僕らは星火に気づかない


「ほら、さっさと乗って」フロイドが当然のように運転席へと座るのを見て、アズールは困惑していた。上等なスーツを着込んだ男が、安っぽいオレンジ色の車を前に呆然と立ち尽くす姿はかなり滑稽に見える。それがアズールなら、なおさらだ。ジェイドの口角は自然と上がる。
「お前、運転できたのか?」と驚く彼をジェイドは後方座席へと押し込んだ。車はやけに狭く設計されており、アズールは派手に頭をぶつけていた。「いった!」と大声をあげ、彼は頭をさすりながらジェイドを鋭く睨む。ジェイドは勢いよく後方座席のドアを閉めた。見えなければ、なかったことと同じになる。耳の奥から、まだメラメラと燃える音が聞こえる気がする。熱い。ジェイドも急いで助手席へと乗り込むと、座席の上にはフロイドが脱ぎ捨てたジャケットが乱雑に置かれていた。邪魔なので後方座席に放り投げる。それをアズールが上手に避けてしまったので、ジャケットは床に落ちた。良い値の品だったはずだが、降りる頃には土と血と埃にまみれているだろう。三人が乗り込んだ車は、かっちりとしたスーツを着込んで乗るには少し窮屈に思えた。天井も低く、座席も小さい。なにより後方座席が見た目よりもずっと狭くなっている。おそらくトランクが大きいのだと思う。一人ぐらいなら、畳んで仕舞えるかもしれない。そうして車を観察していたが、非難の意を込めた視線がいまだに双子の背を刺していた。
「オレ、ちょっと前に免許取ったんだよねぇ。言わなかった?」フロイドは、楽しさを滲ませた声でそう言った。ジェイドもこらえきれずに笑みがこぼれる。
「お前も知ってたんですか、ジェイド」
「えぇ、もちろん。兄弟ですから」アズールが小さく舌打ちをしたのがはっきりと聞こえた。「だからコソコソしてたんだな」
「なーにそんな怒ってるの。仲間外れにされて寂しい?」
「いいえ全く」明らかに不機嫌な声色で彼は答える。そういう律儀なところが、揶揄われる要素の一つだとも知らずに。
「ニ人とも、喧嘩していないで」ジェイドが口を挟むと、先ほどよりも視線がうんと冷たい視線が飛んできた。
「ほら、夜が明けてしまいますよ」
 アズールはわざとらしくため息をつく。
「フロイド、早く車を出してください」
「はぁい」彼がキーを回すと、エンジンが動き出す。パッと2つのライトが光って、暗い夜を照らした。まるで大きな生き物が目を覚ましたようだった。
「念のため、ベルト締めて」フロイドが言う。カチリ、という音が二つ聞こえた。
 フロイドがアクセルを踏むと、三人を飲み込んだ車は勢いよく走りだした。夜だというのに街は騒がしい。たくさんの音に混ざって遠く波の音が聞こえる気がする。町から海は離れていたし、ましては騒がしい夜を越え、こんな場所まで波が届くはずがない。間違いなく聞こえないはずの音が、ジェイドの耳には届いた。
 先ほどまで居た街は人間に溢れた場所だった。喜びや悲しみ、怒り、快楽、すべてが入り混じっていて、どうにかなりそうなほど感情で満ち溢れた街。熱、という言葉がよく似合う。ジェイドは大きな波がすべてを呑み込む姿を想像した。燃えてしまいそうなほどの熱を帯びた街が、冷たく暗い海へと沈む様子を考えると心が少し穏やかになった。
「で、どこ行きたいの?」フロイドが聞く。
「とりあえず、このまま西へ進んでください」アズールはスマホを確認しながらそう答える。暗い車内に、画面の光が眩しいのか、アズールは眼鏡を外して目を細めた。
「行く当てがあるんですか?」ここまで来ておいて、こんな質問をするなんて自分でも変だと分かっている。
「えぇ、まあ」すぐに受信音が二つ鳴った。フロイドとジェイドのスマホからだ。
「帰るんですよ」眼鏡をかけ直した彼は、そう言った。画面を確認すると、ジェイドの目は自然と見開かれた。地図に示された場所は少なくともジェイドにとっては意外な場所だったからだ。
「なに?そんなに楽しそうなところに行くの、オレたち」彼はいつも、兄弟の変化には目ざとい。
「えぇ、それはもう。素敵な旅になると思いますよ」


