必ずルールを守ってください。
真っ暗な天井を見つめ始めて、どれほどの時間が経っただろう。暗闇に慣れた目は、ライトの位置や天井の梁を正確に捉えることができた。わたしは、布団の位置を整え、仰向けから横向きに寝転がる。足元に転がっているかぼちゃのクッションを抱えてみて、目を閉じる。時計の針が動く音や風の音に混じって、遠く耳鳴りすら聞こえてくる。
眠れない。今のわたしを表現するなら、その一言に尽きる。昼寝をしたわけでもなく、朝から寝過ぎたわけでもない。むしろ、今日は家の大掃除をして、買い出しに行って、洗濯物を干して、いつもよりたくさん働いた日のはずだ。だけれどどうしてか、眠れないでいる。明日も朝から仕事があるというのに。できるだけ時計を見ないようにしていたのだが、渋々ベッドボードの明かりをつけて時計を確認すると、スカリーに「おやすみなさい」を告げてから、もう一時間半も経っていた。ニュースのくだらない特集は嘘をつくことも多いけれど、少なくとも「眠れない夜に時計を見ると、気持ちの焦りや損した気分になって、余計眠れなくなります」という情報だけは本当だった。これからはもう少し、テレビを信じてあげよう、と心の中で思う。何だか少しだけ喉も渇いた。起き上がってしまうとさらに眠りから遠ざかるような気もしたが、一度意識された乾きを見過ごすこともできない。仕方なくわたしは、ベッドから起きあがり、寝室の扉を開けた。
廊下に出ると、キッチンの方から明かりが溢れていた。おや、と思いながら明かりを頼りにキッチンへ向かう。ペタペタとスリッパの音が、廊下に響く。電気の眩しさに目を細め、手で覆い隠しながらも、指の隙間からキッチンに立つスカリーを捉えた。彼はいつものエプロン姿――グレーと白のコックコートとふわふわのコック帽を身につけていた。大きなシリコンマットを広げて、何か生地のようなものを、綿棒が転がっている。あんな道具がこの家にもあったんだ、とわたしは思った。
「おや。どうかされたのですか?」
「水が飲みたくて」
「ああ。そうでしたか」
調理をするスカリーの手元を横目に、冷蔵庫から冷えた水を取り出す。振り返ると、目の前でわたしのコップが空に浮かんでいて、悲鳴をあげそうになった。
「はい、どうぞ」スカリーが魔法で浮かせているのだとすぐに理解する。
「あ、ありがとうございます」
きらきらと浮かぶコップを手に取り、そのまま水を注いで飲み干した。乾きはなくなったが、その分冷たい水で目が冴えたような気もする。
いつの間にか作業を再開していたスカリーの邪魔にならないよう気をつけながらも、彼の横に並ぶ。
「何作ってるんですか?」
彼は生地をラップで包み、薄くなるよう伸ばしているところだった。
「明日の朝食ですよ」
「へえ、何です?」
「クロワッサンです」
「クロワッサン」わたしは鸚鵡返しに呟く。「ああ、だからこの前、大量のバターを頼んできたんですか?」
「ええ、その通りでございます」
「あれ全部使うんですか?」
「そうですよ」彼は生地を正方形の形に整えている。「バターが多い方が、より美味しくなりますからねえ」
その口ぶりは、まるで手慣れた職人のようだった。実際、この家の食事のほとんどはスカリーが担っているので、誤りではないかもしれない。わたしはそのまま、彼の作業をぼうっと見ていた。他人の料理、他人の工作、手芸、修理、掃除。これらは何故か人の目を惹きつけて離さない。特別興味がなくとも、何時間でも見ていられるような、不思議な魔力があるものたちだ。わたしもまんまとその罠に嵌り、スカリーが手際よく生地を捏ねて、伸ばして、形を整えていく様を意味もなく見ていた。
「貴方は、おやすみになられないのですか?」彼が言う。
「寝ようと思っていたんですけど、目が冴えちゃって」何なら少しばかり、お腹も空いてきた。
「ふむ。そうでしたか」スカリーは生地を四角にする。「よろしければ、もう少しだけ待ってもらえますか?」
「え?」
「我輩は今からこのパン生地を寝かせます」彼は品良く五本の指を伸ばして揃え、綺麗な正方形になった生地を指差した。「それが終わったら、次は貴方を寝かしつけて差し上げましょう」
