月とベスタ


 夕日が落ちる。青白い月が昇る。夜は次第に深まる。ミチルが大きくあくびをしたことで、パーティーは一度お開きになった。絵画になった双子や明日の公務が控えるアーサー、人混みを苦手とする面々は、これを機に魔法舎へと帰っていく。先ほどまで賑やかな音楽と笑い声に溢れていた中庭に、今度は「おやすみなさい」と「また明日」が行きかって、数名の魔法使いだけがこの場に留まった。
 今日はムルの誕生日。月を愛する偉大な知恵者が生まれた日。数日前のおやつの時間に「せっかくなら、ムルの大好きな月の元でお祝いするのはどうかな?」と誰かが言い出して、「ムルさんは西の魔法使いですから、賑やかで華やかなパーティーを開くのはどうでしょうか?」と話が進んだ。「誕生日ケーキはネロにお願いしましょう。僕も手伝います」「じゃあ俺は新しい服を作るよ!パーティーにぴったりなやつ!」「では、僕が音楽を担当しよう。オズ様も一緒に弾いていただけますか?」といった具合で、あっという間に誕生日パーティーの開催が決定したのである。会場は中庭。時間は夕方から夜にかけて。(夜に開催してしまうと、スノウとホワイトが食事を取るのが難しくなるし子どもたちが眠れなくなってしまうから、というみなの気遣いによるものだ)みんなでおいしいごちそうを囲んで歌ったり、踊ったり。盛大な祝福を受けたムルは無邪気な笑顔を浮かべて、あっちで歌い、こっちで踊り、そっちの会話にもぐりこみ、大空をくるりくるりと宙返りして、何度も花火を打ち上げていた。みんなで企画したパーティーは大成功を収め、とても楽しい時間だった。
 宴も酣。人の減った中庭には、賢者を含めて数人の魔法使いが残っている。お酒が飲み足りない者、お腹が空いている者、話足りない者、このまま帰るのが寂しい者。ひとりひとり違う気持ちを抱えているのだろうけれど、こんな場所に残るのは、きっと何かに満足していない人なのだろう。賢者がそろそろ帰ろうかと腰をあげたとき、顔を上から逆さまになったムルが覗き込んできた。突然の出来事に驚いた賢者は勢いのままのけ反り、再び椅子に座ることとなる。
「ごきげんよう、賢者様」
「ご、ごきげんよう、ムル」賢者もつられて挨拶をする。
 宙に浮いていたムルはくるくると回りながら、そのままストンと賢者の向かいの席に座った。サーカスの曲芸師のように鮮やかな着地だ。二人の間には空のグラスと、食べ終わった食器が冷たく残るテーブルが一つあるだけだ。
「賢者様、もう帰っちゃうの?」ムルは眉をぐっと下げ口を結び、寂しそうな顔をする。それを聞いた賢者は「えぇっと……」と目を泳がせた。たしかに帰るつもりではいたが、ムルの反応を見るに言いだしにくくなってしまった。たとえこの表情がいたずらで意地悪で、意図的に作られたものであったとしても、今宵はそのわがままにのってあげたい。なぜなら今日は、彼の生まれた日だから。
「せっかくなら、もう少しムルとお話がしたいです」
「わーい!そうこなくっちゃ」先ほどの表情が嘘のように、彼は大きく笑った。
 ムルが魔道具の指輪を掲げると、空の食器たちはカチャカチャと音をたてながら、おもちゃの兵隊のように綺麗行進を始める。そのまま誰もいないテーブルの上へ重なり、あっという間にテーブルが片付いた。
《エアニュー・ランブル》呪文を唱えると、新しくカップとソーサ―がやって来て、後から来たポットが紅茶を注いでくれる。それからムルがふいっと指を回すと、テーブルの上にはあたたかな光がぽうっと灯った。賢者は思わず感嘆の声をあげる。魔法みたい、と思ったところで目の前の人物は魔法使いであることを思い出した。ムルが右手を掲げると、刻まれた紋章がよく見えた。彼はそのまま手を胸の前に当てて、ペコリと一礼をしてみせた。そんな仕草も様になる。目の前で開かれた小さなショーに、賢者がパチパチと拍手をしながら「ありがとうございます」と伝えると、ムルはにっと口角をあげて笑う。
「さぁおしゃべりしよう!何の話をする?これから見る夢の話?それとも、懐かしい思い出話?」
 青白い月光が二人を照らす。猫のような瞳が怪しく光る。まだ人が残るパーティー会場のはずなのに、おしゃれなレストランに二人でやって来たかのようだった。
「それなら、月について聞きたいです。今日はムルの誕生日なので、ムルの大好きなものについてお話しさせてください」
「うん!いいよ!」
 ムルは月を見上げると、やわらかく目を細めた。恋人たちが見つめ合うような、うっとりとした表情を浮かべる。
