違反者は罰せられる可能性があります。




 招待状にさっと目を通し、テーブルにあるペン立てから適当なボールペンを探す。気に入ったお菓子の缶や余ったマグカップが捨てられないわたしは、五つもあるペン立てを前に指を泳がせ、まともにインクの出る黒のボールペンを手に取った。躊躇うことなく、欠席の旨に印をつける。
「おや、行かないのですか?」わたしのすぐ横にいたスカリーが訊ねる。最近の彼は家に居る時、以前よりラフな格好をするようになっていた。今日の部屋着は、ゆるやかなシルエットのセーターに、サングラスではなく丸い眼鏡をかけている。レンズの入っていない、フレームだけの奇妙な眼鏡だ。
 たしかに、幽霊に視力は要らないだろう。わたしは、自分の中でそう結論付けているため、眼鏡についてあえて詳しく訊ねたことはない。ただ一度、「似合ってますね」と伝えてから、彼は眼鏡を気に入りつけているようだったので、かわいらしいなと思ってはいる。
 私の手元を覗き込むスカリーは両手いっぱいに本を抱えていた。小説、画集、レシピ本、写真集、図鑑、絵本。ジャンルはバラバラだけれど、どれもこれも全部、わたしが図書館で彼の為に借りてきた物だ。眠らない夜のお供になればと見繕ってみたら、思ったよりも数が多くなってしまった上に本の種類がバラバラになった。
「たしか、ご学友とのパーティーではありませんでしたか?」
「そうですよ。同窓会ってやつです」
 他の郵便物も手に取り、目を通す。いつも通り、新聞と不動産屋のチラシだけだ。「実家の方に届いていたみたいで、家族がこっちに送り直してくれたみたいなんです」
 意味もなく、新聞の見出しへと適当に目を滑らせる。『夕焼けの草原、新しいエネルギー事業を開拓か』なんて、微塵も興味がない。それでも新聞から目を離せないでいる。
「でもわたし、あの場があまり好きではなくて。別に良いかなって 」
 できるだけ何でもないようなふりをして、答える。 本当は「あまり」ではなく「かなり」だったが、もしも彼が同窓会が大好きだったらどうしよう、と思いオブラートに包もうとした結果、少しばかりはみ出してしまった。
「そうでしたか」
 わたしが少しだけ勇気を出して吐露した秘密は、たった一言で流された。あれこれ詮索されるよりも、その方がずっと良い。どこかで、彼ならそう答えるだろうと思っていたから、口に出せたのかもしれない。甘えているな、と思う。
 スカリーは一度テーブルの上に本の山を乗せると、わたしの向かいにある椅子に座った。わたしは新聞で顔を覆いながらも、彼の様子を目の端で捉える。
「我輩にとっても、その方が好都合ですねえ」
「ん?」
「貴方がどこか遠くへ行き、我輩の知らない者と出会い、何日も家を空けるだなんて。考えたくもありません」
 わたしはふっと小さく笑うと同時に気が緩み、ようやく顔を上げた。「そういうこと、言うと思ってました」
「おお。それは何とも、運命を感じますね」
「運命というより、慣れのような気がしますけど。もっと直接的に、『行って欲しくありません』とか、言われるのかと」
「そのように言って欲しかったのですか?」
 思わぬ反撃に、わたしは言葉に詰まった。照れや恥ずかしさで口元が歪み、露骨に目を泳がせ、脳は大慌てで適切な言葉を探す。言葉で隠そうとしたところで、この態度こそが答えではないか、と頭の中で自分の声がした。
「貴方は照れている時、いつも目を合わせてくれませんねえ」
「そうですか?」図星だった。
「手元で何かを弄ってみたり、目を泳がせたり。ほら、今みたいに」
「よくみてますね」
「もちろん、貴方のことですから」
「そうですか」自分の声がぎごちない気がする。
 彼は頬杖をついて、にんまりとした笑顔を浮かべた。「つれませんねえ」
