死者と暮らす際、必ずご視聴ください
冷たい風に頬を撫でられ、ふわりと意識が浮上する。ベッドの上、起きたばかりの頭の中に開けっぱなしの窓の絵が浮かんだ。ああ、昨夜ちゃんと閉めておけばよかった、と後悔の念を抱きつつ、わたしは羽毛布団の中に顔を埋めて、寒さを誤魔化す。少しだけ感じるぬくもりが心地よく、再び意識が途切れ始めた。良い感じに眠れそうだ。昼間は服に困るくらいあたたかなのに、朝はきっちり寒いだなんて。そう思ったところで、わたしは一つの違和感に気がついて、そこから芋づる式に思考が続く。
あり得る可能性は大きく二つ。あれが風じゃないとしたら、きっと"彼"は側に居るはずだ。どうしたものかと思いながら、わたしはより一層布団の中で縮こまった。寝起きの顔は、できるだけ見られたくない。今更何にもならないかもしれないけれど、少しだけ目元を触ってみた。更にちょっと悩んで、惰眠を貪る幸せと、彼のことを天秤にかけてみる。彼から直接聞いたことはないけれど、眠ることなく独りで過ごす長い夜は、きっと寂しい。少なくとも、朝になってわたしが起きて来ると、彼はいつも嬉しそうに笑うのは、事実だった。彼と出会って数か月、わたしは随分とその顔に弱くなってしまった。それに、今日と明日の休日が終われば、また仕事が始まる。また、長い時間を一緒に過ごすことはできなくなる。
わたしは、覚悟を決めて布団から顔を覗かせた。カーテンに塞がれた薄暗い部屋の中で、はっと小さく息を呑む音がする。何の意味も込められていない小さな音。だけれど、たったそれだけで、彼の表情がぱっと明るくなる姿が想像できる。昂ぶりながらも、それを抑えつけるような、震える感触。やっぱり、こっちのパターンだったか。そう思いながら、ごろりと寝返りを打ち、彼の方を向いた。
「ああ。素敵な貴方、おはようございます」
返事をしようと喉を震わせ、結局口から出たのは「ん」という短い返事だった。わたしが、朝がひどく苦手だということを、彼はすでに知っている。だから、この失礼な言動にも微笑むだけで、慣れた手つきでカーテンを開いた。朝日が部屋に飛び込んで、部屋が一気に明るくなる。目をぎゅっと瞑り、顔を顰めた。そのまま天井をぼんやりと見つめていると、視界いっぱいに彼の顔が映り込む。あまり顔を見られたくなくて、わたしが再び潜り込もうとした布団を、彼はゆったりとした動作で抑え込んだ。
「ほら、ご覧ください。美しい朝日が昇っておりますよ」
「わかってる」
渋々動き始めると、彼はひょいと後ろに引く。ふわりと体が浮かぶ姿は、彼の優雅な動きを際立たせる。わたしは足だけ布団に覆われたままベッドに座った状態で、ゆっくりと瞬きを繰り返し、少しずつ目が覚めるのを待った。ちらりと壁を見やると思った通り、きっちりと鍵のかかった窓が見えた。それから、彼――スカリー・J・グレイブスの方を向いて、ようやく「おはよう」を告げる。これは、わたしが起きる意思があるという合図になる。
「ええ、ええ!」彼は嬉しそうに笑みを浮かべた「ふふふ、おはようございます」
わたしはうんと頷き、あたたかな布団を退かしてベッドから降りる。先ほどまで彼が立っていた辺りの床は冷えていた。彼はニコニコと幸せそうに笑いながら、わたしの方をじっと見つめている。その顔や仕草を見ていると、「あなたのせいで目が覚めたんだけど」とか「寝起きの顔はあまり見られたくないんだけれど」とか、何も言えなくなってしまった。
「コーヒーを淹れましょう。それから朝食に、パンケーキでもいかがでしょうか。もちろん、貴方の好きなクランベリーも添えてお出ししますよ」
スカリーはこちらへ腕を伸ばす。しかし、指先がわたしに触れる直前、彼の動きが固まったかと思うと、そのまま手を引きドアの方へと指先を向けた。手を繋ごうとしてやめたのだな、とわたしは察した。彼がゴーストとしてどれほどの時間を過ごしているのかは知らないが、時々こういうぎこちない動きをする。ゴーストとして人と関わることに不慣れな様子。わざわざそれを指摘するのも憚られ、わたしは「ありがとう」とだけ言った。