「ほら、今夜の厄災をよく見てごらん。とっても綺麗!だけど、ずっとずっと遠くて近づけない。俺はこんなにも想っているのに」
 ムルは月へ向けてそっと右手を伸ばす。月光に濡れた瞳はきらきらと輝きながらも、ほんの少し寂しさをはらんでいるように見える。愛しいものに想いをはせる彼は一つの美術品のようで、現実味がないほど美しい。ムルの言う通り、今夜の月はとても綺麗で、いつもより近く感じた。このまま空から落っこちてくるのではないかと思うぐらい、美しく恐ろしく、厄災の名にふさわしい。
「今日の月は特別大きく見えますね。魔法舎の屋根なら、梯子をかければ届きそうです!」魔法が使えない賢者は、箒で空を飛ぶことはできない。だから、自分にでも出来ることという意味合いで、梯子という言葉を選んだ。ちょっとしたお遊びのつもりだったのだけれど、「賢者様の世界では、月まで梯子を使うの?」とムルが驚いた顔をしてこちらを向いたので、賢者の頬はぶわりと熱くなる。
「いえ、そういうわけではないんですが……。絵本なんかでよく見かけるんです。ながいながい梯子を使って月を目指して、兎と踊ったり、遊んだり。宙にふわふわ浮きながら探索したり。あとは紙を何重にも折って月まで目指す話とか」
 今日は素敵な夜だったから、少し浮かれているのかもしれない。夢のような話をして、少し恥ずかしいことを言ってしまった。
「ふーん、興味深いね」
 ムルはうんうんと唸り、そのまま黙り込む。
「でもそれって、月に梯子では登らないってこと?月に届く方法は別にあるの?」
 それを聞いた賢者は、返答に困った。ムルは月を愛している。己の魂を砕いてしまうほどに。だから、例えば月に旗を立てたこと、人が足を踏み入れて足跡を残していること、旅行の計画が成されていること。これらを彼に伝えたらどんな反応が返ってくるのか、少し心配になったからだ。月に逢うためなら自分の命さえ厭わない人物に、このような話をして良いのだろうか。嫌な思いをさせてしまわないだろうか。不安あの波が次々と押し寄せ「余計なことを言うべきじゃなかった」と先の自分の発言を咎めたくなる。だけれどムルは賢者の予想に反して、ふっとやわらかく微笑んだ。
「賢者様はやさしいんだね」まるで心のうちを見透かすように、ムルは笑う。月に見せたのとは違う顔。小さな子どもを優しく見守るような表情だった。
「でも、大丈夫!きみの世界の月と俺の愛した厄災は同じだとは限らない。俺は今、純粋な好奇心から聞いてる!だから、どんな答えが来ても大丈夫!」
 彼は賢者の目をまっすぐに見つめて、口角をあげた。きらりと光る青い目がこちらを射止める。
「ねぇ教えて、賢者様。きみの世界では、人間と月はどんなふうに関わるの?」
 それは、優しく手を差し出してくれるような言い方だった。ひとり不安げな子どもに対して「この道で大丈夫だよ」と教えてくれるみたいに。でも、本当に正しい道なのか、子どもには分からない。信じるかどうか、決めるのは結局自分自身だ。それは、優しいようでひどく無責任なのかもしれない。賢者が視線を彷徨わせている間も、ムルは静かにこちらを見つめていた。「話すかどうかはきみ次第だよ」と。
 それから賢者はまた少し迷ってから、ちょっとずつ話すことにした。暗闇を手探りしながら歩くように。
「元の世界では、もう何十年も前に人間が月に辿り着きました」ムルは賢者の話に耳を傾けながら、「それで?」と言いたげな視線を送る。
「ロケットというものを飛ばして、地上から宇宙に向かうんです。訓練を受けた限られた人たちだけがロケットに乗り込んで、宇宙の探索を続けています」
「ロケット!それってどんなもの?」
「改めて聞かれるとちょっと困りますね……えぇと、金属でできたこういう形の、炎で飛ぶ機械?船?」賢者は楕円形と台形の合わさった形を指で空に描いて見せた。
「魔法科学に近いものかな?」
「あ、はい!そんな感じです。すみません、あまり詳しい方ではなくて」
「ううん!すごく面白そう!」ムルの反応を見て賢者は安心した。ここからさらに話を広げてみようと「もしも月にたどり着けたら、ムルはどうしたいですか?」と聞いてみる。するとムルは、ほんの一瞬、両目を大きく見開いたかと思うと、すぐににやりと笑った。
「おもしろい質問だね!」
「そうでしたか……?」
「うん!だって、月は多くの人に恐れられるものだから!そうでなきゃ、〈大いなる厄災〉だなんて呼ばれない。賢者様の世界では、人と月が親しいからそんな質問が思いつくんだね」と彼は笑った。「例えば、もしも太陽にたどりついたら……なんて、大抵の大人は考えないし、誰かに尋ねたりもしないよね」
