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両手をコートのポケットに突っ込む。早足で歩くと、肩にかけていた手提げ鞄がずり落ちる。鞄を持ち直しポケットに手を入れる。歩く。ずり落ちる。それを繰り返す。図書館で借りた本が思ったより重く、分厚く、鞄が持ちにくくなってしまった。予定していたよりも、遅い時間の帰りだ。急いで戻らなければ、彼が不貞腐れてしまう姿は目に見えている。わたしは、一人分の食料と、スカリーに頼まれたお使いの品を鞄いっぱいに詰め込んで、自宅へと続く丘を登っていた。ゴーストの彼は買い物には行けないから、いつもわたしが彼の欲しいものまで買ってくる。それは酸味のある林檎であったり、たくさんのバターであったり、珈琲豆であったり。多くは、彼の作りたいメニューに関するものだ。時々、違うものも頼まれるけれど。今日の食材を見る限りだと、今宵はシチューだろうか。あたたかい食べ物がおいしい季節になってきた。
家に入る前にポストの中を確認すると、いつも通り夕刊と不動産のチラシが一枚入っているのが見えた。不動産屋は、この家をもっと良い相手に売り払いたいらしく、似たような物件が載ったチラシを定期的に投函してくる。この家を担当していた中年の女性は、「まだお若いでしょうに。本当にこちらの物件でよろしいのですか?」と、最終契約を結ぶその時まで言っていた。この家を離れるつもりはないと何度も言っているのだけれど、向こうも粘り強い方らしい。新聞とチラシを抜き取ると、ポストの中からコツンと硬い音が聞こえた。もう一度覗き込むと、馴染みのない手紙が一枚、中に残されていた。腕を伸ばし取り出すと、それは真っ赤な分厚い封筒だった。触っただけで分かる上質な封だったが、見たところ送り先の住所や切手は何もない。つまり、ポストに直接投函されたということだ。
わたしは思わずため息を吐く。生活に混ざる奇妙さには、慣れつつあった。封を裏返してみると思った通り、宛名はスカリー・J・グレイブス。わたしの周りに起こる奇妙なこと、不気味なこと、不可解なこと。それら全てを突き詰めると、同居人であるゴーストの彼へと集約する。
封をよく見ると、右下にマークが記されているのが見えた。丸型のロゴで中央に大きくGLSCと書かれている、何かの機関のマークのようだった。わたしは丸に沿うように書かれた文字を読もうと、封筒をぐるぐると回した。
「Ghost 、Life 、Support Center ?」
ゴースト生活支援施設。名前からして役所や社会福祉施設のようなものだろうか。大きく書かれたGLSCは施設名の頭文字だ。『二つの世界の平和のために』とも書かれていて、おそらくここのキャッチコピーだろう。二つの世界、というのはあの世とこの世のことだろうか。この世の常識に則るなら、赤色封筒は緊急を要すること、あるいは何か悪いことを示す可能性が高い。まさかな、と思いながらも、正直なところ「彼は何かあの世で目を付けられている」と誰かに言われても納得してしまうのも事実だ。本人は心からそれが正しいと思っているのだろうが、根っこがどこか人とずれている節があり、彼が何らかの目的の為に法律違反をしていた、なんて言われても意外性はない。そもそも、あの世が本当に存在していて、法やら生活支援やらがあるのかも、よく知らないけれど。
考えても仕方ない。わたしは食べ物でいっぱいの鞄を持ち直す。外の空気ですっかり冷えたドアノブを捻り、家の扉を開ける。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさいませ」玄関を目指して、スカリーが飛んでくる。「思いの外遅かったですねえ。何かありましたか?」
「すみません、ちょっと図書館まで寄っていて」ここは正直に話す。
「そうでしたか。もう少し遅くなるようでしたら、我輩が街まで迎えに行こうかと」
「いえいえ。そんなの、申し訳ないです」危なかった、と内心思う。
