塑性
ひらりと蝶が飛ぶ。
生き物たちが起き始めるうららかな日に、賢者は一人、魔法舎を歩いていた。やわらかい日差しが眠気を誘い、あくびをぐっとかみ殺す。長く続く廊下を歩きながら窓を覗くと、中庭で楽しそうに駆け回るムルの姿が見えた。たしか、最近は蝶を探すことに夢中だと言っていた気がする。魔法舎は今日も穏やかだ。
「呼んだ?」にゅっとムルが飛び出して来る。そこで一瞬、賢者は驚き、戸惑い、考え、一拍遅れて「え!?」と大声を上げた。慌てて外を見たが、そこに居たはずのムルは居ない。当人は「なになに?」と一緒に窓を覗き込んで来る始末だ。
「さっきまで、外に居ませんでした?」
「ううん」
賢者は二回目の確認をする。やはり外には誰も居なくて、紫色の蝶々がひらひらと飛んでいるだけだった。「あはは。賢者様、俺とちょうちょを間違えたんでしょ!」ムルは笑いながら指摘する。そんなことがあるのだろうか。だけどたしかに、ふわふわと飛び回る蝶と自由気ままなムルは似ている気がした。どちらも綺麗な紫色をしている。
「今日はずっと魔法舎に居たんですか?」
「うん。地面をキョロキョロしていた」ムルは実際に床を探るような仕草をしてくれる。それは、言うなれば何か探し物を探す動作そのものだった。
「なにか探し物ですか……?」
「それは俺じゃなくてシャイロック!」
「え?」
「俺は、きらきらを見に来た。さっき強い風がびゅうって吹いて、この辺りにきらきらが飛んで行ったのを見た!」ムルはツラツラと言葉を続け、賢者が口を挟む暇さえない。
「でも、ここじゃなかったみたい。もう一つ上の階かも」
ムルがそのまま駆け出したせいで、賢者の聞きたいことは何一つ分からなかった。たった数分しか話していないのに、どっと疲れが押し寄せて来る。主に心と脳が疲弊していた。それが今朝の出来事だった。
お昼寝にぴったりな昼下がり。
賢者はゆるりと魔法舎を探索していた。夕方からは、クックロビンと会うことになっている。書類の受け渡しと同時に、新しい依頼があるらしい。いまだに<大いなる厄災>の影響は大きく、各地で不思議な出来事が起こり続けている。賢者たちはそれらの異変を鎮めるために、度々各国へと向かっていた。賢者や魔法使いたちが暇をもてあますような世界が、早く来て欲しいと願う。きっと話は長くかかるだろうから、それまでに魔法使いたちの様子を見て回り、賢者の書を記しておきたかった。それも賢者の仕事の一つで、賢者はこれを気に入っていた。今のところ変わったことはなく、強いて言うなら、ムルの話を思い出し時々地面をじっと見るぐらいで、蝶々が飛んで来ることも、きらきらが落ちていることも、喧嘩で魔法舎が崩壊することもない。やはり今日は穏やかな日だ。ちょうど談話室の前を通りがかった時、何やら話し声が聞こえてきたから、賢者はそっと中を覗いた。
「どなたかいるんですか?」
声をかけると、パッとオリーブの瞳が四つ、こちらを振り向く。談話室にいたのはルチルとミチルだった。仲良く並んでソファーに座っており、目の前のテーブルには白茶色をした破片が一箇所に集められ山になっている。どこか奇妙な状況だったが、心なしか暗い空気から何があったのかなんとなく察せされた。
「市場で焼き物のランプシェードを買ったんです。丸や星形にくり貫かれていて、明かりの上に被せると隙間から溢れる光が夜空みたいに綺麗で、リケが喜ぶかなって思ったんですけど……」
「廊下でミチルが急に転んでしまって、粉々に割れちゃったんです」
「え!ケガはしてませんか?」
ミチルは「大丈夫です」とは言うものの、やはりプレゼントを壊してしまったショックでかなり元気がなかった。
「何もない廊下だったんですけど、急に強い風が吹いてきて押されてしまったんです」説明してくれたルチルも、いつもより声に元気がないように見えた。テーブルの白茶色の破片は、言われてみるとたしかに焼き物の一部のようで、ある程度の形は留めているものの、原型とは程遠い見た目になっていた。友だちの喜ぶ顔が見たかったのに、自分の失敗で台無しになった。ミチルのことを考えると、賢者は胸がギュッと締め付けられる心地がした。もしも自分だったら、泣きそうになるぐらい、とても悲しいことだ。
「魔法で戻すことは出来ないんですか?」
「集めた破片が完璧に揃っていないと難しくて。慌てて集めたんですが、いくつか足りないみたいです」
「そうなんですね……」
この世界に来てから、魔法は万能でないことを知った。人間にとって魔法は夢のような、奇跡のようなことで、なんでも助けてくれるような気がしてしまうけど、魔法使いは神様ではないし、魔法と奇跡は違う。制限もあるし、時には代償を伴うものだと、彼らを過ごして初めて分かった。賢者は魔法が使えるわけではない。けれど、彼らのために何かできることはないか、懸命に考えた。新しく同じものを買う、という選択肢もあるだろうけど、それでミチルの心が落ち着くかと言われれば、きっとそうではないのだろう。このランプシェードには、リケのことを想って選んだ、ミチルの思いが詰まっている唯一の物であるはずだから。