 たしかに、太陽に近づいたところであっという間に燃えて、溶けて、宇宙の塵になるだけだとみんなよく知っている。たとえ想像の中で近づけたとしても、気体で出来た地面には、足をつくことすら難しい。まだ太陽のことをよく知らない子どもであったら、その地に足を踏み入れることはできるかもしれないが、賢者はもう子どもではない。この世界では、月も太陽も同じようなものなのかもしれない、と賢者は思う。
「んー、そうだな。月に辿り着いたら……」ムルはうんうんと唸りながら考え込むような素振りを見せていたが、しばらく経っても返事はなく、ついには元気よく「分からない!」と答えた。
「え!?」賢者は驚いた。難しい質問だっただろうか。そんな疑問に答えるように、ムルは話を続ける。
「正確には、やりたいことも聞きたいことも知りたいこともたくさんほどある!」とムルは言い、一呼吸置いてから、「だけどね、賢者様」とこちらに言葉を向けた。「俺はあの月に恋焦がれて千年近くになる」
 千年という言葉を賢者は口の中で呟いた。それはヒトである賢者にとっては想像もできないほど途方もない時間だ。千年、ひとつのものに執着し恋焦がれ、追い求めるためには、一体どれほどの熱と感情が必要になるのだろうか。精々百年しか生きられないヒトには、分からない。
「今まで遠く離れた地から、憧れて望んできた。いろいろなものを犠牲にしたり、放り投げたり、振り回したりしながらね。だから俺が厄災に辿り着いた時は、今以上にめちゃくちゃになってどうにかなっちゃうかも!」ムルは右手を掲げて微笑んだ。「だって、厄災は俺のすべてだから」
 きっと、ムルの言葉に嘘はないのだろう。学者として、魔法使いとして、ひとつの生き物として、これ以上の喜びはないのだろう。賢者は「命すら惜しくないほどの喜び」を想像してみた。全身の血が沸騰するほど熱くなり、心臓の音が耳元で鳴る。緊張で声は掠れ、あれもこれもと知りたいことが浮かびながらも、どれも言葉にすることができない。はくはくと情けない呼吸を繰り返すのが精一杯で、頭の中に強い光が瞬いて真っ白になる。どれもこれも想像で、本当のところは分からない。結局のところ、他人の言葉を、声を、文字をなぞることしかできないのだ。だけれど、想像すら難しいほど衝撃的で歓喜に満ち溢れるのだろうということは、ぼんやりと分かる。ムルは、その魂を砕いてしまうほどにあの厄災を愛している。とてもシンプルで短い回答だったけれど、彼の恋が、熱が、感情が、嫌というほど詰め込まれた真っすぐな答えだったと思う。賢者はぼうっとムルの方を見つめることしかできなかった。
「賢者様?おーい?」ムルは賢者の方を覗き込み、顔の前で手を振っていた。テーブルを挟んで向かいに座っていたはずなのに、いつの間にか立ち上がり目の前に居ることに賢者は驚き、思わず「わ!」と大声をあげた。
「すみません。こんなに真剣に考えてくれるとは思ってもいなくて……圧倒されてしまいました」賢者はばつの悪そうに視線を彷徨わせる。仲良くなれたら、もっとよく知れたら、と思って始めた軽い雑談のつもりだったから。ムルのことをよく知れたという気持ちと、何も知らなかったんだなという気持ちが半分ずつあって、胸の辺りにぐるぐると雲が渦巻く。
「ムルは本当に、月が大好きなんですね」目の前に居るひとりの魔法使いを、賢者は真っすぐに見つめた。「うん!俺はずっとそう言ってる!」彼は悪戯っぽく微笑んだ。月に照らされた海色の瞳がきらきらと輝き、前髪の間から光が見え隠れする。とても綺麗だった。
「あ!でもこれって想像の話なんだよね?」ムルは雰囲気をくるりと変えて、楽しそうに尋ねる。
「うーん。あんまり深く考えていなかったので……。ムルの好きに解釈してください」
「じゃあ、俺は好き勝手して良いってことだ!」ムルは軽やかにステップを踏んで、くるくると回り出す。新しいおもちゃを手にした子どものように、わくわくして楽しそうだ。少しして「決めた!」と大きな声を出した後、彼はピタリと止まってこちらを向いた。
「それならまずは、月に丁寧な挨拶をして、俺がどれだけ会いたがっていたのかを伝えるよ」賢者はムルの話に耳を傾けるため、彼の居る方を向いて座り直す。ムルは夜空に輝く大きな月を見つめており、二人の視線が交わることはない。一つの小さな演劇を見ているような気持ちになる。