言われた通り、わたしは大人しく彼がパン生地を寝かせるのを待っていた。明かりのついていないダイニングから、カウンター越しにキッチンを眺める。椅子に座り、水の入っていたコップを握ると、まだ少し冷たさが残っていた。スカリーは慣れた手つきで効率よく、作業を進めている。冷蔵庫にパン生地をしまったかと思うと、すぐに後片付けにも取り掛かり、あっという間にキッチンは元通り、何もない綺麗な状態へと変わった。まるで魔法みたい、と思ったけれど、あれは魔法ではなく彼自身の努力の賜物だ、と思い直す。現代的なキッチンもまた、彼の生きた時代にはなかった物のはずだ。
「お待たせいたしました」カウンター越しに声をかけられる。
「いいえ、全然」わたしはカップをテーブルに置いて立ち上がり、キッチンの方へと向かった。「あっという間に終わっていて、びっくりしました」
彼は品良く、くすくすと笑った。それから、手品師のように、指先をくるりと回す。きらきらと控えめに輝く光が現れ、スカリーは灰色のコックコートから、淡い茶色のパジャマへと変わっていく。麻袋にも似た、何とも言えない色合いをしている。ボタンを首元まできっちりと留めて、最後に頭に残ったコック帽をポンと軽く叩くと、パジャマと同じ色をしたナイトキャップになった。いつものかっちりと着込んだ服装とは異なり、何というか、可愛げのある格好だ。
「おお」わたしは控えめな歓声を上げながら、小さく拍手をしてみせる。彼の魔法はいつ見ても、心躍る。
「さあ、いきましょうか」
スカリーは私の方を向いて微笑む。
「どこへ?」その格好で?
「貴方を寝かしつけに、ですよ」スカリーは廊下をスタスタと歩き始める。
「寝かしてつけるって言ったって、どうするんですか?」
「そうですね」彼は顎に手を当て、考える。何か案を持って提案したわけではないのか、と思う。「そうだ。寝物語はいかがですか?」
「何かご存知なんです?」
「いいえ、まったく」
「何なんですか」
「ああ、それでは子守唄はどうでしょうか?」
「それはちょっと」
「おや、我儘ですねえ」
貴方のせいでしょ、という反論はわざわざ口には出さなかった。
寝室の前に辿り着くと、彼は「さあ、どうぞ」と扉を開けてくれた。わたしは、ありがとうの意味を込めて軽く頭を下げた。
明かりの消えた寝室は真っ暗で、何も見えなくなっていた。わたしは手探りでベッド元へと向かい、腰を下ろす。
「それで、どうするんですか?」
「そうですねえ」スカリーが扉を閉めると、ついに辺りは真っ暗となり、彼の姿すら見えなくなる。わたしの呼吸。時計の音。それ以外の音は、何ひとつ聞こえない。まるで、ここにはわたししか居ないみたいに。
突如、カチと小さな音がすぐ隣から聞こえて、枕元に明かりが灯った。反射的に光の方を向く。見ると、スカリーが勝手に、ベッドサイドのランプをつけたようだった。小さな光に照らされる中、パジャマの裾から、彼の細い腕が覗く。反対側の壁が、彼の透ける腕を通して薄らと見えた。ランプを中心にまわりがじんわりと明るくなり、少しずつ暗がりに慣れた目は、ようやくスカリーの居場所を捉え始める。
「ほらほら。もう眠るのですから、そんな所に座っていないで、横になってください」
「ええ」わたしは少し躊躇う。もう眠る気なんて無くなってしまい、このまま彼と長い夜を明かすのも悪くないと思い始めていた。
スカリーは枕を手に取ると偏った綿を寄せて、ふかふかにしてくれた。三十分前のわたしが放り投げたクッションを足元に揃え、縦横が逆になった布団を掛け直す。
「はい、どうぞ」彼は布団を軽く捲って、わたしが入り込む隙間を作った。
ここまでされて「いやだ」と断ってしまうのは、それこそ我儘で駄々を捏ねているみたいに思えて、わたしは大人しく横になった。彼は上からわたしの胸元まで布団をかけて、ぽんぽんと軽く布団を叩いて整える。わたしは仰向けから横へと寝返りを打って、彼のいる方を向いた。
「ありがとうございます。もう十分ですよ」
スカリーは首を横に振る。「いいえ。さきほど、『寝かしつける』と言ったではありませんか」