わたしの歩幅に合わせ、スカリーはゆったりと歩き出す。部屋を出た時、彼は寝室のドアを完全に閉め切ったのを、視界の端で捉える。二度寝は許してくれなさそうだ。二人で歩く廊下には、人間ひとり分の質量を持った足音がした。やや下を向いたわたしの視界には、夜に冷えた廊下が、揺れる彼の手を通して、ぼんやりと見える。そのまま、透けた白い手に触れてみるが、するりと彼を通り抜け、掴むことはできない。ただわたしの手が、ひどく冷えただけだ。
「どうかしましたか?」
スカリーは立ち止まると、体を大きく曲げて上から覗き込むように、こちらの顔を窺った。ふわふわとした白い髪が垂れるのを見て、ゴーストにも重力って適応されるんだな、と思う。彼はわたしよりずっと背が高いからこうして顔を近づけないと、時々声が聞こえにくいと前に聞いた。ずっと昔からの癖なのだと。それを初めて聞いた時、一つの仕草が癖づくほど、人と過ごした時間があったのかと、少し驚いたのを覚えている。
「ううん、なんでも」
スカリーは不思議そうな顔をして、黙り込んだわたしを見る。ぐるぐると渦巻くオレンジが、じっとわたしを捉えて、言葉の真意を探ろうとする。わたしは、何にも分かっていませんよといった顔をして、「わたしがぼうっとしてて、ちょっとぶつかっただけ。ごめんね」と続けながら、わざとらしく首を傾げてみせた。
「ふむ」と彼は少し考えるような仕草をしたが、納得したようで、微笑みながらも元の姿勢へと戻った。「朝のお食事は我輩がご用意いたしますので、貴方様はどうぞ、ごゆっくりとおくつろぎください」
スカリーがくるりと指を回すと、彼の服がたちまちグレーと白のコックコートに変化する。ふわふわのコック帽まで添えているのが、いつものスタイルだ。
魔法が見慣れないわけではないけれど、わたし自身は使えないものだからか、いつも彼の魔法はとても素敵なものに思える。スカリーはそのまま迷うことなく、そして機嫌よさそうな足取りでキッチンの方へと消えていった。もはや家主であるわたしよりも、この家に馴染んでいそうだ。たった一か月でここまで生活に溶け込むものなのかと、感心する。
夏の終わりの頃、わたしはこの不思議なゴーストと出会った。
わたしがこの街に越して来たのが、今から半年ほど前のことだ。丘の上に建つこの家は、街からは少し離れているけれど、立地は決して悪くない。一階と二階、それに屋根裏部屋のついたオレンジ屋根の立派な家だ。ただ、すぐ隣には墓地が広がっていて、窓を開ければずらりと立ち並んだ墓石が目に入る。この一点によって、相場よりも安価となっているいわゆる訳アリ物件だった。
その時のわたしは、たとえ墓地が見えようともひとりで生活ができれば何でも良かった。一刻も早く、故郷から離れたかったのだ。何か特別なことがあったわけではないが、具体的にどこがダメだ、何が嫌いだ、と指摘するのは難しいけれど、どこか息苦しく感じていて、苦手だった。とはいえ、生活に支障をきたすほどではなく、その上でいきなり一人で飛び出す勇気も持ち合わせていなかったから、定職に就いてからしばらく経過し、経済的にも安定してから家を出ることにした。そのせいで、通勤のことも考えた土地選びとなり、どうしても職場からも遠くなく、だけれど故郷よりは遠く離れたこの街が良かったのだ。
慣れない新生活が落ち着き始め、少しずつこの街にも慣れて来たある日、帰宅してみると見覚えのない四角い物が、ダイニングテーブルの上に置かれていた。近づいてみると、四角い物の正体がビデオテープであると分かった。
タイトルは『死者との共存』。
パッケージは鮮やかな青色をしていて、下の方にオレンジの屋根をしたかわいらしい家と笑顔のゴーストの絵が描いてある。どこかチープな絵柄は、独特の愛嬌があって、かわいく見えた。イラストを眺めながら記憶を辿るが、まるで覚えがない。実家でもこの家でも見たことがないもの。おそらく、わたしの所有物ではないと思う。あらすじや詳細が書いていないかと、ビデオを手に取り裏返す。その瞬間、突如上から現れた黒い手袋が、ケースを掴み文字を隠した。わたしは、弾かれたように上を見る。
「ああ。ようやくこちらを向いてくださいましたね」