「俺がずっとずっと恋焦がれて、一途に見つめ続けたということをたくさん伝えよう」そう言ったムルは、いつもとは違う、凪いだ海のような声色をしていた。
「それから、きみのことを知りたい!」初めて、青い瞳と目が合う。まるで自分に向けられた言葉だと、間違えてしまいそうだ。ムルを中心にきらきらが広がって、世界がぱっと明るくなる。賢者がまばたきをすると、きらきらが目からこぼれたような気がした。
「だから、今夜みたいにたくさんおしゃべりをして、歌って、踊っちゃおう!」と言い、「うん、それがいい!」とひとり納得した。ムルはこちらに近づくと賢者の両手をそっと取る。「その時は、賢者様も一緒に来る?」
「はい!ムルさえよければ」今度は迷うことなく答えられる。賢者は彼の手をギュッと握り返した。あたたかい。ムルはそのまま賢者の手を引いて立ち上がらせると、くるくると回り出した。「じゃあみんなも呼んで一緒に踊ろう!今夜みたいにパーティーを開いちゃおう!」
 ムルが魔道具を掲げると、彼の体はふわりと浮く。もちろん、手を繋いだまま賢者も一緒に。地に足が着かないふわふわとした感覚には、なかなか慣れない。平衡感覚が消えて、上も下も分からなくなる。とても不安で、少し怖い。深い海の底に放り投げられたような気分だ。
「ほら賢者様、しっかりして!空の向こうで踊るんだったら、今のうちに練習しておかなきゃ!」そう言ってムルは、自分の体をうまく操ることもできず、情けなく浮かぶだけの賢者を引き寄せる。苦くて優しい、透き通るような香りがした。すっと体の中に溶け込み、内側に残るような匂い。ムルにリードされながらも、賢者はなんとか体勢を立て直し、両足で空を踏む。不安定でがくがくして、幼い頃に初めて滑ったアイススケートを思い出す。だけど、一歩ずつ、少しずつ、ムルの手を借りながらも前に進んだ。宙だろうが地上だろうが、握った手の温度は変わらない。ふらふらとよろめきながらも二人はくるくると回り、いつものように踊ってみる。「賢者様上手だね!」と笑う彼の瞳がよく見えた。ムルは予行練習だと言ったけれど、こんなのはお遊びでしかないことを賢者はよく知っていた。本当に月の元へ行ってしまったら、こちらなんて見向きもしないくせに。今のように、彼の瞳が見えることなんてないはずなのに。誰も彼も全てを置いて、ひたむきに月を見つめる彼が容易に想像できて、賢者は思わず笑みがこぼれた。ムルの方から、ふっと微笑む気配がする。
《エアニュー・ランブル》
 呪文を一つ唱えると、たくさんの花火が夜空に打ちあがった。賢者の周りにも色鮮やかで小さな花火が咲き乱れ、一瞬にして消えていく。ころころと表情を変えて野良猫のように自由で無邪気なムルは、賢者がこの目で見て、話して、接して、心から正直に感じ取ったムルそのもの。過去や未来や現実は少し違うかもしれないけれど、でもこれは賢者にとっての真実だ。だから今日は、ありったけの「おめでとう」と「ありがとう」を彼に伝えなければならない。賢者のよく知るムルに向かって。
 いつの間にか離れていた両手が少し冷たく感じるのは、先ほどまでこの手にあったあたたかさのせいだ。「賢者様!」と自分を呼ぶ声が空から聞こえる。今度はひとりで前に進む。少しでも彼に寄り添えるように。
 月光の下、夜空の真ん中。たくさんの星々に見つめられながら、二人はくるくるふわふわと漂って、歌って、踊って、遊び続ける。金青色をした世界に色鮮やかな花火が泳ぐ。ちらちらと輝く星々も相まって、いつか見た深海の様子が思い浮かんだ。いきものの命でできた光が降り注ぐところも、よく似ている。青白い光が世界を照らす。賢者のあまり知らない星。年に一度空から降ってきて、何百年、何千年をかけても近づけない謎を秘めている。兎はいないし、旗も立っていないし、人間の足跡もない。ムルの愛した、この世界の厄災。だけど、優しく夜を照らしてくれるところは少し似ている。
 気がついたころには不安や恐怖は消え失せていた。どきどきとわくわくの入り混じった興奮に顔がゆるむ。夜風の寒さが気にならないぐらい、夢中だった。空中での踊りは難しくいつも以上に不格好で、彼の愛しい相手の側で踊るためにはまだまだ練習が必要らしい。月にたどり着くその日までには、ふわりと浮かぶこの感覚にも慣れるといいのだけれど。

2023.Happy Birthday to Murr 





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