「まだ何かしてくれるんですか?」
「ええ、もちろんでございます」
彼がくるりと手を回すと、ベッドサイドがきらきらと輝き出す。魔法だ。あっという間に、見覚えのあるロッキングチェアが現れ、彼は腰を下ろした。屋根裏部屋にある、彼の所有物だ。スカリーが座った反動で、椅子は後ろに大きく揺れた後、ゆらゆらと動きが小さくなる。波だ。頭の中に、水滴と波紋のイメージが浮かんだ。この世の多くは、波によって構成されている。
「さて、貴方がゆっくりとお休みになれるように、何かお話でもいたしましょう」彼はくすくすと笑いながら「子守唄ではご不満のようですから」と続けた。
「それなら、聞きたい話があるんですけど」わたしは口を開く。
ん、と彼の相槌が聞こえた。たった一音。だけど、その呼吸交じりの一音は、彼にしては気が抜けたような声だった。やわくあたたかく、愛おしさを詰め込んだような風が、胸の内をくすぐった。
「スカリーさんって生前はどんな方だったんですか?」と口にしてから、言葉がおかしいな、と思う。「いや、あの。どんな方って言うのは、違うかもしれません。その、生前は何をされていたのかなぁって思って」
遠回りな訊き方をして、反って失敗したような気がする。
「おや、それはまた突然ですねえ。なにかありましたか?」たどたどしく不躾な質問に、さすがのスカリーも気分を害したかと思ったが、そうでもないようだった。ただ、彼は純粋な疑問を口にした。少しばかり答えにくい切り返し。あはは、とわたしは当り障りのない愛想笑いを口にしたが、どうにも空気が気まずく感じられて、わたしは懺悔するかのように、聞かれてもいないこと喋り始める。
「実は、図書館で借りた本にスカリーさんについての記述があったんです。ただ、『ハロウィンの基礎を作った』ということと、『ハロウィンの王と呼ばれていた』ってことぐらいしか分からなくて。それで、実際はどうだったのか、よく知りたいなって思ったんです」
ほう、と彼は口元に手を当てる。「我輩に関する書物が、この世にあったのですね」驚きました、と小さく口にした。「『ハロウィンの王』だなんて、お恥ずかしい限りです」
「そうですか? よく似合ってると思いますけど」
「ほ、本当に?」
彼は口を大きく開け、青白い頬を両手で覆った。血の通っていないはずの頬や目尻が、色づいているように見えて、私は慌てて目を凝らす。やはりそんなことは無く、単に照れている彼の表情がよく見えるようになっただけだった。スカリーは一通り恥ずかしがった後、自分を鼓舞するように声を上げる。
「いえ、我輩などまだまだ未熟者でございます。確かに世界各地を巡りましたが、道半ばで途絶えた場所もありますから。もっと精進しなければ」
「死して尚?」思っていたより崇高な精神だ。
「ええ。ハロウィンを愛する心に、命の有無は関係ありませんから」
はあ、と私は返事をしてから、隙を見て本題に戻す。「ただスカリーさんのことについては、本当にちょっとしか記載がなかったんですよね」
「ええ、そうでしょうね」スカリーは深く頷く。「我輩は、あちこちを旅しておりましたから、記録などほとんどないかと」
「あ、それは少し書いてあったかもしれません。『世界中を巡って、ハロウィンについて伝えまわった』と」
「ええ」彼は少しだけ遠くを見つめながら、ゆるりと口角をあげる。よほど楽しかったのだろう。当時の思い出や幸福が抑えきれず、零れ落ちているようだった。「それはもう、非常に心躍る旅路でございました」
満ち足りた様子の彼を見て、わたしも小さく笑った。「その素敵な旅路について聞きたいんです。せっかくなら、スカリーさんの口から直接お伺いしたくて」
はて、と首を傾げる彼に、わたしは言葉を続ける。「本に情報は載っているかもしれませんけど、文字を読んでなぞっただけで、本当のところは何も分かりませんから」
「ああ」彼は感嘆の声をあげた。「それは、おっしゃる通りでございます。書物を読み思い描いていたものと現実が異なる、ということは大いにあり得ることです。実際に赴き、この目で体感しなければ」
でしょ、とわたしは小さく笑ってみせる。「それにね」
「ん?」