街で彼に話しかけられても、ひとりで空気に向かって話す変人と思われてしまう。かと言って、スカリーの話を無視してしまうと、彼が落ち込んでしまい、ご機嫌を取るのに苦労するため、困るのだ。ご近所さんとは良い関係を築いていたい。
「頼まれていた物、全部買ってこれましたよ」
「ありがとうございます」
「あと、これ」わたしは彼に渡す。「届いてました。スカリーさん宛です」
「ん?」
彼は身を屈め、怪訝そうに封を受け取り、裏返す。何の手紙でしたか? と訊ねようとしたのだが、すとんと表情が抜け落ちたスカリーを見て、言葉を飲み込んだ。いつもはやわく上がっている口角は、地面と平行に結ばれていて、丸みを帯びた目は少し吊り上がっている。彼が不機嫌を露わにする様は、初めて見たかもしれない。無言のまま立ち去ろうとする彼の背中を追いかけて、わたしも慌てて廊下を進んだ。紙を破くような音がしたので、さらに足を早めリビングへと飛び込む。スカリーは黙ったまま、手紙の端から端へと目を走らせていた。テーブルの上には封の切られた赤い封筒が置かれており、少しだけほっとする。手紙を見ないまま破り捨てたのではないかと思った。
「あの、大丈夫そうですか?」恐る恐る彼の顔を覗き込む。ついでに、手紙の内容が透けて見えないかなと期待したが、残念なことに何も見えなかった。パチリ、と目が合ったかと思うと、先ほどまでの無表情な顔は嘘かのように、にこりと微笑まれる。
「ええ、優しい貴方。心配せずとも、我輩は大丈夫ですよ」
スカリーは手紙を丁寧に畳み直すと、ジャケットの内ポケットにしまい込んだ。彼はわたしに見られたくないものをいつもそこに隠す。スカリーは壁にかかった時計とカレンダーの方をちらりと見た。「ふむ。誠に申し訳ないのですが、我輩は少々出かけなければならないようです」
「えっと、どこに?」
「あちら側です」彼は地面を指し示す。
「いつ?」
「今からです」
「え」
あまりの急展開に振り落とされそうになる。彼が今すぐ家を飛び出すだなんて、そんなに深刻な内容だったのかと、わたしは不安に駆られた。やはりあの封筒は、あの世からの重大な手紙だったのだろう。一瞬で、わたしの頭の中に、いくつかの推測が浮かんで駆け抜けた。ゴーストと共に暮らす人々は見たことがあるから、それで罰せられることはないはずだ。じゃあ、あの時わたしがビデオに触れたのがダメだったのかもしれない。あれは生者に見られてはならない物であった、とか。それとも、この生活を維持する上で、わたしの知らぬ所で彼があの世の法を犯しているとか? スカリーのことだ、あり得なくはない。いずれにせよ、今の生活が崩れてしまうことは、避けたい。
不安が顔に出ていたのか、スカリーはわたしの目線に合うように屈み、安心させるように微笑んだ。「大丈夫ですよ。今すぐに飛び立てば、明日の朝には帰って来られるはずですから」
「そうなんですか?」
「ええ。我輩としても、あまり長い時間貴方と離れるのは、本意ではありませんからねえ」彼は顔を大きく顰める。「あんな者のせいで、我輩たちの生活が脅かさせるなど、まったく不愉快極まりない」不機嫌を露にした表情から、徐々に明るい顔になる。表情がコロコロとよく変わる人だ、と場違いにも思う。「ですが、それもこれも、貴方との生活を思えばこそ」
「そうなんですね」事態を漠然としか掴めていないわたしは、適当な相槌を入れた。彼との会話は黙っているよりも、兎に角相槌を入れておくのが大事であると、最近学んだところだ。何の反応もしないと、延々とおしゃべりを続けているか、「ご気分を悪くされましたか?」と落ち込んでしまうことが多い。
「ああ。我輩が貴方に触れられたなら、貴方を覆う不安も涙も、全て拭って差し上げるのですが」
「いえ、十分ですよ。ありがとうございます」
「我輩としては、まだ十分にお伝えし切れていないのですがねえ」彼は眉を下げる。「まあ、今はまだ良いでしょう」
