜空のような黒はよく目立っていた。
「どうかしたの?」綾時は振り返る。
「これ」
「ん?」
 僕は呆然と床を見つめ、羽から目を離すことができなかった。綾時は軽く屈み、羽を拾い上げる。動きに合わせて、黄色のマフラーがゆらゆらと揺れた。「これ?」
「うん」
「羽?」
「君から落ちた」
「僕から?」君は何を言っているの? という言葉は、彼の口から発せられはしなかったけど、言外に滲み出ている。綾時はううん、と唸り「マフラーに引っ掛けて来ちゃったかな?」と言った。
 なるほど、確かに、と僕は思い直す。彼の意見はもっともだった。
「とても綺麗でもったいないけど、危ないかもしれないし……この羽は、捨てちゃうね」
 拒否する理由もないため、僕はうんと頷いた。
 たしかこの時の羽は、そのまま綾時がゴミ箱に捨てたはずだ。

 僕の意識は今に戻る。目の前に広がる異様な景色を、再び捉えた。少し見慣れて来たせいか、脳はだんだんと落ち着きを取り戻す。あの時、彼は確か、外で引っ掛けて来た羽だ、と言っていたはずだ。でも、きっとそうじゃなかった。
「綾時が、内緒で鳥を飼ってた?」
 秘密で飼育していた鳥が、彼の部屋で暴れて、そのままリビングの窓から逃げ出した。綾時はそれを追いかけている。ありえない、とは言い切れない推測だった。鳥のことは詳しくないが、梟のような猛禽類が暴れたら、このぐらい部屋は荒れるかもしれない。だが、すぐさま違うと気がついた。大きな鳥が暴れて飛び出したにしては、荒れているのは彼の部屋だけなのは、どうにもおかしい。それに、家の鍵はかかっていて、綾時の靴も鍵は玄関にある。だから僕は、綾時は家に居ると思っていた。
「密室、失踪事件?」
 そんなミステリ―、僕は望んでなどいなかった。二人で穏やかに暮らせれば、それでよかったのに。怒りや悲しみや不安を入り交ぜたような大嵐が、胸や腹の辺りで生まれる。風に呑まれた瓦礫や骨が、僕の内側を傷つけた。 
 唯一残された手掛かりは、目の前に散る羽だけだった。僕が、羽に手を伸ばすと心なしか青く光を発した気がして、反射的に手を引く。だけど再び指を伸ばし、僕は羽に触れた。


 √B

 目の前に羽が落ちた。
「え」僕は間抜けな声を上げる。見間違いではない。廊下の真ん中。薄い茶色のフローリングに、黒い羽はとてもよく目立つ。
 いや違う。そうではないだろう、と僕は思い直す。僕はさっきまで、綾時の部屋に居たはずだ。それに、この光景には見覚えがある。と言うよりも、ついさっき思い出していた。まさに三日前、初めてあの羽を見かけた時の光景だ。何かがおかしい。僕は廊下に立ち尽くして、目の前の羽を見つめていた。冬の夜空の色をしていて、羽軸が淡い青色をしている羽。間違いない、綾時の部屋で散っていたものだ。
「どうかしたの?」僕は勢いよく顔をあげる。「具合でも悪い?」
 綾時は、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「綾時?」「うん?」
「何で。どうして。今までどこに?」
「どこって、一緒に出かけてたでしょ」
 そう言いながら彼は僕のおでこに手を当てた。冷たい。これは、夢じゃない。「ううん、ちょっと熱いかな?」
 彼はそのまま手を引いて、リビングまで連れて来たかと思うと、僕をソファーに座らせた。「念の為、体温計とお水持ってくるから、いい子で待ってて」
 キッチンの方へと消える彼の背中を、僕はぼんやり眺める。
 カレンダーは、彼が消える三日前を指していた。