 よく見るとにこやかな表情とは裏腹に、渦巻くオレンジの目はじっとわたしを観察し、捉え続けていた。私は思わず、ははと愛想笑いをしてこの場を誤魔化そうとした。強い視線が居心地悪い。かといって、即座に目を逸らすのも良くない、と直感的に思い、壁掛けのカレンダーを見るふりをしながら、できるだけ自然に顔を背けるように努めた。
 風向きが悪い。いつの間にか雑談は心理戦と化していた。あの晩。スカリーと話しながら眠った夜。あの日から彼は、前と少し変わった気がする。具体的に言えば、前よりも誤魔化されてくれなくなった気がした。よりストレートな言葉で、声で、視線で。心の内を暴いて、掴もうとする。
 たしかに「この生活を永遠に」と言い出したのはわたしだけれど、今の距離感が続けられたのはわたしたちの関係が曖昧な形だからだ、と思っている。生者とゴーストが偶然、同じ家に暮らしている。それ以上でもそれ以下でもない。全てが明らかになったら、きっと何かが崩れる。今のだってそうだ。「わたしだから、よくみてる」とはどういうことなのか。それを聞いて、彼から何か返ってきたら。そしたら、この感情や関係に名前がついて、形になる。それに向き合い応える覚悟が、今のわたしには無い。
「苦手なんですよ」
 唐突に始まったわたしの話に、スカリーは大きく瞬きをしてから、少しばかり姿勢を正した。「知ってる人のはずなのに、まるで違う人みたいで。居心地が悪い」
 彼はゆったりと瞬きをしてから、「それは、先ほどのパーティーのお話ですか?」と口を挟んだ。
「そうです」わたしは視線をカレンダーから正面へと移す間に、適当に始めた話題の続きを考える。あの心が浮つくような甘みのある空気から、逃げたのだ。彼が何かを吐露したりわたしがうっかり告白してしまう前に、違う話題にしてやろう、と。
「久しぶりに会うかつての友人も苦手。今何してる? とか、自分のことを話すのも、あまり好きじゃないです」
 指を折って、同窓会の苦手な点をひとつひとつ数えていく。地元と実家が苦手なのだ、という究極の答えは口に出さず、同窓会という概念をなぞり懸念点を羅列した。
「お酒が苦手です」
「ああ、ご自宅でもほとんど飲まれませんよね」
「お酒を飲まない分、人に会う時間というか、"同窓会に行った"という普通の人らしい事実を手に入れる為にお金を払ってるみたいで」
 いつの間にか、わたしは彼から目を逸らして新聞を見つめようとしていたことに気がついた。ゆっくりと視線を動かし、彼の顔を見るのは居心地が悪いので、薄らと透ける胸元のタイのあたりを見つめることにした。
 スカリーは何も言わずに、話の続きを促す。この話の行く末を思い、楽しんでいるようにも見えた。被害妄想だろうか。逃げるわたしを見透かされているような気がしてならない。
「あとダンスも苦手なんですよね」
「ほう、ダンスですか」
「そう」わたしは、自ら過去の苦い思い出たちを掘り起こし、ダンスに対する純粋な不快感から顔を顰めた。「こういう催し物の時、ありませんでしたか? 地元だと昔からある伝統らしいですけど」
「いえ、我輩の通った学園ではこれと言ってなかったような」彼は顎に手を当てて、とんとんと指を一定のリズムで叩く。「ですが、ワルツでしたら多少の嗜みがございますよ」
「え……なんでですか?」
「なんで、と言われましても」
 何の気無しに聞いたつもりだったが、思いの外言葉に詰まった彼を見て、ピンときたわたしは「ああ!」と明るく声を上げた。「たしかに、スカリーさん育ちが良さそうですもんね」
 スカリーは目を見開く。え、と小さな呟きが聞こえた気がした。
「当時の正確なところは知りませんが、嗜みとして必要だったりするのかなぁと思ったんですけど……あれ、違いましたか?」
「あ、いえ。そうなのですが」
「が?」思わず、不自然に現れた逆説を真似る。