さて、と言って彼がくるりと魔法を使うと、一つのトランクが現れた。ざらりとした黒い革で出来たトランクは、物の良し悪しに疎いわたしですら、質の良いものであることが伺える。口が180度開く型のようで、使い勝手が良さそうだった。わたしも、お仕事の鞄をああいうものに買い替えようかしら、なんて思う。彼のトランクには小さな傷や汚れがいくつか見られ、その使用感からこれまでの彼と鞄の旅路を連想させた。スカリーがトランクを片手に持つとしっくりと似合っている。まさに旅の相棒、というような雰囲気だ。
「あの」彼は控えめに声をかけてくる。「よろしければ、お見送りをしていただきたいのですが」
頬に手を当て、少し照れくさそうに言う彼に驚き、反応が遅れた。彼の恥じらうポイントがよく分からない。慌てて「いいですよ」と告げると、彼は表情をゆるめる。スカリーは玄関に向かって廊下を歩き始めるので、わたしも並んでついて行った。
「あの世って玄関から行ける所にあるんですか?」
彼は小さく笑うだけで、答えてはくれなかった。ただ彼が玄関から見送って欲しいだけなのだろう。スカリーは玄関ドアの前に立つと、くるりとこちらを振り返る。
「本当は我輩から貴方へ、いってきますのキスを贈りたいのですが」
「いえ、大丈夫です」
「ふふふ。ええ、貴方に触ることはできませんので。今はこれでお許しください」
そう言って彼は、自分の唇に手を当ててから、こちらへ指先を向け、ふっと小さく息を吐く。
わたしは一瞬、何が起きたのか分からなかったが、すぐに思考が戻ってきたと同時に、ぶわりと体温が上がるのが自分でも分かった。胸が高鳴り、情けなく緩みそうになる顔を隠したくて、口元を両手で覆う。手に触れた頬が熱い。「え」、と意味の伴わない声だけが勝手に溢れ落ち、どう返すべきか分からない。
「先日見た映画で、このようなことをされていたでしょう? これなら、触れずとも喜びのキスを届けることができると思い、ぜひともやってみたかったんですよねえ」
「なるほど」
「喜んでいただけたようで、何よりです」
彼はくすくすと笑う。きっとわたしは、照れや喜びや驚きが混じった、間抜けな顔をしているのだろう。
わたしは言い返す言葉を探したが、事実なのだから否定しようもなく、「はい」と一言だけ告げた。「ほら、はやく行かないとなんでしょう」
「ふふふ。そうでしたね」
「いってらっしゃい」
わたしがそう告げると、彼は顔を綻ばせた。
「ええ、ええ! いってきますね」
スカリーは、機嫌良さそうに玄関から外へと出ていった。開いた扉の隙間からは、いつもと変わらない風景が覗き、家の中に少し冷たい風が流れ込む。ここからどうやってあの世に向かうのかは、謎のままだ。
ばたり、とドアの閉まる音が、いつもより大きく聞こえた。
テレビボードの下、たくさんのDVDのパッケージの背を見つめる、どれもこれも、少なくとも三、四回は見たことがあるものばかり。それも、同じ監督の作品であったり、同じ映画会社であったり、ストーリーや物語の雰囲気がどこか似ていたりする。要はわたしの好みしか反映されていない、偏ったラインナップだ。今日はどれを見ようかと指をさまよわせ、一本のDVDを手に取った。わたしの記憶が確かなら、ここ数年は見ていないはずだ。謎の生物の飼育方法を誤り、街が大破壊されるSFブラックコメディ作。ふわふわの毛並みをした生き物の見た目がかわいく、動きもコミカルでおもしろい。特に映画館のシーンがお気に入りだ。これなら彼も好きかもしれない。
「じゃあ、一人で見たって別に」わたしの呟きは独り言となり、誰もいない部屋に消えた。今はひとりきり何だから、自分がしたいようにすれば良いのに、とDVDを元の位置に戻す。無意識にそれを選び取っていた自分に驚き、自分でも動揺しているのが分かった。彼の存在を当たり前のように感じている自分が、間違いなくここに居る。
結局わたしは、先週一緒に見た作品たちから、今の気分に合った一作を選んだ。彼も好きだと言っていた、ゴーストと少女のロマンス。正しくは、子ども向けのファンタジーコメディなのだろうが、わたしはこれをロマンスだと思っている。死者を甦らせるマシンだなんて、どうやって作るのだろうか、とぼんやり考えてみる。この世の摂理に背いてまでもう一度逢いたい人。その気持ちが今なら少し分かるかもしれない、と考えてみたがあまりぴんと来なかった。わたしは、現状維持が良いのだろうな、と自分で自分を分析してみる。別にゴーストだろうと生者だろうと、そこに居ればそれで良い。