 その晩、僕は熱を出した。いろいろなことが一気に起きすぎて、頭が混乱していたのだろう。知恵熱のようなものだと思う。熱にうなされている間、綾時が面倒を見てくれていた。僕は眠って、起きて、また眠ってを繰り返す。だけど、目を覚ました時は必ず側に綾時が居て、それがとても安心できた。これまでのこと全部、夢であって欲しいと、何度も願った。彼が「うん、もう大丈夫かな」と言ったのは、僕がここに来た翌日の夜だった。
 ようやく僕が動けるようになったのは、次の朝——つまり、彼が消えたと気づいた朝の、前日だった。随分と時間を無駄にしてしまったように思える。朝、目が覚めると、朝食の音とコーヒーの匂いがして、ふっと息を吐き、胸を撫でおろした。冷たい廊下を素足で歩き、リビングに向かう。
「おはよう。調子はどう?」綾時が言う。
「もう大丈夫、ごめんね」
「そこは、ありがとうって言って」
「ふふ、ありがとう」
 僕の答えに、綾時は満足そうに笑う。「今日の朝ごはんはオムレツだよ」と彼は歌うように言って、食器を並べる。僕も支度を手伝ってから、椅子に座り、二人で食事を取った。二人で何かを食べるのは、とても久しぶりのような気がした。
 彼が作ったオムレツは、ふわふわで、中はとろけて、しかもチーズが入っていた。彼の料理は、年々うまさを増していく。僕は卵とチーズを噛みしめながらも、綾時に話かけてみた。
「ねぇ、綾時。僕に、何か隠し事とかない?」
「隠し事?」彼は首を傾げる。
「例えば、鳥を飼っている、とか」
 すると彼はふふっと笑い、「何それ」と言った。
「ほらこの前、君に羽がついてたから」
 あぁ、と彼は明るい声をあげる。「それで、僕が鳥を飼ってるって?」
 うん、と頷きながらも僕は、それだけ聞くと馬鹿みたいな話に聞こえるな、と思う。実際に、綾時はそう聞こえたに違いない。だけど僕の脳裏には、あの日見たたくさんの羽と、君の居ない家の冷たさが、鮮明に残っている。あれは、たしかに、夢ではなかった。
 綾時は穏やかな声で言った。
「僕は鳥なんて飼ってないよ。気になるのなら、僕の部屋を見たって良い」小さな子どもに言い聞かせるように、彼は続ける。「それにね、僕は君に、嘘はつかないよ」
 そう言われると、僕は黙って頷くことしかできなかった。確かに彼が、僕に内緒で生き物を飼う、なんて器用なこと出来るようには思えない。何となく分かっていたことだったけれど、これが最も現実的な推論だったため、確かめない訳にはいかなかった。
「熱にうなされている間、変な夢でも見た?」
 そうだったら良いのだけど。「そうかもしれない」
「念の為、今日は家でゆっくりしようか」
 彼の提案に頷き、僕はコーヒーを口にした。あたたかい。
 綾時が付けたテレビには、ちょうどニュースの天気予報が流れていた。アナウンサーは、今日の——僕が居た日の、前日の天気を告げている。
 今夜は綺麗な満月だそうだ。

 夜。僕と綾時はふたり揃って、ソファーに沈んでいた。地上波で流れる名作映画を、ぼんやりと眺める。何度も見たことある映画だから、僕はどうでもよかったのだけど、綾時が見るというから、それに付き合っていただけだった。案の定、台詞、ストーリー、音楽。何一つ頭に入らず、映像だけを目で追う。僕の頭は、これからのことでいっぱいだった。
 朝の時点で、彼は居なかった。もし、同じように事態が起こるのだとすれば、何かが起きる可能性が高いのは、今夜から夜明けにかけてだ。僕に何ができるのか、分からない。そもそも何が起きているのかも、分からない。だけどそれは、何もしない理由にはならない。
 いつの間にか映画は終わり、エンドロールが流れていた。