賢者も二人に倣ってじっと、破片の山を見つめる。大きい破片から細かいものまで様々なものが散らばっていた。ミチルの話では、ドーム状の形をしていて、星や丸の形にくり貫かれてらしい。それを聞いた賢者は、料理の上に被せる銀色の蓋を想像した。破片の山には、たしかに繋げると星や丸になりそうなパーツや丸みを帯びた部分があった。「あ!」と賢者が大きな声を上げる。ふと、ひらめいたことがあった。突然のことにびっくりした2人は、丸い目をさらにまん丸に見開いた。
「パズルみたいに組み立てるのはどうですか?」
「パズル……?」揃って首を傾ける仕草がなんだかとてもかわいらしく、ひらめきの高揚感も相まって、賢者は思わず顔が緩んだ。
「はい!こうやって模様を目印にしながら破片と破片をくっ付ければ……」
破片の山から大きめの、分かりやすいものをいくつか選んで組み合わせてみると、パズルみたいにピタリと噛み合って、元の形が浮かび上がる。これをうまく繋げればなんとかランプシェードとしての役目は果たせそうではあった。がしかし、想像と現実は違っていて、実際に組み合わせてみるとひびが目立ち、形も歪で、完璧には戻らない。自分で言っておきながら、うまくできなかったことに、賢者は居心地の悪さを覚えた。だんだんと視線を逸らし、顔を下に向けてしまう。期待をさせてしまった癖に、うまくできなかったことが、とても申し訳なかった。けれど、予想に反して「わぁ!」という二人の明るい声が飛び出してくる。
「すごい!それなら僕たちでも直せるかもしれません!」
そう言ってくれたミチルの声色は明るくて、暗い洞窟で自分を導く、小さな灯りを見つけたようだった。
「そうだ!だったら、破片ごとに色を塗ってパッチワークみたいにするのはどうでしょう?置いておくだけでも華やかで、素敵な作品になりそう!」
どんよりとした空気が消え失せて、晴れ晴れとした楽しい時間が流れ出す。「ありがとうございます、賢者様」と笑顔いっぱいにお礼を言われて、じんわりと温かな気持ちが賢者の胸いっぱいに広がった。
「いえ、役に立てて良かったです」賢者は心の底からそう思った。二人はワイワイと喋りながらパズルに夢中になっていく。大好きな人の役に立てたことが、どうしようもなく嬉しかった。
窓から赤色の光が差し込む。夕日が眩しくて、少し暑いぐらいだった。きっと、これから涼しくなる。
賢者は、魔法舎までやって来たクックロビンを談話室まで案内し、二人で紅茶とお菓子をつまんでいた。最初は賢者の方が中央の城まで向かうと提案したのだが、この後カナリアと一緒に帰りたいから、と照れくさそうな顔で断られてしまった。穏やかでかわいらしい夫婦が、賢者は好きだった。紅茶を一口飲み、ほっと落ち着いた彼から聞いた話は、たしかに奇妙で、魔法使い宛てのものだった。
中央の国にある博物館の一つが、一晩にして荒らされていた。前日、博物館を施錠した際はいつも通りに状態で、翌朝になって事態は発覚した。職員によれば、荒らされていたのは鉱物を展示していた一室のみで、盗まれた物はなく、まるで嵐にでも遭ったかのように散らかっていたらしい。魔法との関係性を疑った博物館側が、賢者の魔法使いたちに依頼をしてきたとのことだった。
「一週間ほど前、市場で露店を開いていた宝石商が突風に襲われた事件があったんです。そのせいで、魔法使いに連続盗難事件じゃないかって、街で噂になっているんですよ……」
そう伝えるクックロビンの表情は、いつもより暗く見えた。実際に、魔法使いによる盗賊団が存在することを、賢者も知っていた。どちらの事件でも盗難が起きたわけではないらしいが、理解できない奇妙なことが続けば人々が不安に思うのも無理はないだろう。魔法使いと人間が共に生きられる世界が、また少し遠のいたようで胸の辺りが重くなる。
賢者は詳細を確認しながら、今回の依頼に適任な魔法使いを考えた。中央の国での事件なので、中央の魔法使いたちが丁度いいかもしれない。もし、盗難が目的であればブラッドリーに話を聞いてみるのもいい。鉱物や宝石が狙われているなら、ムルに相談してみても、と思ったところで、ふと先日の庭園での出来事を思い出した。