「貴方が突然、我輩のことを褒めてくださるので、驚いてしまって」
 よく見れば、彼の血色の無い死人の肌はほんのりと色づいていて、熱を冷ますように両手で頬を押さえていた。虚をつかれたわたしは驚き、戸惑い、返答に困って、再び愛想笑いをした。本当に面白い人だな、とも思ったが心に留めておく。「まぁとにかく、同窓会には行きませんので。これ、出してきちゃいますね」
 この話はこれでおしまい。そう言わんばかりに音を立て、立ち上がる。曖昧となった話題を断ち切り、自分のペースへと巻き込んだ。
 そんなわたしを指の隙間から眺める彼の視線が、感じられるような気がしたが、鈍感な顔をして無視をした。返送用の招待状を手に持ち、最低限の荷物と共に玄関へと向かう。
「あの」
 背に投げられた呼び止めに、足を止めて振り返る。不安げにそわそわと指を組み替えながら、心なしか曇った顔をしている彼が目にとまる。
「本当によろしいのですか?」
「何が、って……ああ、同窓会ですか?」
「ええ。もしかしたら、我輩のためを想い遠慮されているのではないかと」
「そんなまさか」ありえない、とわたしは鼻で笑った。「スカリーさんとは関係なく、たとえ一人だったとしても不参加にしてましたよ」
 だって、あの家が好きじゃないから。
 そう、答えることはできず、代わりに「だって、踊れませんから」と、申し訳程度の愛らしさを込めて言った。
「そう、ですか」
 歯切れの悪い返事に、安心してください、貴方は悪くありませんよ、の意味を込めて、小さくと笑ってみせた。だが、それ以上のことは何も言わなかった。
「けれど、貴方がそこまでダンスがお嫌いとは、残念ですねえ」
「そうですか?」
「ワルツでしたら、我輩が教えて差し上げたのに。嫌がる貴方の手を引いて回るわけにもいきませんから」
「紳士的ですね」
「いいえ、当たり前のことでしょう?」彼は緩やかに微笑む。「それに」
 スカリーは自分の両手を家の明かりに透かす。「この体じゃ、それすらも叶わない」
 あぁ、とわたしは相槌を入れた。紛れもない事実を否定することはできないが、かといって肯定もしにくい。彼が時折みせる自虐的な物言いに対する最適解は、いまだに分からなかった。
「もし、貴方と踊ることができたら。きっと夢のような時間になったことでしょう」
「そうですか?」
「ええ、きっと」そっと伏せられた目に、神経の通わぬ瞼が震え、睫毛が揺れる。「きっと、そうに違いありません」
 彼はうっとりと夢を見るような声色で、繰り返した。薄らと開いた瞼からは、溶けかけの飴玉みたいなオレンジの瞳が見えて、どこか少し寂しそうにも見えた。
 何か、わたしにできることはないのだろうか。
 自然と湧き上がる思考に、わたしははっとする。
 スカリーにはそういう所がある。本人が自覚しているかは知らないが、人を自然と惹きつけ、動かすだけの魅力。彼がわざわざ”お願い”をしなくても、何となく何かをしてあげたり、声をかけてやりたくなるのだ。放っておこう、と思いながらも頭の隅に引っかかり、ついつい目で追ってしまうような、そんな魅力が。 
「あ!」
 と、わたしは思っただけのつもりであったが、自分の耳に自分の声が届き、驚き口を手でふさいだ。自分の発想と想像に興奮し逸る気持ちの傍ら、閃きとはまさにこういうことかと、どうでも良いことを考える自分も居る。
「あの、ちょっと、待っててもらえませんか? すぐ、すぐに戻りますから」 
「はい?」
 状況を呑み込めていないスカリーを置いて、わたしは部屋を飛び出す。
「まって、これは要らない」テーブルの上に、招待状を飛ばす。てんで的外れな方向へと飛んでいったのが視界の端に見えた気がして、そのうえ「ああ、ああ」とスカリーの声が聞こえたため、手紙を投げて失敗したのだろうと確信したが、振り向かずに目的の部屋へと急いだ。