「ハロウィンの王から直接歴史を伺えるだなんて、贅沢でしょう」
あなたと暮らしている、わたしにしかできないことですから。
瞬間、薄暗い部屋の中、渦巻く瞳がさらに丸くなり、瞬きを繰り返す。オレンジが輝きを増す。彼はくつくつと肩を揺らしていたかと思えば、笑いが堪え切れなかったのか、顔をゆるませ人懐っこい笑みを浮かべた。
「ええ、ええ! それは間違いなく、貴方だけの特権です」
「でしょ。わたしも気になるので、スカリーさんさえ良ければぜひ」
「もちろん、構いませんとも。貴方からの珍しい”おねがい”ですから」彼はニコニコと機嫌良さそうに、椅子を揺らす。「それにしても、我輩のことを調べてくださるなんて」
彼の言いたいことは分かる。私はこれまで、スカリー自身のことについて、意識的に訊ねようとしてこなかったからだ。過去にそれを遠回しに詰られたこともあるし、それに対して曖昧に笑って誤魔化したこともある。
わたしは「ううん」と声をあげ、時間を作った。今、一生懸命考えていますよ、とアピールする。それを分かってか、スカリーは先を促すことも、急かすこともせず、ただ優しく微笑むだけでじっとわたしの言葉を待っていた。それは言い換えれば、どうにかして返事をしなければならない、ということだった。悩んだ末、「わからない」とか「言いたくない」という結論だったとしても、それを素直に告げる必要がある。
自分の気持ちを辿り、ぴったり合う言葉を頭の引き出しから搔き集める。ようやく、似たようなものを探り当て、口を開いた。
「知りたいなと思ったんです」
それはなぜ、と彼は無言で続きを促す。
「これからも、別にスカリーさんのことを訊かなくても、知らなくても、穏やかに暮らしていける自信はあります。これまでもそうだったでしょう?」
「ええ、まあ」
「だけど、知ってた方がもっと楽しい」
「え?」
「スカリーさんは、私が珈琲とミルクが7:3で入っていると好きって、知ってますよね」
「え、ええ」スカリーは困惑の声をあげる。「毎朝そちらをご用意しておりますから」
「わたしは、ちょうどいいカフェオレが出てくるとうれしいです。『あ、ちゃんと知ってくれてるんだ』って思えて」
会話の流れが見えてきたのか、ふと彼が息を呑む気配がした。「だけど、わたしが知っているスカリーさんは、ここで出会ってからの様子だけです」
たとえば、と、わたしはわたしの知っている彼についての記憶を辿る。「あ。朝、枕元に居るの、わざとですよね」
「え!?」彼は急に大声をあげるものだから、わたしは思わず、あははと声に出して笑ってしまった。思った通りの反応だ。「き、気づいていらっしゃったのですか?」
「毎朝同じことが繰り替えされていたら、ね? それに、スカリーさんの体温はとても低いですから、触れられたらさすがにわかりますよ」
「それでしたら、早くおっしゃってくれればいいのに」
「何を?」本当は知っている。
「何を、って」
「毎朝キスしてること?」
「それは」と言ったきり、彼は口を開いて閉じて、を繰り返し、はくはくと空気を吐き出した。息のできない魚みたいだ、とわたしは思う。
「別に咎めるようなことではないですし、嫌ではないのでそのままにしていただけですよ」
へあ、と意味を伴わない情けない声が、スカリーから零れ落ちた。わたしはだんだんと機嫌がよくなってきて、いつもより口数が増えているのに、自分でも気がついていた。いいや、眠たかったせいにしよう。それで、何もかも全部話してしまえばいい。
「他にも、起きている間はできるだけわたしに触れないようにしてくださってますよね。最初に会った時、冷たくてびっくりしてしまったから、かな? 時々、手を繋ごうとしたり、キスをしようとしたりするけれど、全部途中でやめちゃう」
そうですよね? と彼に訊ねると、スカリーはわなわなと肩を震わせて、両手で顔を覆い隠していた。顔を赤らめたり、涙をこぼしたり、汗をかくようなことはないのに、見ただけでこうも気持ちが分かるとは、少し面白くなってきた。
「だけど、わたしが眠っている間には、触れてくれる」