映画はきっかり百分間。みるみるうちに日が暮れて、明かりをつけていない部屋は真っ暗になってしまった。テレビの明かりだけが眩しく残り、まるで映画館のようであり、目に悪そうでもある。軽快な音楽と共にエンディングが流れ出したタイミングで、わたしは立ち上がりリビングに明かりをつけた。時計を見ると、時刻は夕方五時過ぎ。子どもたちはそろそろ家へと帰る時間であり、わたしは夕飯の支度を始めるには、ちょっと早いけれどまあまあ良い時間だ。長い時間座っていたせいで凝り固まった体を伸ばし、テレビを消す。自分で夕食を作るなんて、随分と久しぶりのことのように思えた。
買い出しに行くのはわたしだけれど、この家に何の食材が残されているのか、わたしは知らない。手を洗いキッチンへと赴いたわたしが最初にしたことは、冷蔵庫を上から順に開けていき、何があるかを確認することだった。ざっと中身を見てまわり、戸棚の中も確認すると、だいたいのものは揃っていそうだった。調味料や食器など、細いものの位置が大きく変わっていて、先に確認しておいて良かったと思う。もし、そのまま料理を始めていたら、必要なタイミングで塩がないだの、胡椒がないだの、慌てふためいていたに違いない。ただ、わたしの買った覚えのない立派な泡立て器や大きなボウルまで混じっていたのにはさすがに驚いた。
「街への買い出しは行けないのです。人々の目に、我輩は視えませんから」
出会ってすぐの頃、彼は間違いなくそう言っていたはずなのだけれど、屋根裏の家具といい、調理器具といい、時々彼が買い物をしている痕跡があるのはどういうことなのだろうか。わたしが知らないだけで、あの世にもネッドショッピングがあるのかもしれない。
ふと、先ほどのスカリーは「あちら側」と言いながら、地面を指差していたことを思い出した。あれは、GLSCなる施設が下にあるからなのか。それとも彼は、天に昇ることができない人なのだろうか。分からないことだらけだ。
初めて出会った時、何が起きたか分からず、驚きのあまり硬直したわたしが、状況を飲み込み、言葉を発せるようになるまで、彼はじっと待っていた。約八秒間黙った後、わたしはようやく口を開いた。
「えっと、ゴーストさん」
「はい。ぜひ、スカリーとお呼びください」
「スカリーさん」
「はい」
「聞きたいことたくさんあります」
「おや、そんなに」彼は小さく驚いたような顔をした。「いえ、構いませんよ。貴方の気が済むまで、我輩はとことんお付き合いいたしますよ」
「あ、はい。ありがとうございます」何なんだこいつは、という言葉は一旦飲み込んだ。
「どうぞ、そちらにお座りください。立ちっぱなしはお辛いでしょう」そう言って彼は、指先を綺麗に五本揃えてこちらに向けた。
「何なんだこいつは」
「はい?」
「いえ、何でも」わたしは言われるがまま、椅子を後ろに引いて座った。「良ければどうぞおかけください。ゴーストが椅子に座るのかは、知りませんけど」
「ああ、ご丁寧にありがとうございます」彼は、わたしの向かいにある椅子を引く。「我輩は、座らずとも疲れや痛みはありませんが、この方が貴方の顔を良く見てお話できますからねえ」
はは、と適当に笑いを返す。お世辞なのか、本気なのか分からない。掴めない人だ、と思う。やりにくい。たった数分のやり取りで、随分とマイペースな人であることは分かった。「それで、ゴーストさん」
「スカリーでございます」
「スカリーさん」言い直しを強要された。「なぜここに?」
「理由などございません。我輩は最初からここにおりました」彼の答えに、わたしはギョッと目を見開く。「貴方の目に見えていなかっただけで、ずっと、ずっと。それこそ貴方が入居されるよりずっと、ずっと前。この家が建つ前から、この辺りの地に住んでおりました」