一週間ほど前、場所は同じく中央の国で、とある庭園が荒らされていた。それについては依頼があったわけではなく、西の魔法使いたちと一緒に市場で買い物をした際、近くにあるので寄ってみようと向かったのだが、復旧作業のため長期間展示を中止していたのだった。事情を伺い、こちらが賢者とその魔法使いであることを説明すると、職員は中へと案内してくれた。美しかったであろう庭園はぐちゃぐちゃに乱れていて、花は散り、植物は折れ、小屋や噴水も破損していた。まるで、台風にでも遭ったみたいに。「ごちゃごちゃで俺みたい!」とムルが言っていたのをよく覚えている。その件については、結局、魔法使いたちと一緒に復旧作業を手伝った。完璧に元通りとは行かなかったものの、ほんの数時間で綺麗に直したのだった。本当は、以前と同じものを再現しようと思えばできたのだが、その場に居たのは西の魔法使いだ。気づいた時にはあっちこっち、はちゃめちゃに飛び交って、彼ららしい賑やかで鮮やかな庭園に仕上がっていた。職員の方々に気に入ってもらえたから良かったものの、庭園を好き勝手いじってしまったのは、少し危なかったと反省している。
とにかく、ここ最近の中央の国では、強い風が吹き込んでいるらしい。しかも、非常に限定的で、局地的な突風だ。依頼元である博物館に赴くのも重要だが、まずは突風の原因から探ることを目的にした方が良いな、と賢者は考えを巡らす。気づいた時には話題はコロコロと転換し、主に最近の仕事の忙しさやカナリアの話が多かった気がするが、クックロビンと別れた時には紅茶は綺麗に飲み干されていて、風が冷たく感じるほどに、夜が近かった。
冷たい夜風が肌寒い。日は沈み、明るい月が登る夜。
一日も終わりあとは眠るだけ、という時に賢者はまだ寝間着にも着替えず、一人廊下へと向かっていた。昼間、ルチルとミチルの話では、転んだときに強い風が吹いたと言っていたはずだ。クックロビンから依頼を受けた時にそのことも頭によぎり、少し気がかりだった。関係がないかもしれないが、突風の原因を探るためにも、確認して損はないと思った。
事件があったのは魔法舎の廊下で、窓から中庭が良く見える場所だった。改めてその場を訪ねて見れば、そこにあったのは焼き物破片でも、風を起こすような魔法陣でもなく、大きな一人の魔法使いが落ちていた。
「ムル、何してるんですか?」
「あ、賢者様!こんばんは」
「こんばんは」を返しながら賢者はムルの様子を伺う。彼は廊下にしゃがみ込み、床の方をじっと見つめていた。
「ここ、上の階なのに砂がたくさん落ちてる」ムルはぐいっと立ち上がり、こちらへ指先を見せてくる。たしかに、白茶色の砂粒が付いてた。つまり、ミチルが転んだと話していたのはまさにここだったというわけだ。
「きっと焼き物の破片だと思いますよ」とムルに告げると、彼は不思議そうに首を傾げた。なんだか最近見た光景だ。賢者がルチルたちのことを伝えば、ムルは「楽しそう」と笑う。彼の無邪気な笑顔は賢者の心を躍らせた。けれど、ムルが決して楽しいだけ人ではないことも、賢者はよく知っていた。
「昼間、ムルが探していた物は見つかりました?」
「うーん。それがどこにも居なかった。絶対この辺りで見たはずなのに」ムルは口をへの字曲げて、眉をひそめる。それは、感情を隠さず表出する小さい子のようにも、わざとらしく作った顔のようにも見えた。口ぶりからして彼の探すきらきらも、この辺りで見たのだろう。そもそも、きらきらが何なのか、賢者は知らないけれど。
「俺の探してるきらきらは、ちょうちょみたいなやつ!この前、空を飛んでるのを見た。ぱくっと食べたら美味しそうだった」
「え、食べるんですか……?」
「賢者様、ケーキは好き?」
「ええ、まあ……」
「それと同じ!」
「違うと思います」
賢者は、かわいいと噛みつきたくなる衝動があるという話を思い出した。たしか、向こうの世界ではそういう類のものが流行っていたはずだ。
「ということは、ムルは蝶々が好きなんですか?」
「うん。ちょうちょはすき。きらきらしてるから」
話が一周したような気がする。蝶々がきらきらしてるところを、賢者は想像ができなかった。ムルの愛する月や天文台から見える星々、花火、宝石、それからランプシェードから溢れる灯りも、きらきらのはずだ。賢者の知らないだけで、この世界にはきらきらと輝く蝶々が居るのかもしれない。そうだとするなら、一度見てみたいと思った。きっと、綺麗だから。
「あと、生き物としても面白い」
ムルは言葉を続ける。まるで蛇口から流れる水のように、止まることを知らない。
「青虫は蛹の内で一度ドロドロに溶けた後、そこから変身するために必要な栄養を得て、体を再構築するんだ。だから、姿形を大きく変えられちゃう。そうやって、一度全て壊してからこの世に生まれ直す。その様子から、霊魂の象徴として、昔から嫌われてきた」
蛹の仕組みは、幼い時に聞いたことがある気がした。学校で蚕を育てた時「さなぎは柔らかい生き物だから、乱暴にしちゃいけないよ」と先生に言われた覚えがある。「どうして?」と質問する生徒たちに、先生が優しく答えていた。もっとも、子どもたちに分かりやすいように言い換えていたけれど。
全く同じ内容でも、他でもないムルが口にすることで、得体の知らない不気味さが生まれる。けれど、一度氾濫した言葉は止まらない。