「そろそろ寝ようか」綾時はソファーから立ち上がるので、僕は慌てて彼のパジャマの裾を掴んだ。「ん?」
 僕は用意していた言葉を発する。
「今日、一緒に寝ても良い?」
「え」綾時は目を見開いて、固まった。
「ダメ、だった?」僕は追い討ちをかける。
 え、と彼からひっくり返ったような声が出る。それから少し目が泳いだかと思うと、僕の手を取り立ち上がらせた。
「ダメなんかじゃないよ。ただ、ちょっと、嬉しくてびっくりしちゃって」綾時は笑う。
「うれしいの?」
「そりゃあね」綾時は僕の手を握り直した。あたたかい。

 綾時の部屋は、綺麗に整っていた。整理整頓されている、というよりは、必要最低限の物しかないというのに近い。とは言っても、例えば人から借りた漫画や、ゲームセンターで取ったぬいぐるみ、お土産のお菓子の空き缶など、様々な物が飾られている。誰かとの思い出が詰まった綾時らしい部屋だった。
「たぶん僕の方が先に起きるから、君が奥で寝て」そう言われて、僕は先にベッドへと潜り込む。自前の枕を端に寄せて、寝転がる。人が居なかったシーツは冷たかった。すぐに綾時も横になり、僕の方へと詰め寄った。
「狭い」僕が言うと、綾時はふふっと声をあげて笑った。
「ひとり分の所で二人寝ようとしてるんだから、当たり前でしょ」
「もうちょっとそっち行って」
 はいはい、と彼は布団を除けて端に詰める。「これでどう?」
「うん、大丈夫そう」
「良かった」
 何が楽しいのか、彼はずっとくすくす笑っていた。「明かり、消すよ」
「うん」
 彼はベッドサイドのランプを消した。真っ暗な天井をぼんやり眺めていると、だんだんと目が慣れて来た。ちらりと隣を見やると、ちょうど綾時と目が合う。空と海を混ぜたような不思議な青い瞳は、薄暗い室内でも目立っていた。
「何?」僕が訊ねても、「ううん、何でも」と彼は答える。その声はとてもやわらかく、楽し気だ。
「何がそんなに楽しいの?」
「え?」
「さっきからずっと、楽しそうにしてる」
「あれ、そんなに分かりやすかったかな?」
 彼がごろりと寝返りをうって僕の方を向く様子を、目の端で捉える。天井を向いたまま喋るのも気が引けたので、僕も彼の方を向いた。二人分の重みを背負ったベッドが、少し軋んだ。
「あのね」綾時は口を開く。「僕はこうして、君と毎日を過ごせることが、すごくうれしい。それだけで十分なのに、今日は夜も君と一緒で、朝起きても目の前に君が居る」
「それって、いつもそうでしょ」
「そうだけど! でも、そうじゃないっていうか」綾時は少し口ごもる。「君と一緒に眠るなんて、随分と久しぶりのことでしょ? だから、少し楽しくなっちゃった」
 暗い部屋で、綾時が照れくさそうに微笑む顔が見えた。「それに、君から誘ってくれたのも、僕はすごくうれしかったよ」
「そう」僕は何て返せば良いのか分からなくて、短く返事をした。体の内側をくすぐられるみたいに、あたたかいけど、こそばゆい感覚がする。
「ねぇ、どうして今日は一緒に寝よう、なんて言ったの?」
「別に、何となく」嘘。本当は君を監視したくて、なんて、言えなかった。綾時は小さく笑う。「熱も出して、寂しくなっちゃったとか」
「そんなわけないだろ」
 ごめんごめん、と彼はふざけた調子で言う。「僕は寂しかったよ」
「え」
「君が居なくて、ひとりでご飯を食べている時とかね」
「それは」僕は小さな声をあげた。「ごめん」
「ううん、別に責めてるわけじゃないよ」綾時はそう言って、ぐっと体を寄せた。そのまま彼は、布団の上から僕に腕を回し、背中を撫でる。あたたかな体温が、僕の背に伝わった。「良かった、君が無事で」