「なるほど」何も分かっていないが、とりあえず相槌を入れた。「地縛霊みたいなものですか?」
「少し違いますが……概ねそのようなものです」
「なるほど」彼の言い分が正しいのなら、わたしはこの半年間、知らず知らずのうちにゴーストと同居していたことになる。端的に言って、最悪だ。「急に姿を現した理由は、お伺いしても?」
「ああ、それは貴方がこのビデオに触れたからです」彼はジャケットの内ポケットからVHSを取り出した。
「それは、あなたの物ですか?」
「そうですよ」
「なんでうちのテーブルの上に?」
「うっかり置き忘れてしまったようです」
「うっかり?」
「ええ、うっかり」
「なるほど」嘘くさい。けれど、ここで下手に突いて面倒ごとになるのも嫌だ、と思い口を噤んだ。「整理すると、あなたはゴーストで、わたしが来るより前からこの辺りに住み着いていて、たった今、偶然、わたしの眼に見えるようになった。そういうことであってます?」
「ええ! おっしゃる通りでございます」スカリーは嬉しそうに笑った。「ああ、話が早くて助かります」
そうか? と思いながらも、先を促す。「えっと、それで?」
「ん?」彼は他人事のように首を傾げるので、わたしもつられて首を傾げた。「いや、これからどうしますか? わたしは、できたらここを退去したくはないのですが」
「え! 退去!」彼は慌てた様子で、立ち上がった。正確には、机をすり抜け、椅子から浮き上がったというのが正しい。わたしはこの時ようやく、この人は本当にゴーストなのだ、と実感した。彼は、先ほどまでの品があり落ち着いた態度とは異なり、明らかに動揺した様子だった。が、すぐにはっとした様子で、わざとらしい咳をしてから、椅子に戻って行った。「お見苦しいところを、失礼いたしました」
「いえ、別に」喜怒哀楽が分かりやすい人だ。
「我輩としては、退去などまったく望んでおりません」
「そうみたいですね」では、どうするのだ?
「これまでと同様、共に暮らしていきたいのです」
わたしは、またもや返す言葉を失い、黙り込んだ。彼はあたかもこれまでも一緒に暮らしていたかのような口ぶりだったが、そんなことはない。彼の言っている話が事実だという根拠は、どこにもないのだ。仮に、彼の言っていたように『目に見えずともこの家に居た』としても、目に見えないのなら、それは存在しないものと同じだと、わたしは思う。わたしの世界は、わたしの認識できる範囲で完結している。姿形のないものは、わたしがそこに在ると信じて認識しない限り、存在しないのと同義だ。それがいきなり、見知らぬ男が目の前に現れて、「実はこれまでも一緒に暮らしていたんですよ。さあ、目に見えるようになりましたけど、これからも同居生活を続けましょう!」なんて、そんなことを言われても受け入れるはずないだろう。
と、わたしはきちんと全部伝えたはずだ。
しかし、彼は全然話を聞かなかった。それはもう、驚くほどに。しつこく粘られ、「話せばわかる」と説き伏せられ、最後には泣きそうになりながらも堂々巡りの議論を繰り返した。時には「本当に同じ言語を話しているのだろうか?」と不安になるぐらい、言葉のキャッチボールができなくて、反って感心してしまうほどであった。普段から口数が少なく、いまだ混乱しているわたしと、マイペースで口達者なスカリー。勝敗は目に見えていて、一時間に渡る議論の末、わたしの方が折れた。もうこれ以上、お話したくありません、とその場で白旗をあげた。
いや違う。最初から、選択肢はあるようでなかったのだと思う。地縛霊に近い彼が、ここを出て行くことは不可能だ。だとすれば、同居を断るにあたって、出ていくのは私の方だ。そしてわたしは、ここをすぐには出て行かない。故郷には帰りたくないし、代わりの新居を見つけて引っ越すための費用を今から捻出するのは難しい。そのことを、彼はこの数ヶ月、わたしの暮らしを見ていて知っていたのだと思う。最初からわたしに逃げ道などなかった。最低でも、新居を見つけるまでの数か月は、彼と同居せざるを得ない。かくして、新居を探すまでの数か月間だけを渋々彼と過ごすつもりだった。ところが蓋を開けてみれば、わたしは彼に親しみを覚え、少しずつ心を許し、満たされ、今の生活が崩れることに不安を感じるほど愛着を持っている。まんまと彼の策略に嵌ったわけである。