「ねぇ、もしも蛹の中に異物が入り込んだら、それは完璧に元の幼虫と同一だと言える?」
賢者は初め、それが自分に向けて投げかけられたとは思わなかった。正確には、なにを聞かれているのか分からなかった。
「体がめちゃめちゃになって再構築するとき、以前はなかった物が入り込んだとしたら?思考や感情に影響を与えるかもしれない。同じように見えたとしても、誰にも、本人すら気が付かない内に作り替わっているかも!意識は?自我は?なにをもって同一だと決める?」
ムルは踊るように、歌うように続ける。
「心が、魂が同じなら変わらないって思ってる?」
彼は賢者の心臓の辺りをまっすぐ指さす。
「でも、それはそう思い込みたいだけかもしれない。そもそも、魂から変化してしまったら?全部がドロドロに混じり合っているんだ。可能性がないとは言えないさ」
ニヤリと笑みを浮かべ、一呼吸置く。
「それとも、最後に綺麗なちょうちょに成れたら、それでいいの?」
溢れだした言葉は、ここでピタリと停止した。言いたいことは言い終えて、蛇口を締めたらしい。困惑する賢者など気にも留めず、ムルはじっとこちらを伺う。猫のような瞳の海色が、よく見えた。その質問は、まるで台本をなぞるように、自然で不自然だった。彼の質問が見せかけではなく、こちらの答えを待っているのは明かだ。けれど、賢者はムルの質問に対して、イエスともノーとも言えなかった。分からなかったのだ。生き物は、人は、魔法使いは、どこまでを本人と呼べるのか。純粋で完璧なものとは何なのか。もしも、違う生き物だと言うのなら、蛹から生まれるそれは、一体なんなのだ。二人の間に沈黙が続く。賢者にとってはとてつもなく長い時間に思えたけど、実際はほんの数秒だったに違いない。場違いにも、明るい笑い声が聞こえる。先に沈黙を破ったのはムルだった。
「あはは!賢者様困ってる」
何も変わらない無邪気な笑顔は、賢者の心を大きくかき乱す。
「でも、沈黙だって答えの一つさ」
ムルの世界は彼自身にしか見えない。ムルの言うきらきらも、面白いことも、彼の興味関心の対象も、賢者には分からなかった。だけど、対話を通じて垣間見える彼の世界は、きらきらとドキドキに満ち溢れて、そして、思ってるよりもずっと冷たい。一歩間違えれば飲み込まれて、溺れて、そのまま二度と出て来られない。賢者は、苦笑いを浮かべながら曖昧に笑うことしかできなかった。
青白い月が世界を照らす。
生き物たちも寝静まる夜更けに、コンコンと扉をノックする音が賢者の部屋の向こうから聞こえた。賢者はすっかり寝間着に着替え、誰も居ない冷たいベッドへもぐりこんでいた。突然の来訪者に驚きはしたものの、賢者が寝つけていなかったのも事実だった。不安感に駆られながらも、恐る恐る扉を開ける。そこに居たのは、まさに思考の渦中に居た、あの猫のような魔法使いだった。
「こんな夜更けにどうしたんですか、ムル」賢者は、ムルがきちんとノックをしたことに驚きながらも、扉を開けて招き入れる。廊下で騒いでしまっては、他の魔法使いたちに迷惑だと思った。賢者の眠りを妨げる原因である当人は「こんばんは、賢者様」と、とぼけたことを言い放つ。
「さっき会ったばかりですよね?」
「あれ?そうだっけ?」ニコニコと笑う彼に穏やかな気持ちを見出せるほどの余裕は、今の賢者にはなかった。軽やかに部屋へ入り込むムルの背中を見ながら「なにか用ですか?」と先を促す。彼はわざとらしくこちらをくるりと振り向いて、まさに今思い出したような驚きの素振りを見せた。
「そうそう。きみもきらきらは好き?」
「きらきら?」
唐突に投げ渡された言葉に理解が追いつかなかった。数秒間考えてから、ようやく先程の話に辿り着く。質問の意図が分からなくて、それはいつものことであったけど、とりあえず曖昧な同意を示すことにした。場合によっては、答えに関係なく振り回されると、経験上分かっていた。
「そうだと思った!」ムルは答えを聞くや否や、少しだけ開いていた窓を思いっきり開いた。夜空を背にして彼は笑う。
「じゃあ、今から俺と見に行こう!一番のきらきらを、ここよりもずっと近いところで!」
青ざめた月光がスポットライトのようにムルを照らす。舞台でも見ているのかと錯覚しそうだった。賢者はこちらに伸ばされた手を取る。他の選択肢は用意されていない。ムルは賢者の手を握り返したかと思うと、突然、足元に強い風を巻き起こした。彼の体がふわりと浮かび上がるに連れて、賢者の体も舞い上がる。いきなりの出来事に、賢者は悲鳴を上げそうになったが、夜更けであることを思い出し、慌ててかみ殺した。そんな賢者の様子を見て、ムルはクスクスと笑いながらもそっともう片方の手を取ってくれる。
「ありがとうございます」賢者が素直にお礼を言えば、丁寧にも「どういたしまして」が返ってきた。いつもと違う夜遊びの最中では、そんな当たり前のやり取りすら面白くて、楽しい。夜風が心地よくて、気分もすっと晴れた気がした。二人は手を握り合って、星のきらめく夜空を歩く。それは、昔から仲良くして来た友人同士みたいだった。