 僕も、君に無事で居て欲しいと、声に出して言えなかった。僕は彼を拒むことなく、されるがままでいた。体を預け、目を瞑る。手を回すことはしなかったけれど、彼のパジャマの裾を握った。
 少しして、隣から寝息が聞こえ始めた。何か起きるなら今夜だと思っていたけれど、何の気配も予兆もないまま、彼は眠ってしまった。羽も、あの日以降、一度も見かけていない。僕の考えすぎか。もしくは、一度僕が時間を歪めてしまったせいで、結末が変わったのかもしれない。今夜は緊張で眠れないことを覚悟して来たけれど、二人分の体温を保ったあたたかな布団と、彼の穏やかな寝息が、僕の眠りを誘う。今度は僕が側に居る。何かあっても、手が届く場所に君が居る。
 ゆるゆると瞼は落ち、思考の波が断続的に流れ出す。いつの間にか、僕も意識を手放した。 
 
 ◇

 はっと意識が浮上する。
 大きな物音がして、僕は目を覚ました。隣に君の温度はない。
「綾時」僕は隣に居たはずの彼を、必死になって目で探した。嫌な汗が滲む。焦り、狭くなった視界の中、不自然に開かれたドアが目に留まる。僕は勢いよくベッドから飛び起きて、廊下へ続く扉を出た。
 僕は息を呑む。廊下からリビングへかけて、点々と黒い羽が落ちているのが見えた。暗い道では分かりにくいが、あの日見たように、羽軸に血が滲んでいるようにも見える。自分の息が荒くなっていることに気がつく。胸が上下し、鼓動が早まる。薄茶色のフローリングに残された羽に、目を奪われる。
 ガシャン、と大きな音がして、僕はようやく我に返った。廊下を駆け抜け、物音がしたリビングへと向かう。
「綾時」僕は大声をあげる。リビングはぐちゃぐちゃに荒れていた。椅子は倒れ、ソファーは動き、テーブルまでもずれている。散らばった羽に交じって、落ちたリモコンの電池が転がっていた。僕は彼の姿を探したが、どこにも居ない。引きちぎられたレースカーテンの向こう、窓が開いていて、外の明かりが漏れている。僕は走るように、ベランダへ向かった。
 綾時、と彼の名前を呼ぶ声は、出せなかった。
 ベランダに居た綾時は、僕の気配に気がついて、こちらを向いた。背に、黒く大きな翼を四枚、携えて。
 険しい顔をした綾時は、顔色が悪く、真っ白な肌に汗が滲んでいた。いつも伸ばされていた背筋は大きく曲がり、翼の重さに耐えているようも見えた。翼はだんだんを大きくなり、窮屈なベランダを羽で埋める。彼は前かがみの姿勢のまま、両手で顔を覆った。呻き声をあげながら、綾時はその場にしゃがみ込んだ。四枚の翼が大きく揺れ動き、強い風を起こす。髪が乱れ、両方の目が変わり果てた友を捉えた。
 そこでようやく、僕は鞭を打たれた馬のように、駆け出した。
「綾時」僕は彼の名前を呼びながら、素足が汚れることも気にせず、ベランダに飛び出す。冷たい。彼の翼がバサバサとはためき、僕の頬に擦った。小さな痛みが走る。生あたたかい何かが、頬を垂れて張り付く。がしかし、僕の足は止まらない。彼の目線に合わせてしゃがむ。
「綾時。おい、綾時」彼の体を軽く揺さぶる。顔を覆っていた手がだらりと垂れて、濁った瞳が僕を射抜いた。羽が僕らを覆うように、広がり、光を遮り暗くなる。僕は何度も、何度も、繰り返し彼に呼びかけた。次第に彼の青い目が揺れて、僕を捉えだす。
「綾時、分かる?」僕の問いかけに、彼は小さく頷いた。大きく広げられた翼がゆっくりと戻っていく。羽の隙間から、光が零れる。彼は苦しそうに眉を寄せながらも、「ごめんね」と小さく呟いた。
「謝らなくていい」