おそらく、あの日あの場にビデオを置いたのは彼の仕業だろう、とわたしは睨んでいた。わざと自分が視えるように仕向けて、逃げ道を断った上で同居を提案したのだ。なぜそんなことを? と最初は疑問に思ったけれど、今なら何となく察しがつく。
きっと、寂しかったのだ。誰にも認識されず、視られることもなく、ただひとりで暮らすのは、ひどく寂しくて、虚しくて、心細い。多くの人にとって愛は人を突き動かすが、孤独や辛さは人を無気力にして、蝕むものだ。少なくともスカリーは、多くの人の枠に当てはまる人物だとこの数ヶ月で感じている。
トン、とまな板と包丁がぶつかる。目の前に置かれた鶏肉を勢いよく切り、余計な思考を断ち切る。その他細かく切った野菜たちを、クッキングシートを広げた天板に乗せて、味付けをして、あとはオーブンレンジに放り込むだけ。その間にスープでも作ろうかと、わたしは引き出しを開けて小鍋を手に取ったが、元通りにしまって、お湯を沸かした。ひとり分の食事だ。少しぐらい手を抜いたって良いだろう。戸棚を開けて、インスタントスープの袋を取り出した。
物音がして、わたしの意識は急激に浮上した。こんなにもはっきりとした目覚めは、なかなか無い。あって年に二、三回程度だ。眠りが浅いのかもしれない。カーテンの隙間から朝日がこぼれ落ちていて、すでに夜明けだと分かる。時計を見れば、毎朝彼が起こしてくる時間よりも二時間ほど早く目覚めていた。
言っていた通り、昨夜のうちにスカリーが帰ってくることはなかった。わたしはひとり食事を摂り、風呂に入り、眠った。とても、とても静かな夜だった。
起き上がると、ベッドサイドに見慣れない本があり、少しだけ心臓が跳ねた。がしかし、すぐに昨日借りたものだと思い出してほっとする。この家では、昨日までなかった物が唐突に現れる、なんてことが実際にあり得えてしまうから。パラパラとページを捲り、寝起きの頭でジグザグに読み進める。昨夜眠る前に一通り読んだため、流し読みでも概ねの筋は分かっていた。暦。祝祭。導き。祖先。気になる単語だけが目に留まり、頭に入る。過去、現在、未来。冬の始まり。夏の終わり。ハロウィン。
ページがぴたりと止まった。見れば、栞代わりの貸出証が一枚、挟まっていた。昨夜、眠る前、忘れないようにと入れておいたものだ。ハロウィンの起源に始まり、その変遷、文化史について記述してあるページには、こう記されている。
『現在、ツイステッドワンダーランドで祝われている「ハロウィン」という祭りは、スカリー・J・グレイブスがもたらして以降、世界各地で大きく広まったとされている。しかしながら、彼自身に関する文献はほとんどなく、世界中を訪問した痕跡だけが残されている。ハロウィンの基礎を作ったとされるグレイブスは、後に人々からハロウィンの王と呼ばれるようになった』
わたしが、わざわざ遠方から取り寄せてまで見たかった情報は、たったの三行だった。これなら、ネットで見た情報と何ら変わりがない。
再び物音がする。わたしは適当な場所に本を放って、スリッパを履いて廊下へ出た。ガタガタと大きな音がした方を見たが、それは玄関ではなく、反対のリビングの方から聞こえていた。朝の冷え込む空気の中、体を縮こませ、のそのそとリビングへ向かう。物音は外からするようで、わたしはカーテンを開ける。朝っぱらから、ずらりと並ぶ墓石たちと対面する。見ると、外に置いていた空のバケツが風に煽られ転がっていた。たしか、軽く庭の手入れをした際に使ったのだが、そのまま外に放置していたらしい。あれの音か、と思う。なんだ、と残念に思う自分が居ることには、あまり目を向けないようにした。外にバケツを転がしておくのも良くないが、朝の冷たさの中、パジャマで外に出るのも良くはないだろう。