 家の中を走る自分の足音が、記憶よりも重く、騒々しく聞こえる。
 体重が増えたのかも、と思わず自分の腹を触ると、彼の作る美味しい食事が頭に浮かんだ。たしかに、前よりも丸い。

 ◇

「それは……?」
 スカリーの問いにニコニコと答える。「シーツです。先日洗ったばかりの」
 わたしは、自分よりも大きな真っ白のシーツを両手で広げる。お日様の匂いは、もうしない。
「スカリーさん屈んでください」
「え」
「被せるので、これ」わたしはシーツをできる限り高く掲げた。背伸びをして、物を持つ両手をあげながら喋るのは、思いの外苦しいものだった。
「は、はい」
 日頃の運動不足がたたり、腕が震える。「もっと屈めます?」
「これ以上は屈むというより、しゃがむ形になるのですが」
「あ! それでお願いします」
 わたしは地面に丸くしゃがんだスカリーの頭上をめがけて、ふわりとシーツを放った。わ、と彼の小さな悲鳴が聞こえたので、「そのまま動かないでくださいね」と釘をさす。白く丸い物体の回りをうろうろしながら、シーツの位置を調整してみる。
「スカリーさん、立ち上がってみてください。必要だったら微調整しますから」
「あの、これは一体……?」 困惑の声をあげながらも、彼はゆっくりと立ち上がる。
「ちょっとお試し? みたいなものです」
 白のシーツがゆらゆらと揺れながら、私の目の前に白く、高く、布が聳え立った。ここまでは順調。思ったとおりだ。
「どうですか?」
「どう、と言われましても……我輩には一体何がなんだか」
 彼の正面だと思っていた方から声が聞こえず、わたしは少し恥ずかしくなった。どうも向きが違ったようだ。
「布、取らないでくださいね」何事もなかったかのように振る舞う。
「わ、わかりました」わたしは内心ドキリとしつつも、彼に気づかれないように、布越しのくぐもった声を頼りに移動する。
 改めて、おそらく彼の正面であろう方を向きながら、「すみません、ちゃんと説明しますね」と言って、場を仕切り直す。
「以前、スカリーさん言ってましたよね。生き物では無い、物になら触れることができると。正確には、何でしたっけ?」
「命ある生物以外であれば、触れることができる。そうお伝えいたしました」
「そう、それです!」わたしは勢いのままシーツを指さした。が、それは必然的に彼を指さすこととなり、誰に指摘されたわけでもないが怒られたように感じたわたしは、慌てて手をひっこめた。
 いつもと違い表情の見えない彼は、不気味で恐ろしい別の生き物のようだった。上品な口調で愛想がよく、人好きしそうな彼の喋りは、その声だけが取り残されると、不気味さを感じさせるものへと変わった。揺らめきながら宙に浮かぶシーツは、一見すると奇妙で滑稽だけれど、害がないと理解しても尚、視界に広がる非日常的な現象に対し自然と湧き上がる不安や緊張は消えなかった。
「あの、一旦鋏を持ってきても良いですが?」
「はい!?」彼の大声が響く。
「スカリーさんの目とか、お顔とか見えないのがやりにくくて」
「そ、それで。鋏でどう解決なさるおつもりで?」
「お顔のところに穴を開けるんですよ」わたしは、山のようなペン立てから切れ味の良いお気に入りの裁ち鋏を取った。乱雑なこの家じゃ、裁ち鋏すらペン立てにあるのだ。
「今!? この状態で!?」
「はい」わたしガタガタと引きずりながら椅子を運び足場にして、鋏を片手にスカリーの前に立った。「スカリーさん目ってこの辺りですか?」
「そうですけれども……あの、一度布を取った方がよろしいのではないでしょうか?」
「大丈夫。ゴーストなので目に刺さることも、怖いこともありませんよ」
「そういう問題では」「やりますからね」
 わたしが声をかけると、彼は諦めたように「はい」と小さく呟いた。