「でも、君を傷つけた」彼は力なく腕を伸ばし、僕の頬を指でなぞる。傷口に痛みが走り、彼の指を血で汚した。
「そんなの、今はどうでもいいだろ」
 綾時は青白い顔のままだったけれど、先ほどよりも少し落ち着いたように思えた。いつの間にか羽は小さく畳まれていて、彼の背に収まる。彼の顔がはっきり見えるほど、世界が明るいことに気がついて、僕はふと空に目をやった。
 そこには、異様なほど大きく、眩しい月が浮かんでいた。たしかに、満月とは聞いていたけど、何かがおかしい。眩しさで目が痛み、慌てて逸らした。周りを見ると、あちこちに羽が散らばっていて、そのどれもが淡く青い光を帯びていた。間違いない、あの羽だ。
「この羽、君のものだったんだね」
「そうみたい」
「みたいって?」
 綾時は何かを思い出すように、眉間に手を当てた。ふぅと苦しそうに息を吐く。僕は彼の背中をさすろうとして、躊躇った。羽のせいで、背中の辺りの服が不自然に破けていた。頬の痛みが、翼に触れるのは避けるべきではないかと主張する。結局、軽く頬に触れ、頭を撫でた。綾時は薄く口を開いて、ゆっくりと話出す。
「少し前から、体から羽が落ちるようになったんだ。朝、目が覚めて、ベッドに羽が落ちていて。君にばれないように、こっそり捨てた」僕は黙って、彼の話に耳を傾ける。「いつも夜になると、背中の肩甲骨の辺りから、羽が生え始める。だいたい一時間程度で一枚の羽が出来上がって、そのまま、枯れ葉みたいに落ちるんだ」
「何で、黙ってたんだ」僕は腹に力を込めて、できるだけ静かに訊ねた。あだが、どうしても彼を責め立てるような言葉になり、少しの後悔が胸の内を傷つける。
「君に、余計な心配かけたくなくて」綾時は力なく笑った。「だって、不気味でしょう? 背中から羽が生えるなんて、まるで、人間じゃないみたい」
 そう言って綾時は、月を見上げた。
 僕はその横顔を眺める。ひどく、寂しそうに見えた。
「でも実際、そうだった」彼は目を伏せる。「僕、行かなきゃいけないみたいなんだ」
「え?」
「その為に、今夜、翼が生えた」彼は優しく僕の手を除けると、ふらつきながらも立ち上がった。先ほどよりも、ずっと顔色は良い。開かれた青い瞳は、真っすぐ僕だけを見ていた。「お別れしなきゃ、君と」
「何、言ってるんだよ」
「そのままの意味だよ」彼は一歩、二歩と僕から離れ、ベランダの手すりに腰掛けた。羽が四枚広がって、冬の夜空に溶け込む。月を背負って、彼は笑った。
「僕は帰らなきゃいけない」
「帰るって、どこに」
「月に」綾時は人差し指を立てて、空を指さす。「どうやら僕は、あそこから来たみたいでさ」
「そんな」僕は揺らぐ視界で、彼を見つめる。
「ついさっきね、すべてを思い出したんだ」
 そう、全部。彼は小さく繰り返す。僕の知らないどこか遠くに、思いを馳せているようだった。
 綾時は、手を伸ばせば届く距離に居て、しがみ付けば、取り押さえることもできそうだった。だけどどうしてか、体が上手く動かない。
「最後に君に会えてよかったよ」
「いやだ」僕は大声をあげる。「いやだ」
「どうか泣かないで」
「じゃあ、行かないで」
「それは、できないよ」綾時は、困った子どもを見るように笑って見せた。「僕、そろそろ行かないと」
 彼は今一度、翼を大きく広げ、月を隠す。
「さようなら」
 綾時は手すりを掴んだ手を離し、ゆっくりと後ろに倒れた。重力に従って、彼の体は勢いよく下に落ちる。遮るものがなくなり、満月が僕をあざ笑うかのように、顔を出す。
 僕は、言うことを聞くようになった足を縺れさせながらも、彼の居た場所に駆け寄った。身を乗り出して、下を覗く。僕は暗い夜道を必死になって、目で探したが、死体どころか、人ひとり見つけられなかった。