一度寝室に戻り、クローゼットを開いてみたが、夏頃の薄い羽織ものと真冬の寒さに耐えられるような分厚いコートという、ちぐはぐな組み合わせで、わたしが探している白いニットカーディガンは見当たらない。もしあるとしたら、きっと屋根裏部だ。だがあそこは、今やスカリーの部屋と化している。椅子やテーブルやランプまでもが置かれている、生活感に溢れた場所。人の部屋に、しかも本人が留守の間に入り込むだなんて、と思ったが冷静に考えてみると、元はと言えばすべてわたしの部屋である。わたしは少しだけ悩んだが、結局、屋根裏に続く階段を登ることにした。ゆっくりとドアノブをひねる時、何を躊躇うことがあるんだ、と自分自身に言い聞かせた。
屋根裏は倉庫とは思えないほど、人の暮らす痕跡が残されていた。彼は人ではないのに。窓からの景色がよく視える場所にはロッキングチェアがあり、中央には置かれたテーブルの上には、模造紙やインク瓶の他にも、編みかけの縫い物や布が乱雑に置かれている。積み上げられた本の多くはわたしが彼に貸した小説だけれど、中にはレシピ本も混ざっていた。タイトルは『かぼちゃの使い道100選』。本当にそこまで使い道があるのかは、疑問だ。
おそらくスカリーは、わたしが眠っている間はここで過ごしているのだろう。あの窓からは、月がよく見えると、前に言っていた。ゴーストである彼に、睡眠は必要ない。わたしが眠りに就いて、翌朝起こされるまでの八時間、彼はひとりで過ごしているのだ。ひとりぼっちが、苦手なくせに。
屋根裏の隅の方に、引越し業者の段ボールがいくつか積み上げられていた。放置して数ヶ月は経っているはずなのに、埃が積もっている様子はない。『洋服』と書いてある箱の蓋を開けると、思った通り、探していたカーディガンが見つかった。早速羽織ってみると、少しだけ埃っぽい匂いがした。あとで天日干しをしよう。幸い、今日は良い天気だ。箱の中を見ると、他にも今の季節にぴったりな洋服やマフラーが入っていた。ついでに今日は衣替えの日にしよう、とわたしは思い、段ボールごと持ち上げる。重たくはないけれど、箱そのものが大きく持ちにくかった。よたよたと歩く中、ぱっと視界にある物が飛び込んできた。
物が乱雑に積みあがるテーブルの上。青いパッケージのVHS。オレンジ屋根のお家と笑顔のゴーストが描かれたチープなイラスト。タイトルは"To live with ghosts" ――『死者との共存』だ。どうして気がつかなかったのか。落ち着いた色合いの部屋に、鮮やかな青は目立ちすぎる。わたしは、床に箱を置き直し、ゆっくりと、一歩ずつ、テーブルへと近づいた。あの日と同じように、ビデオを手に取る。大丈夫、彼は今居ない。落ち着いてじっくりと観察すると、このVHSにもGLSCのロゴが記されていた。ゴーストと人間が共に、平和に暮らすためのもの。パッケージを裏返すと、あらすじは無かったがこのビデオの収録内容が記載されている。全部で七話。バーコードも値段も記載がないため、非売品なのか、とまで推測する。察するにこれは、教育ビデオのようなものなのだろう。もしかしたら、スカリーがGLSCから配布された物なのかもしれない。
そう考えた時、わたしの中で一つの光が見えた気がした。霧深い暗闇の中、進むべき道を教えてくれるランタン。
もしもこれが本当にGLSCから支給されたものならば、道筋があるのではないだろうか。人間とゴーストが共に平和に、共存するための方法がこの手のひらの中に答えがあるのかもしれない。
わたしは、今の生活を永遠のものにしたい。
気づいた時には、ビデオのパッケージに指をかけていた。ここに死者と共存する為の手がかりがあるならば、やはり見た方が良い。チャンスは今しかない。劣化のせいか、なかなか開かない蓋に焦りを感じる。パッケージの背を机に乗せて、取っ掛かりに両手の指を立て、力を込める。上下で噛み合っていたパーツが一つずつ、ゆっくりと外れる。角から順に、一つ、二つ。
瞬間、インターフォンが鳴った気がした。わたしは、ビデオを片手に持ったまま耳を澄ませる。