目の前に浮かぶ長身の男はうっとりとしたように笑う。「こんにちは、素敵なお方」
男はそのまま、呆然とするわたしの手から、するりとビデオテープを抜き取り、懐へとしまう。わたしは叫びこそしなかったが、心臓が耳にあるのではないかと思うぐらいにうるさく鳴り響き、頭の中が真っ白になった。掴む物を失った手は半開きのまま空に浮いていて、ポカンと口を開けた自分自身の間抜けな顔が、男のサングラスに反射して見えた。ゆっくりと視界が滲み、瞬きをすると涙が一つこぼれ落ちる。目の前の彼は驚いたような顔をして「ああ、ああ。どうか、どうか泣かないで」と、わたしの目元に触れた。しかし、わたしの涙は拭われることなく、重力に従い顎まで伝う。彼の手はわたしをすり抜け、代わりに冷たい風が頬を撫でた。あまりの寒さに肩が跳ね、反射的に男の手から身を避けてしまった。滲む視界、サングラス越しに、男が大きく目を見開く顔が見えた気がした。彼はゆっくりとわたしから手を引き、それから呆然とした様子で自身の手のひらを眺めていた。
どうやら、悪い人ではなさそうだ。彼のひとつひとつの仕草から、直感的に思う。少なくとも敵意がない様子が伝わってきて、わたしはようやく、周りを観察できる程度には落ち着きを取り戻す。
男は、細いストライプと所々につぎはぎの縫い目が施されたスーツを身に纏っていた。白く柔らかそうな髪をしていて、黒い菱形の髪飾りがよく映えている。丸く大きなサングラスをかけていたが、不思議と表情が読みにくいとは感じなかった。今も、己の手を見つめる横顔は、何かに傷つき、寂しそうに見える。サングラスの隙間からは、ぐるぐると渦を巻いたオレンジ色の瞳が覗いていた。
彼はハッとした様子でこちらに向き直る。思わず目が合った。じっと観察していたことが気まずくて、すぐに目を逸らした。
「とんだご無礼を、お許しください」
はあ、と曖昧な返事をする。聞きたいことが山ほどありすぎて、何から発して良いのか分からない。
「こほん」と彼はわざとらしく咳をして、一呼吸をおいた。「お初にお目にかかります。我輩の名は、スカリー・J・グレイブス」男はにこりと、人の良い笑みを浮かべる。「しがないゴーストでございます」
え、と自分でも驚くほどの大声をあげてしまった。恥ずかしくて、慌てて口元を手で隠す。その様子を、目の前のゴーストと名乗った男は、ニコニコと見つめていた。
わたしはダイニングから、窓の外を見る。晴れた空の下、今日も墓地がよく見える。綺麗に並んだ墓跡を横目に、あたたかいコーヒーを一口飲む。コーヒーとミルクが7:3の割合で混ざった、わたし好みのカフェオレだ。キッチンの方を見ると、ちょうどスカリーがホットケーキを盛り付けている所だった。声をかけてもいないのに、彼は顔をあげ当たり前のように目を合わせてきたかと思うと、ニコリと微笑んだ。
「もうすぐ出来ますからね」
「はーい」
大人しく椅子に座って彼を待つ。以前は、何か手伝うことはないかと声をかけたり動いたりしていたのだが、そうすると彼は「貴方は何もしなくて良いのですよ」と、何度も椅子に戻してくるから、自分から何かするのはやめた。程なくして、スカリーは一枚のお皿を片手にやってくる。
「はい、どうぞお召し上がりください」
「いつもありがとう」
「いいえ。とんでもございません」彼は、なんてことないように言う。優しそうな声だった。
焼きたてでふわふわのホットケーキには、チョコチップが混ざっていた。わたしは、一口サイズに切り分けて、添えられたクランベリーのジャムをつけて食べた。
「おいしいです」目の前に座る彼に伝える。
「ああ、それはよかった」スカリーはニコニコと頬杖をつきながら、食事をとるわたしを見つめていた。こうして、人に見られながらひとりで食事をすることにも慣れてしまった。スカリーが現れてから、彼がわたしの生活は確実に変わっている。
ひとりで暮らしたいと願い、遠いこの地まで越してきたにもかかわらず、わたしはこの奇妙なゴーストとの共同生活を受け入れている。大きな矛盾だ。そればかりかこの生活に愛着すら湧いていた。
この生活がいつまでも、なんて甘い願いは、パンケーキと一緒に飲み込んだ。