 シーツを軽く摘んで、鋏を入れる。開けた穴を基準に、眼鏡のフレームに沿って丸く切れ込みを入れる。「切りながら少し話しますね」
「はぁ」スカリーはされるがままだった。
「話を戻しますが、スカリーさんは主に無機物であれは触れることが可能なのかなぁと思ったんです」
 少しずつ慎重に鋏を入れる。まるで、誰かの前髪を切っているような感覚。慎重に、恐々と、真剣に。だけど、少し楽しい。
「動かないで」わたしの言葉に、うっと情けないうめき声が聞こえる。
「それなら、布越しなら触れられるかもと思ったんです」
 洗い立てのシーツが切れて、白い糸屑が袖に落ちる。切り取れた片目の布を摘むと、渦を巻いたオレンジの瞳と目があったので、ニコリと微笑んだ。端切れを床に放り、反対の目に取り掛かる。 
「スカリーさん自身には触れられなくても、スカリーさんは物を持ち上げることができて、わたしはそれなら触れる。であれば、わたしたちの間に挟まる物体を極限まで無くせば良いって思って」
 もう片方の目もくり抜き終え、左右を見比べながらガタつく線に微調整を入れる。「まあ、洋服でも手袋でも何でも良いんですけど、わたしの持ち物でスカリーさんの体格に合うものはないので今日はシーツで」
 よし、と小さく呟き、椅子を元の場所に戻し鋏をテーブルへと置いた。少し離れたところから、目の前のシーツのお化けの完成度を見る。
「どうですか?」
「……貴方の顔が見やすくなりました」
「わたしもです」
 わたしは楽しくて、くすくすと笑いながら軽やかな足取りでお化けに近づいた。
「どうですか、わたしの仮説。割と良い線行ってると思ったんですけど」
「理論上可能のように聞こえますが……なにせ我輩がこの体となってから初めてお話した人間が、貴方ですので」
「どうなるか分からない、と?」
「ええ」
「それじゃあ試してみましょう。ほら、手。持ち上げてみて」
 わたしがそう言うと、シーツのお化けの体からゆっくりと手のようなものが見え始めた。シーツの海をもこもこと、丸いものが蠢く。
 その指先を、掴んだ。
 掴めた。
 冷たい風が、指の隙間を通る。
 あ、と声をあげたのはどちらだっただろうか。もしかしたら、二人で一緒に呟いたのかもしれない。
 シーツに包まれた指先に触れる感触が、一瞬、わたしの手に伝わった。言葉にし難い不思議な感触。強く握ると、ふわりとすり抜け跡形もなく消えてしまう。
「今、少しだけ」わたしは呆然と自分の手元を見る。
「触れ、た」手のひらには、中身のないただのシーツが握られている。
 シーツのお化けのオレンジが、目玉の穴から見える。見上げると、相変わらず首が痛い。
 風で膨らむカーテンを掴んだみたいに。一番大きく膨らんだその一瞬、やわらかな布に包まれた見えない何かに、少しだけ触れられる。けれど、長くそこには居られない。
 予想とは少し異なる結果であったが、この現象は、かなりおもしろい。
「力加減によるんですかね?」手を離すと、シーツは波打ち、重力に従って垂れさがる。わたしは少しだけお化けに触れた手を眺めながら、握ったり、開いたり動かしてみた。こちらに変化はないようだ。「強く握ると、消えました」
 冷たい風が手をすり抜ける、いつもの感覚。その前に一瞬、間違いなく、実体を伴う何かに触れたのだ。まるで、人の指先のような形をした細い何かに。
 視界の端で、波打つシーツの白がちらつく。「あの、スカリーさん?」目線を手から上へと移し、いつまで経っても返事をくれない彼に呼びかけた。「大丈夫ですか? なにかありましたか?」
 シーツのお化けの、ちょうど首のあたりに2つ小さな山がある。シーツ越しではよく分からないが、おそらく両手を顔の前にして、見つめているのだろう。
「体になにか変化とか、ありました?」
 返事のない彼に、わたしは畳みかける。「スカリーさん」
「スカリーさん!」