インターフォンが鳴る。間違いない、この家だ。わたしは慌てて、ビデオを机の上に放り、階段を駆け降りる。ぶかぶかのスリッパでは転びそうになるのを堪えながら、パジャマを隠すように上着の前を寄せる。
インターフォンが鳴る。
「はーい」届いているかも分からないけれど、とりあえず返事をした。寝癖を直していないことにも気がついたが、今更どうしようもない。わたしは、「はい、はい」と言いながら玄関ドアを開けた。
「ああ。ようやくお会いできました」玄関に立っていたのは、他でもないスカリー・J・グレイブスその人であった。出かけた時と同じように、黒のトランクを片手に持ち、そのまま両手を上に挙げている。心から嬉しそうな笑顔を浮かべていて、今にもハグをしてきそうな勢いだった。実際に、もしも彼がわたしに触れられたなら、そうしていただろう。だけど彼は、決して自分からはわたしに触れない。喜びと興奮に溢れる彼とは反対に、それもそうか、とわたしはようやく気がついた。こんな朝の早い時間にインターフォンを三回も鳴らす奴など、他に居ないだろう。
「ふふふ。無理に起こしてしまいましたかねえ」彼は笑う。「用事が済んだので、一刻も早くこの家に戻って、貴方に会いたいと思ったら、居ても立っても居られなくて……ああ、あちこちに寝癖がついたままですよ」
「わかってます」意味もなく自分の髪を触る。
彼は腕を降ろしたかと思うと、ニコニコと笑ったまま玄関口に立っていた。妙な間が生まれ、わたしは後ろめたさも相まって、少しずつ不安が生まれる。
「おや。何も言ってくださらないのですか?」
「え?」
わたしは、何を求められているのか分からず、彼の方を見た。スカリーは何も言わずに、いつものように微笑むだけだ。
「ほら、早く」彼は急かすような言葉を言いながらも、その口調は子どもを揶揄うような、甘い声をしていた。「貴方も、いつまでも玄関口でおしゃべりするのは寒いでしょう。中に入れてください」
それを聞いてわたしはようやく意味が分かって、「あ」と思わず声を上げた。「えっと、おかえりなさい」
「それから?」
「どうぞお上がりください?」
スカリーは満足そうに笑った。正解だったようだ。
「ええ! ありがとうございます」彼はようやく歩き出し、家に足を踏み入れた。「このスカリー、ただいま戻りました」
「はい、おかえりなさい」
ゆっくりと扉が閉まり、カチャリと控えめに音が鳴る。
「すみません、気がつかなくて」
「いえ、構いませんよ。起きたばかりの貴方は少々、いつもよりぼんやりしていることが多いですから」
あはは、と適当な相槌を入れる。これは寝起きとは関係なく、難問だと思う。魔物は、招待されない限り家へと入れないと聞く。それが事実かどうかは知らないが、少なくとも彼には適応されるらしい。そんなのすぐに分かるわけないだろ、と言いたくなるのを飲み込んだ。頭の中に、青いビデオの存在がちらつく。あれを見ていれば、分かっていたのかもしれない。いや、余計なことは言わないようにしよう、と心に留める。
「向こうでの用事は済みましたか?」
「ええ。本当に、退屈で無駄な時間でした」
「そんなに言いますか」
「そんなに言いたくなるほど、ひどいものでしたよ」彼は口を曲げる。「十七時間」
「ん?」
「十七時間も向こうに居たんです。その間我輩は、一刻も早く貴方の元へ帰ることだけを考えておりました」スカリーは屈み込み、上から覗くようにわたしの顔を窺う。「貴方はどうでしたか?」
「何がですか?」
「我輩が留守の間、寂しくありませんでしたか?」
サングラスの隙間から見え隠れするオレンジが、わたしを捕える。ぐるぐると渦巻く瞳から、目が離せない。そういう聞き方はずるいなあ、と思う。
「寂しくはなかったですよ」別に嘘ではない。わたしの返事に、彼は大きく瞬きをした。
「おや。そうでしたか」
「だって、『すぐに帰ってくる』って言ってましたから」
ね? とわざとらしく首を傾げて、笑ってみせる。そのままくるりと踵を返して、リビングへと向かった。あまり今の顔を見られたくない。
「え」という彼の大きな声を背中で聞いて、わたしは十七時間ぶりに、満ち足りた気持ちになった。