ずるいですね、とわたしは小さくこぼす。「こうしてみると、わたしもスカリーさんのこと、何も知らないわけではないですね」
「そのようですね」覆う手の向こうから、くぐもった声が聞こえる。
「それで」私は横になったまま、少し顔をあげると、スカリーは指の隙間から顔を覗かせた。落ち着かず、パタパタと動いたのか、ロッキングチェアに揺られるスカリーと目を合わせる。「今みたいに、死後のスカリーさんのことを知っているだけで充分楽しく暮らせているのですが、だけど知らないことがあると不安にもなります。ほら、この前みたいに」
「ああ」彼は苦い声をあげた。
「今のままじゃ、何かあった時にわたしは何もできない」
瞬間、彼の表情が変わったのを、わたしは見逃さなかった。時間が止まったかと錯覚してしまうほど、周囲が静まる。遅れて、秒針が時を刻む音が聞こえて、世界は変わらず動いていることを知る。
「ねえ、スカリーさん」と、わたしは彼に声をかける。「わたしは、今の生活を永遠のものにしたいんです」
永遠。彼は言葉をなぞるように、唇を動かす。
「そのためだったら、何でもできるような気がします」
「それはまた随分と、大胆なことを」
「実は前々から思ってたんですよ? 内緒にしていただけで」だって虫が良すぎる。最初は同居すら断っていたひとが、こんなことを言うなんて。
「我輩としては大変喜ばしいことですが……なぜ秘密を打ち明けてくれる気になったのでしょうか?」
「降参! って気持ちになったから」
「え」
「最初に会った時も思ったんですよ」わたしは彼との出会いを思い出すように目を瞑る。一度目を閉じると、そちらの方が随分と楽なことに気がついた。
彼と出会った瞬間。最初の、声をかけられたあの時から、わたしは彼の手のひらの上だった。あるようで無い選択肢を突きつけて。こちらが諦めるまで話を続ける執念深さを持ちながらも、人の心にするりと入り込んで、いつの間にか目を奪う。「スカリーさん、人を籠絡させるのがお上手ですね」
「ろ、籠絡?」そんなつもりじゃ、と口籠る彼に、わかってますよ、と小さく笑った。「だけど、事実としてわたしはこうなってますから」
「それは、我輩のせいですか?」少しだけ、彼が返事をするのに間があったように感じたが、わたしは彼の様子を確認することができなかった。抗えない眠気がわたしを襲う。一度閉じた瞼を開けるのは、今のわたしにとってはとても難しいことだった。
「ん、そうかも」と答えてから、すぐに自分が何を言っていたのか分からなくもなって、「ごめん、わかんない。どうなんだろう」なんて、言い訳じみた言葉を続けた。「とにかく、わたしは生前の貴方のことを知りたいんです」
ね、良いでしょう? と、わたしは数少ない"おねがい"をする。寝惚け眼、薄らと開けた瞳にはベッドサイドの灯りが眩しくて、彼の顔をうまく捉えることができない。
隠していた願いを言葉として、形として発してから、じわりじわりと不安が湧き上がり、わたしを蝕んだ。「あ、失敗したかも」等と後悔の念が生まれるけれど、睡魔に襲われた脳では、挽回するための言葉は思い付かず、思考がまとまらないまま途切れて、懸念だけが残り続けた。だから、彼が「わかりました」と言ってくれた時、わたしは自分でも笑ってしまうほど、安心した。
「ああ。もう眠たいのですねえ」ふふ、と笑う声が上から聞こえる。カチッと音がして、閉じた瞼の向こうで明かりが消えるのがわかった。「ほら、明日も朝が早いのでしょう? 我輩の旅路についていくらでもお話しいたしますから、早く寝ましょう。ね?」
うん、と返事をしたつもりだったが、それすら言葉になっているのか分からない。
くすくすと、甘くやわらかな笑い声がする。「ああ、こういう時は確かこのように始めるのでしたね」
昔々の、そのまた昔のこと。
彼の落ち着いた語り口は、聞いていて心地が良いものだった。だから尚更耐えられず、わたしは意識のほとんどを手放していた。大きな波に飲み込まれるように、だけれど、合間に、少しだけスカリーの姿が見える。
「おやすみなさい。良い夢を」
たっぷりと愛おしさを滲ませたような声がする。
冷たい風が頬を撫でて、あっとわたしは思う。