 腕の力が抜けて、その場座り込んだ。今になって、冬の夜風の冷たさが、体に沁みる。寒さのおかげか、混乱する頭も次第に落ち着きを取り戻し、なるほどこういうことか、と片隅で思った。きっと、一度目の冬も同じだったのだろう。体の変化と記憶が戻る痛みによって綾時が暴れ回ったから、彼の部屋が荒れていた。今回は、僕がすぐ横にいたから、傷つけないよう部屋を出たのだろう。
 そしてそのまま、月へと帰った。
 たしかに、鳥は飼っていないから、嘘はついてない。が、屁理屈みたいなものだ。
 僕は目を瞑って、今見た光景を思い出す。彼の顔、声、話していたことを、忘れないように、ひとつひとつ丁寧になぞる。彼の言っていたこと、言葉の選び方。その全部が、ヒントになるはずだ。彼を、僕の側に縛りつけるための、手掛かり。
 パチリ、と頭の中で何かが弾けて、浮かんだ。
 目を開き、僕は辺りを見回す。散乱した羽の中から、一際青く光るものに目をつけた。
 僕の予想が正しければ、おそらく。
 僕はあの日のように、羽に手を伸ばす。
 一縷の望みをかけて、彼の残した羽に触れた。
 

 √C
 
 目の前に羽が落ちた。なんて、さすがに三度目となれば驚きもしなかった。それ以上に僕は、予想通り、三日前に戻れたことに、喜びを感じていた。僕は慎重に、羽には触れないように気をつける。
「綾時」
「ん?」彼がこちらを振り返り、マフラーが揺れた。
「何か落ちたよ」「え?」
 彼は足元を見ると、一瞬、目を大きく見開いた後、羽を拾い上げた。これまでの僕は動揺していて、彼の些細な変化には気がつけずにいたのだと、ようやく分かった。
「それ、羽?」僕は白々しく訊ねてみる。
「そうみたい。マフラーにでも引っ掛けて来ちゃったかな?」
「そうかも」
「もったいないけど、捨てて来ちゃうね」
 僕は頷く。「だけど綺麗だね、それ」
 僕の言葉に、綾時は曖昧に笑ってみせた。

 今度の僕は、熱を出すことはなかった。二回目で、さらに意図的に時空を飛んだため、体の方も慣れて来たのだろう。僕は三日間、できるだけ長く彼と一緒に居るようにした。僕が寄ると、綾時はいつもより楽しそうに見えて、嬉しかった。やっぱり、この時間を永遠のものにしたい。
 三日目の晩、つまり綾時が全てを思い出してしまう日。僕は、彼と一緒に眠ることはせず、準備に取り掛かった。必要なものを取り揃えて、自分の部屋でじっと待つ。綾時の変化を見逃さないよう、眠ることはしなかった。
 夜、十二時頃。微かに物音が聞こえて、僕は道具一式を引きずり、綾時の部屋の前に立つ。耳をそば立てると、彼の暴れる声が聞こえた。
 そっと扉を開くと、予想通り。翼が生え始め、記憶の混濁に苦しむ綾時の姿があった。少しずつ近づく僕に気がついて、いつもと違う鋭い瞳がこちらを射抜く。綾時は目を丸くしたかと思うと、すぐに「来ないで」と声を荒げた。
「大丈夫」僕は言う。「大丈夫だから」
 彼は黙り込んで、僕を見つめている。納得したのか、反論する元気もないのか、僕には分からなかったけど、反抗がないのを良いことに僕は彼に近づいた。闇夜の黒い翼が威嚇するように、大きく広がる。狭い部屋にぶつかって、何枚か羽が舞い落ちた。僕は、降り落ちる羽を避けながら、真っ直ぐ綾時の所へ向かう。ベッドの上で、痛みに喘ぐ彼を抱き寄せる。翼が大きく広がり、腕を回せなかったから、彼の顔を包み込み、胸元へと寄せた。
「大丈夫だから、落ち着いて」聞こえているか分からないけど、僕は何度も繰り返す。「大丈夫、何とかなるから」