「ムルの好きなきらきらってどんなものですか?」
「えーと、星とか宝石とか。でも、一番好きなのはあれかな」ムルはじっと一点を見つめた。夜空に浮かぶ大きな月が二人を照らす。ムルの瞳が、青い月の光に当たって、昼の見えない星のようにきらきらと輝いて見えた。
「さっきは蝶々もきらきらって言ってましたよね」
「うん」ムルは素直に頷く。ずっと遠くの方を見つめていて、目が合わない。
「それって、きらきら光る蝶々が居るんですか?」
「えーなにそれ?」
とぼけている様子もなく、どうやら本当にそんなものは居ないらしい。勝手に想像していたとは言え、賢者は少しがっかりした。ムルがそっと顔を覗き込んだことで、ようやく目が合う。ムルの動きに合わせ短い髪が彼の顔にさらりとかかる。それは、いつか見た藤の花を彷彿とさせた。
「もしも新しい光る蝶を見つけたなら、真っ先に俺に教えてよ。じゃないときっと賢者様は、たくさんの報酬と退屈な誉め言葉の嵐に飲み込まれちゃうから」ムルはにやりと、いじわるな猫のように笑った。それは慰めの言葉ではなかったけれど、悲しい気持ちを散らせるのには十分だった。箒を使わない、不安定な空中浮遊。それは非日常的で、怖いけれど楽しくて、素敵な時間だった。魔法が使えない賢者は、この手を離されたらどうなるのか、十分に理解していた。命を握られる恐怖を、今になって気づかないフリをする。
「ムル」
賢者は名前を呼ぶ。それは間違いなく彼の名前であるはずなのに、どこかずれているような心地がした。月が眩しくて目がくらむ。今日は満月が綺麗だ。もう一度名前を呼べば、彼は片目を瞑り、上品に笑ってみせた。世界がだんだんと、暗闇に沈んでいく。
ぐっと意識が引き上げられる。開けたはずの窓はきっちり閉められていて、明るい朝の日差しが差し込んでいた。慌ててベッドから起き上がるものの、周囲に変わった様子はない。星のきらめく夜空から、重力に従いぺしゃんこに潰れる未来は避けられたらしい。昨晩のことが夢なのか現実なのか、賢者には判断がつかなかった。ぐるりと部屋中を確認してみたが、何も変わっていなかった。一度身支度を整え、部屋を出る。あれを自分の見た夢だと言われても、否定できる自信がない。握った手の感触は覚えていても、その温度までは分からなかったから。一番手っ取り早いのは、当人に確認を取ることだろう。もちろん、ムルが素直に話すとは思えないけれど。
賢者は手始めに食堂へ向かった。ネロの美味しい朝食を食べなければ、一日は始まらない。いつもより起きるのが遅かったらしく、人の居ない食堂で、のそのそと食事を取った。温め直したエッグベネディクトにフォークを入れて、プツリと卵を割れば、トロリと黄身が溢れ出し、食欲がそそられる。今この瞬間だけは、明らかに面倒な昨晩のことも忘れられる気がした。黙々と、けれど幸せそうに食事を取る賢者の耳に、トタトタと複数の足音が聞こえて、食堂の扉がそっと開けられる。昨日と同じ、オリーブの瞳が4つと、もう一人。ルチルとミチルとそれからリケも一緒だった。
「賢者様、おはようございます」ミチルの挨拶に続いて、ルチルとリケも声をかけてくれる。賢者は食べているものを一度飲み込んでから「おはようございます」と返した。
「賢者様に昨日のランプシェードを見て欲しくて、探してたんですよ」
「すみません。寝過ごしちゃったみたいで……」ルチルの言葉に賢者は苦笑いを浮かべる。いつもであったらここでリケの厳しい言葉が飛び出す所であったが、今朝はニコニコと機嫌がいいようで、ほんの少し注意されるだけに収まった。
「あ、それでランプシェードはどうしたんですか?」一応訊ねたけれど、リケが背中の後ろに隠しているものは、先ほどからチラチラと見え隠れしてた。
「えへへ、これです!」
リケは大切に隠していたものをナイショで自慢するように、そっと丁寧に見せてくれた。その仕上がりに、賢者は思わず感嘆の声を上げる。置いておくだけで周りが華やかになるような、カラフルで綺麗な色をまとったランプシェードがそこにはあった。ミチルの話していた通りの姿をしていて、少し歪ではあるけれど、ルチルと塗ったであろう絵の具たちとも相まって、可愛らしい見た目をしている。ひびの入った部分には、はんだ付けがされているようで、縁がはっきりした物に仕上がっている。焼き物だと言っていたが、所々に色とりどりのガラスが埋め込まれているのが分かった。
「やっぱり足りない破片があったみたいで、途中でパズルも上手くいかなくなったんです。そしたら、通りがかったムルさんが、スノウ様とホワイト様ならステンドグラスを作ってらっしゃるから何かアドバイスをくれるかも、って教えてくださって」
「それで所々にガラスが埋め込まれているんですね」