 滅多に出さない大きな声に、シーツのお化けは小さく跳ね上がった。彼はようやく、わたしを見た。「申し訳ございません。少しぼうっとしておりまして」
「でしょうね」わたしは思わず苦笑いをした。「体に不調とか、ありましたか?」
「いえ、我輩はまったく。むしろ貴方の方が心配です」
「わたしも全然ですよ。少しひんやりしたぐらいで」
 ほらね、と自分の両手を彼に見せてやる。「ううん。思った通りとはいきませんでしたけど、大外れでもありませんでしたね。もう少し練習? すればうまくできそうな感じがしませんでした?」
「ええ」彼が静かに、落ち着いた様子で答えるので、わたしは意外に思う。もっと大きくはしゃいで、興奮して、早口で捲し立てて。目に見えて喜ぶものだと思っていた。実際はわたしの方が楽しくなってきて、早口でたくさん喋っている。わたしは彼のことを、思い違いをしていたのかもしれない。そう思うと、恥じる気持ちと共に、強い不安が腹の底から湧きあがった。途端に居心地が悪く、自分の視野が狭くなっていることに気づかされる。
「あの」また今度、気になったらやりましょうか。そう続けようとしたが、口をつぐんだ。わたしと彼とで、声が被った。吸い込んだ息はそのまま、吐き出す言葉を変える。
「ん? どうしました?」小さい子に話しかけるように、努めてやさしく答える。
「抱きしめても? 」
 何を言われたのか分からず、思考が止まる時間がおよそ三秒。
「え」それから、彼の言葉を理解し返答に頭を悩ませる沈黙が五秒ほど続いて、早々に根をあげたわたしは、素直に思うままを答えた。
「いちいち確認を取られるとちょっと……やりにくいです」
「ですが、無断で抱き寄せてしまうのも、あまり良くないかと」
 ううん、と唸り声を上げながら言葉を探して、思考と目線を彷徨わせる。心臓が跳ね上がり、顔が熱くなるのを感じながらも知らないふりをして、考え込むそぶりをみせたが、あまり時間をかけるのもおかしな話だと焦る気持ちのまま、まとまらない思考と共に勢いで言葉を発する。
「わたしが貴方のお願いを断ったこと、ありましたか?」
 今のわたしにできる精一杯の甘えと受容。少し照れ臭くて濁すような物言いをしてしまったけれど、それが逆に恥の気持ちを煽ると、口にしてから気がついた。熱が集まるわたしを、ひんやりと冷たいものが包む。気づくと視界いっぱいに白が広がっていて、体全体がシーツに囲まれていた。彼の細く長い腕は、わたしを包んでも尚有り余るようで、交差した先の手がわたしの腰のあたりに触れた。
 どうして良いか分からないわたしは、自分の胸の前に手を当てて、小さく縮こまった。強く掴んでしまうと、また体をすり抜けて消えてしまう。助けを求めたくて、上を向く。覗き穴の隙間から見える目が潤んで、揺れているようにも見えた気がした。
「側から見たら間抜けな絵面ですね」
「……そうでしょうか?」
「だって、今の様子を表すなら、"シーツ寄り添う部屋着の女"ですからね」
「我輩にはロマンチックなものに見えますがね」
「そんなことないですよ」ふっと、わたしは鼻で笑う。彼の言葉に対してではない。間抜けなことを考え、あまつさえそれを口に出そうとしている自分自身に向けた嘲りだった。「もし、ゴースト同士なら、こんなことせずとも触れられるものなんですか?」
 束の間の沈黙。だが、彼はきちんと答えをくれた。
「ええ、基本的にはそうかと。もちろん、ゴーストの種類や個体にもよりますが」 
「ふうん、そうなんですね」わたしは、力を入れず、表層を撫でるようにしながら、目の前のシーツを掴む。力を込めすぎないよう意識すると、返って腕に変な力が入り、体が強張る。力の加減が難しい。
 ゴーストの腕に包まれたこの場所は、人間が長居するには少し寒い。冷えていく体温がバレないように、さらに体を小さくする。