 風を切り広がる羽は、次第に落ち着きを取り戻し、小さく畳まれていく。彼の背に収まるぐらいの大きさへと戻ったところで、僕は手を離した。綾時の目線に合わせて、顔を窺う。目は虚で、顔色は良くないけれど、正気を取り戻し始めたようだった。僕はほっと一呼吸おいて、軽く彼の顔を撫でてから、その場を離れた。
 僕は用意していた袋の中から、必要なものを取り出す。まだ混乱が残る綾時は、作業をする僕の背を大人しく眺めていた。僕は、ゴム手袋を両手にはめて、白く清潔なタオルを持って彼に近づく。無防備にこちらを見つめるだけの綾時の口に、タオルを巻きつけるのは簡単だった。
 彼は丸い目をさらに丸くして、手足を、羽をバタつかせた。まるで、電池の入ったおもちゃみたいに、急激に動き出す。タオル越しで、綾時はくぐもった声をあげる。何を言っているかまでは、聞き取れなかった。僕は、彼の体をうつ伏せに抑えつけて、馬乗りになる。翼は抵抗を続けたけれど、決して僕を傷つけることはしなかった。これも、予想通り。僕は、翼の回りの服を破いて、邪魔なものを取り除く。持っていた包丁を、彼の背に刺す。
 四枚の翼、まずは一番左上の羽の根元に、包丁の切っ先が当たる。力を入れると、皮膚が刃にめり込んでいき、血が滲み始める。一度包丁を退かすと、血の流れる勢いが増した。傷をつけた箇所に向かって、今度は肉をそぎ落とすように、斜めから刃を入れる。刃を動かすと、血管や神経のような、繊維質の何かがブチブチとちぎれる感触が伝わって来た。鳥の羽の捌き方なんて分からなかったので、肉を削ぐようなイメージで刃を動かすと、少しずつ表皮が浮いて、剥がれる。良い調子だ。途中、コツと堅いものに刃が当たった。肉を捲って確かめると、白い骨のようなものが見えた。おそらく、翼の根元の部分だろう。包丁で、骨は切れない。
 僕はここで一息吐いて、垂れる汗をぬぐった。見ると、いつの間にか綾時は抵抗をやめて、だらりと横たわっていた。意識はあるのか、シーツを強く握る手が見えた。ひゅうひゅうとか細い音と、上下する背を眺める。羽にも神経が通っているけれど、切られているのは人間の表皮の部分だ。死にはしない。もう少し、良い道具があればと思っていたのだけど、一般家庭で準備できるものなど限られている。仕方がない。
 僕はもう一度、包丁を突き刺して、同じような手順で動かす。綾時の体が痙攣し、シーツを握る手に力が籠った。翼の根である骨を残して囲うように、薄く肉を削ぐ。それから僕は、包丁を置いて、彼の翼を両手で持った。僕の頭から胴体までと同じぐらいの大きさの羽は、今は力なくぐったりとしている。僕は力を込めて、羽を本来とは反対の向きに倒し、骨を折った。反射的に、綾時の体が大きく跳ねる。が、声をあげることはなかった。慌てて首を触ったが、脈はある。単に痛みに慣れてしまったのか、それとも声をあげることを諦めてしまったのかもしれない。綾時の体は熱く、僕の手は冷たかった。
 僕は、無事に取り出すことのできた一枚の翼を少しの間眺めた。表面は艶やかだが、手を深く入れると羽毛が柔らかく、あたたかい。十分感触を楽しんでから、翼を床へ放った。
 とりあえず一枚。残り三枚。
 息も絶え絶えな綾時のことを考えると、一気に削ぐのは良くないかもしれない、と思い直す。なんにせよ、綾時は傷つき、羽が一枚欠けている。これでは今夜、380,000キロメートル飛ぶのは無理だ。
 ざまあ見ろと、僕は窓から月を見た。


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