「このひび割れた部分も、お二人がステンドグラスと同じように繋げてくださったんですよ」
ルチルの説明に納得が行く。あの双子なら喜んで協力してくれそうだ。見ているだけでも可愛らしく、華やかなランプシェード。もし、リケが「いいよ」と言ってくれたら、明かりを灯した姿も見せてもらいたいと思った。隙間から溢れる光が夜空のようで、透き通ったガラスの色が辺りに散らばって、きらきらしていて、小さな美しい世界を見せてくれるに違いない。完璧に以前と同じ姿になることはなかったけれど、素敵な姿に変身したランプシェードは、三人の思いが詰まった、この世界に唯一の物だった。
「素敵なものをもらえてよかったですね、リケ」
えへへ、と笑い合う三人を見て、賢者の心がじんわりとあたたまる。すこし照れくさくて、くすぐったくて、幸せな気持ちでいっぱいになった。
そんな空気を崩すように「あ!」と賢者が声を上げたことで、六つの緑が丸く見開かれる。
「ところで、ムルを見かけませんでしたか?」
朝食を取り終わった賢者は、魔法舎の外に居た。三人によれば、ムルは「ちょうちょ探してくる!」と外へ飛び出していったらしい。たしかに、ここ最近はよくそう言って外に飛び出していた。賢者も魔法舎を出て、森へ向かう。今ならまだ間に合う気がした。
いざ森に辿り着いたところで、ムルがどこへ向かったのか賢者には分からなかった。そもそも、本当に森に居るのかも知らない。蝶々を探すと言っていたから、花や草木が多い所へ行けばいいと思っていた。周囲を見渡すが、ムルらしき人物は見当たらない。耳をすますと、小鳥の声や水の音、小動物の歩く音まで聞こえるようだ。風に吹かれて草木が揺れる。とても穏やかな場所だった。
ひらりと蝶が視界に舞い込んでくる。紫の羽が美しい、見慣れない蝶々だった。賢者のまわりをくるくると回ったかと思えば、そのまま森の奥へと消えていく。反射的に、賢者は蝶を追いかけた。この蝶を追いかければ、ムルに会えると思った。根拠なんてどこにもなくて、強いていうなら、この蝶がムルに似ている気がしたから。それに、見知らぬ蝶々を追いかけるなんて、少し楽しそうだと思ったのだ。
蝶に従い、森の奥の方へと進む。木々が増え、太陽の光が入らない。少し暗くて、肌寒い。その中で、ひらひらと鱗粉を散らしながら飛ぶ蝶々は、道を指し示す光のようだった。誰も居ない中、一人で森を歩き進める。だんだん心細くなって、道を引き返したくなる衝動をぐっとこらえた。本当にこの道が正しいのか、賢者には分からなかった。次第に歩みが遅くなり、やがて足が止まりそうになると、蝶々はこちらの様子を伺うように待っていてくれた。決して急かすことはなく、賢者が再び歩み出すのを見ているようだった。だいぶ歩いたような気がしたけれど、きっとそれは心細くて、不安で、心配だからで、そんなに歩いてないのだろう。帰るときはムルも一緒で、きっと明るくて楽しい場所に見えるはずだ、と自分に言い聞かせる。自分の始めたことなので、後悔はしたくなかった。
そのままずっと歩きつづけると、少し広い場所へ出た。一面に草花が生えた、とても綺麗な所だった。木々が開けて、太陽の光がこの場を照らす。魔法舎の近くの森に、こんな所があったなんて知らなかった。いろとりどりの花が咲く。蝶々が舞う。その中にポツンと立つ、探していた、猫のような魔法使い。賢者は自分の目を疑った。ムルが二人居るのだ。今度は気のせいではなく、本当に。どうしたらいいか分からなくて、木陰にそっと身を隠す。改めてまじまじと観察したけれど、間違いなかった。咄嗟に魂の欠片のムルが思い浮かぶ。けれど、欠片のムルは、大きな魔法使いらしい帽子と、星空が煌めくマントをしていたはずだ。そうじゃないのだ。二人がどんなやり取りをしているのか、ここからじゃ見えなかった。もう少し顔を覗かせ、様子を観察しようとする。
突然、強い風が吹き荒れた。竜巻のように、木の葉や土が舞い上がり、賢者は思わず目を瞑った。
がしゃん、と大きな音がする。それはまるで宝石が砕けるような、綺麗な音だった。
びゅうと強い風が吹く。ぎゅっと目を瞑った賢者には、何も見えない。
「賢者様」
遠くからムルの呼ぶ声がする。いつも間にか風は止んでいて、恐る恐る目を開けると、こちらに向かって片手を大きく振る、笑顔のムルが見えた。彼一人だった。賢者も控えめに手を振り返す。ムルはそのまま、テテテとこちらに駆け寄って来るから、賢者も木陰からひっそりと出て、そちらへ向かおうと思った。が、少し躊躇う。地面には、いっぱいの草花が咲いていたから、その上を歩くのがはばかられた。踏んで、折って、命を散らせてしまうのが、嫌だったから。一向に動かない賢者を見て、何かを思ったのか、ムルは「風ならもう吹かないよ。大丈夫!」と言う。その自信はどこから来るのだろうか。