 頭の中で、彼の言葉が反芻する。もしもわたしたちが同じだったなら、こんな苦労は必要なかったかもしれない。
「ダメですよ」
 驚き、思わず肩が跳ねた。顔を見たら全部見透かされてしまいそうだったから、波打つ布から目を逸らさずに、「なにがですか?」と答えた。
「しっかりしてくださいませ、素敵な貴方」
 わたしを閉じ込めた腕が離れていく。しがみつくこともできず、再び行き場をなくした両手が宙を彷徨い、それから自分の首元を触ることで落ち着いた。
「貴方の命を見失わないで」
 シーツに覆われた手が、わたしの頬に触れた。その冷たさに、一度眼を閉じた。手のひらが頬を包み、指先が耳に届く。わかる。伝わる。どこに、何があるのか。
「我輩は生きることの楽しさ、命あることの喜びを、この身をもってよく知っております」
 は、と息を呑む。ぱちり、と閉じていた瞼を開き、反射的に上を見た。
 じっとこちらを見つめ続けていた瞳。いつもと変わらずひかるオレンジと渦巻くレンズ。だけれど、いつもより温度がなく、平坦に感じた。睨む、とは少し違うけれど、怒っているというか、距離を取られているというか。わたしが、何か失敗したんだと感じされる目。心臓が跳ねて、脈打つ音がよく聞こえる。顔が熱くなる反面、胸や腹のあたりは不安定に冷える感覚。
 わたしが生きている証。
 わたしと彼を隔てるもの。
「貴方には生を全うする権利がある。それを奪い取るなんて誰にもできませんし、ましてや貴方自身がそれを選択するだなんて、我輩は見たくありません」
 それは、わたしが記憶する限り初めて聞いた、彼からの明確な拒絶だった。日頃から些細なことで難色を示すことはあれど、何だかんだで許してくれたのに。きっとここが唯一の境界線で、今わたしはそれを踏み越えようとしたのだ。
「確かに、ここで死んだところで同じように現世に残るゴーストになれるとも限りませんもんね」わたしはそっと目を逸らし、俯いた。いつの間にか首元で強く握りしめていた両手から、力を抜いた。ふふ、と乾いた笑いが溢れる。確証もないのに命を賭けようだなんて、愚かしい。
「ああ、いえ。そちらはご心配なく」
「え」 
 驚き、弾かれたように顔を上げた。今の話は、そういう流れではなかったのか。困惑を隠さないわたしを、二つ空いた歪な穴の向こう、渦を巻く両目が捉える。
「貴方の魂はちゃんと、我輩が回収いたしますから」
 当たり前でしょう、と言わんばかりに、それはそれは楽しそうな声色で、彼は美しく微笑んだ。
「それは」初耳、という二文字がわたしの頭に大きく浮かぶ。そこで初めてわたしは、この生活のずっとずっと先。自分の人生の終わりの先のことを、考えてみた。
「それは、なんというか」当たり前だが、死後の先などぴんとは来なかった。言葉を選びながら、「来世まで安泰ですね」とコメントすると、彼は満足そうに笑った。
「ええ。素敵な時間をお約束しますよ」と、頷いてみせた。
 いつの間にか、鬱屈した心地や緊張感は吹き飛んでいて、わたしの手は自由に動かせるようになっていた。
「楽しみですね」わたしは静かにそっと、彼の背に腕を回した。距離が縮まり、冷たさが増す。呼吸と共に動く腹も、緊張で早まる鼓動も聞こえはしないけれど、確かにここに彼は居る。奇妙な声がシーツの中から聞こえて、くすりと笑った。
 包み返してくれるかと思ったのだけれど、彼は固まったまま「……あの? えっと」などと、言い淀むだけだった。やっぱり、この人のことは分からない。けど、どうやらまだまだ時間はたっぷりあるらしい、と言うのは分かった。
 ここからあと百年ほど、このかわいらしい人といるのも悪くない。
 わたしはシーツの裾を掴んで、指先で弄る。


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