足元に注意して、出来るだけ何も踏まないように、そっとムルの方へ向かう。もっとも、ムル自身がこちらに駆けて来るのだから、今更草花の心配をしても無意味な気もしてしまったが。ニコニコと笑みを浮かべたムルは、片方の手をぎゅっと硬く握り締めている。おそらく、何かを持っているのであろう。
「賢者様、あの時きらきらが何か気になってたでしょ?」
「はい」と素直に答える。それが、いつの出来事を指しているのか分からなかったけれど、気になっていることは事実だったから。月、星、ちょうちょ、宝石、花火、これらに共通するきらきらとは何なのか。
「ほらこれ!きらきら」
ずいっと掌の中身を見せて来る。そこには、太陽の光を反射してきらきらと輝く、五つのパープルサファイアがあった。顔を近づけよくよく覗けば、中身は暗く、深く、蠢いているようで、思わずパッと距離を取った。ゾッとした感覚が抜けない。いつもの魂の欠片みたいだったけれど、宝石なのに無機質な感じがしなくて、不気味だった。
「今にも消えちゃいそうで、きれいでしょ」そう言いながら、五つの中で一番大きなものをつまんで見せてくれた。光に当たると、宝石から透き通った紫色が、周囲に散らばって綺麗だった。
「それは何ですか?」素朴な疑問を口にする。
「命」
「え」
「俺になろうとしたもの。でも崩れちゃった」
反射的に、先ほど見た二人のムルが頭を駆け巡る。それから、何かの割れる音。あの場にガラスのようなものはなかった。一体、何が割れたのだろうか。ムルの言っていることはよく分からないし、できたら分かりたくなかった。
「思考を止めないで、賢者様」じっとこちらを見つめて来る。その瞳は濁りのない水流のように透明で、美しくて、どこか恐ろしい。
「考えを放棄することと、答えが出ないで沈黙することは、似ているようで全然違うよ」
心を見透かされたようで、落ち着かない。まっすぐな瞳は、賢者の心も、頭の中も、世界の秘密も、月の裏側も、ぜんぶ、ぜんぶ、解き明かしてしまうに違いない。
「俺は考える人の顔が好きだよ」
それは、前に聞いたことがある気がした。見知った魔法使いであるはずなのに、知らない誰かのようで、少し怖い。何かが砕ける音が、耳から離れない。ぴしぴし、とひびが入って、何かが割れる。それもまた、どこかで聞いた気がする。
ムルは持っていた一つの欠片を空にかざした。紫の光が溢れる。欠片は内側へ向かうにつれて透明さがなくなり、色が濃く、暗くなる。深く、鈍く、核のような何かが居るようだった。ふと、ムルと目が合ったか思うと、彼はにっと笑った。そうして、おもむろに「あ」と口を大きく開く。そのまま、ぱっと欠片を持っていた手を離した。気が付いた時にはもう遅くて、欠片はムルの口へと、重力に従いまっすぐに落ちていく。ごくん、と喉が動いた。賢者は衝撃のあまり、声も出なかった。明らかに、いつもの欠片と違ったから。
「ムル?」彼の名前を呼んだけれど、それが正しいのか自信がなかった。
「んー?」異様な欠片を食らったムルは、どこかに異変があるわけではなさそうで、二コリとこちらへ微笑む顔はいつも通りだった。その瞳は燃える星のようで、吸い込まれそうになる。ぞくりとした感覚が体中に広がって、腹の底が冷えた。
あの夜に聞かれた問が頭をよぎる。何かが入り混じった蛹からは、一体何が生まれるのだろう。
紫の蝶がひらひらと舞う。五匹の蝶々は群れをなすようにそろって、けれどバラバラに辺りを飛び交っていた。太陽の光を浴び、羽が透き通り、周りに紫色がこぼれる。
びゅうっと、強い風が巻き起こる。足元に咲いていた花が巻き込まれ、ひらひらと、きらきらと、花びらを散らす。桜は散るときが一番綺麗なんだと、誰かが言っていたのを思い出した。最後に見たのは、いつだっただろうか。
はっと気が付けば、賢者は一人、森に取り残されていた。ムルも、蝶々も、どこにも見当たらない。耳の横に心臓があるんじゃないか、と思うぐらいにうるさい。どうしようもない不安感が賢者を襲う。とても綺麗な花畑なのだろうが、もう二度と来たくないぐらいだった。周囲をぐるりと見渡すが、やはり人影はどこにもない。けれど、地面にきらきらと光る何かが落ちていたのを、見つけてしまった。賢者は恐る恐るそれに近づく。
「夢じゃなかったんだ」
落ちていたのは、いつもよりずっと大きい、パープルサファイア。きっと、ムルの魂の欠片だったものだ。砕けたはずのそれは、金属のようにドロドロと溶け合い、一つの塊になっている。溶けたチョコレートが一つになるのと同じだ。拳ぐらい、いやそれより少し小さいぐらいの大きさだった。賢者は、塊になったそれをそっと持ち上げる。すこし温かくて、やわらかい感触がして、とても気持ち悪かった。ついさっきまで動いていた内臓を、そのまま掴んでいるような感覚だった。大きく膨らんだ欠片をハンカチでやさしく包み、賢者はポケットに突っ込んだ。来た道を駆け戻る。とてもじゃないが、自分一人では対応できない。一刻も早く、誰かに会いたかった。
◇
シャイロックは魔法舎にあるバーに居た。まだ夜には早いため、賢者とシャイロック以外には誰も居ない。彼はグラスを磨いていたが、賢者の姿を見ると作業を止めて「こんにちは、賢者様」と声をかけてくれた。
「忙しいところすみません、シャイロック。あの、これ、どうしたら」
優しく微笑んでくれたシャイロックであったが、ひどく動揺した賢者を見て心配そうな表情に変わる。賢者がポケットからパープルサファイアを取り出した瞬間、その表情はさらに強張った。きっと、これが彼の探し物だ。
先ほどまでは溶け合い、やわらかさのあった欠片は、今はしっかりと固形を保っていたが、すこし歪な形をしていた。まるで溶けたキャンディーのようだと思う。やはり小瓶と比較しても、明らかに大きく、カウンターの上に置くとゴトリと重たい音がした。これではいつもの小瓶には入らない。じっと見つめていると、中で何かが蠢いているように見えて、ひどく気味が悪い。普段の宝石みたいな見た目と違い、まるで生き物のようで、耳をすませば心臓の音や呼吸音、内臓が動く様が透けて見えそうだった。蛹みたいに、ここから何かに生まれ変わるんじゃないかと錯覚しそうになる。蛹は、変身したら何になる。綺麗な見た目をしていたら、それでいいのだろうか。欠片を食べれば、本当にかつてのムルが蘇るのだろうか。得体の知れない恐怖が賢者を飲み込む。それは、幼い子が夜に見たお化けのように、本当は存在しない物に対する恐怖かもしれない。けれど、可能性がないとは言えない。他でもない、当人が言っていたように。
シャイロックは困惑しているようで、先ほどから何も発しない。同様に、賢者もまた混乱していたが、とにかく昨晩から今朝にかけての出来事を報告しようと口を開いた。がしかし、意味のある音を発することはできなかった。
がしゃん、と大きな音を立て、目の前の欠片が砕け散る。ついさっき、聞いたのと同じ音。シャイロックが欠片に向けて思い切り、アイスピックを振りかざしていた。
「え」賢者は間抜けな音がもれる。それ以外の言葉が出てこなかった。欠片は見事に四つに割れ、辺りに細かいカケラが散らばる。きらきらと輝いていて、綺麗だった。アイスピックは完全に突き刺さっていて、シャイロックが力を込めて引き抜くとカウンターに小さな穴が開いているのが見えた。もったいない、なんて場違いな感想が浮かぶ。
「大きな音を立ててしまって、すみません賢者様」そう言いながら、彼は飛び散った欠片を丁寧に拾い集める。すぐさま空の小瓶を準備し、彼らをそれぞれ別に閉じ込めた。それは、尾びれの綺麗な観賞魚をそれぞれ別の水槽にいれるのと同じことだ。もう二度と、互いを食らい合わないように。
「ですが、あの大きさだとうまく飲み込めないでしょう?」
賢者はどうしたら良いか分からなかったが、「そうですね」というありきたりな同意だけ示した。それが何に向けての同意かも、よく分からないまま。賢者はそっとポケットに手を入れた。そこには、冷たくて、やわらかい小さな花びらが一枚入っていた。
◇
依頼を受けた賢者たちは、中央の国の博物館へと向かった。魔法の痕跡はみられたけれど、それ以上の情報は得られなかった。復旧作業がメインとなり、少し心配だったけれど、宝石の知識があるムルも連れて行った。荒れた展示室を直すだけだったから、魔法使いが何人か居ればあっという間に終わってしまう。やるべきことが早々に片付いてしまった一同は、職員の方々の最終チェックが終わるまで、各々好きなように博物館を見て回っていた。賢者が昆虫の展示してあるエリアに足を踏み入れると、そこには先客が居た。
「ムル」名前を呼ぶ。それは間違いなく、彼の名前だ。
「どうしたの、賢者様」くるりとこちらを振り返る。ムルが見ていたのは、蝶の標本だった。近くには、蛹や幼虫のスケッチもある。色とりどりの美しい羽がいっぱいに展示されていて、とても綺麗で、ほんの少しゾワゾワする。一通り目を走らせてみたけれど、あの紫の蝶はどこにも居ない。あの日以来、魔法舎の周りでも見なくなった。
「蛹からは何が生まれると思います?」あの日から時々考える。
「うーん」蛹から何が生まれるのか。幼虫は、何に変身するのか。なにをもって同じというのか。
ムルは質問に対してうんうんと唸る。本当に悩んでいるのか、わざとそうやって見せているのか、そのどちらにも見えたけれど、直感的に、ムルの答えは決まっているような気がした。
「分かんない。ちょうちょかもしれないし、猫かもしれない。それとも、ただの亡骸かも」
はりつけられた蝶々がじっとこちらを見る。ピンで止められ、動けない。自慢の羽がはためくことは、もう二度とない。孵った時は、そんなこと思いもしなかっただろうに。
「その時になってみないと、誰にも分からないよ」
「……そうですよね」
あの日以降、街で強い風に襲われることは、なくなった。