 暗い夜道に点々と、等間隔に建てられた街灯だけがジェイドたちを時折照らす。それは、オレンジ色だったり、白色だったり、規則性のない色をしていた。窓の外を覗けば、郊外特有の広い駐車場や大きなコンビニが目につく。看板から溢れる明かりが、眩しく思えた。深海のように暗い青に、滲んだ灯の世界が延々と続く。ずっとずっと似たような景色ばかりが広がっていた。退屈すぎてもう何時間も走ったような気分だったけれど、実際はまだ一時間程度しか経っていない。三人の他に車は少なく、けれど大型のトラックはよく見かけた。この時間は、思っていたよりも人通りが少ないようだ。ジェイドは動く景色をぼんやりと眺めていたが、不意に世界が静する。赤信号が前方座席の二人を照らした。運転中のフロイドはいつも以上に感情のない顔をしていた。赤い光に照らされた兄弟はなんだか違う人のようにも見えて居心地が悪い。懐かしさに似た寂しさと、ほんの少しの不安感がジェイドの中でひっそりと生まれたが、気がつかないふりをした。意識をしなければ自然と消えてしまうと、経験から知っていた。わざと大きく成長させて感傷に浸るのも悪くない。だけど、今は止めておくべきだろう。
「フロイド、ここで右に曲がるんですよ」
「分かってるって」フロイドはウインカーをつける。明らかにジェイドに指摘された後だった。後方からは物音一つ感じられず、ずっと静かだった。わざわざ振り返って確認するのもおかしい気がして、アズールは眠っているのだとジェイドは思うようにしている。正直なところ、彼を意識しているのはジェイド自身も分かっていたのだけれど、それを認めてしまうのも癪に触ると思っていた。気がつかなければ、存在しないのと同じである。今日はなんだか思うようにいかない。あの熱のせいだろうか。
 会話が一つもないせいで、フロイドが指でハンドルを叩く音だけがよく聞こえた。カチカチカチと鳴り響く機械的な音に合わせて、時々リズムを刻みながら音を鳴らす。気分が乗った彼のドラムはいつも素晴らしい。
 改めて車は動き出す。車に合わせジェイドの頭も左右に揺れ動いた。あまり乱暴だと車酔いをしないか不安になる。「酔う」という概念は陸に来て初めて得た感覚だから、いまだに慣れない。
 手持ち無沙汰だったジェイドは車についていたラジオをつけた。一瞬、アズールのことが頭をよぎる。がしかし、つけてしまったものは仕方がない。ぐるぐるとボタンを回しちょうどいいチャンネルがないか探し出す。こういう手間をジェイドは好んでいた。次第にラジオからはニュースが聞こえてくるようになった。キャスターは淡々と交通情報について伝える。
「ほらこれ、さっきの」言われてみれば、あの町へと通じる道路であった。どうやら、道路一部が陥没し今朝から通行止めになっているらしい。
「あそこへ行くには一本道ですから、今頃大混乱でしょうね」
「ふふふ、ほんとにね」
 それからラジオは、数時間前に街で起こった大火災、通行止め伴い遅れる消防隊。窃盗、事故、放火魔、芸能人の不倫、結婚、新作映画の宣伝など、決められたセリフを吐き出し続けた。コマーシャルを数本挟んで、現在の交通情報と今後の天気について。
「げぇ、雨降るじゃん」フロイドは顔をしかめた。
「雨の中とかあんまり運転したことないから、嫌なんだけど」
 ラジオは、二人に梅雨前線や低気圧の動きについて、丁寧に教えてくれた。そんなものを聞いてもいまいちよく分からなかったけれど、どうやら雨雲にまで追いかけられているらしい。
「気をつけてくださいね、フロイド」返って来たのは、気の抜けた声だった。
 しばらくするとアナウンサーの丁寧な挨拶により番組は締めくくられた。それから、ラジオ特有のタイトルコール。一時間に一回は流す決まりなんだと、昔どこかで聞いた気がする。2回目の赤信号。フロイドはボタンを捻ってチャンネルを変えてしまった。音楽番組をピタリと引き当てると、彼はさらに音量を上げる。青信号。ジェイドの頭は前へと傾き、それから背もたれへとぶつかった。やはり車酔いが心配だ。ラジオから流れる軽快な音楽にのって、フロイドは歌を口ずさむ。ジェイドは、ご機嫌なきょうだいの方へと目を向けた。点々とした街頭に照らされたきょうだいの目は、流れ行く光を浴びて、何度も、何度も、輝いていた。きらりと光る一瞬の輝きが、とても綺麗なものに見えて、掴み取りたくなる。光が滑り落ちて、あっという間に消え去ってしまう。手を伸ばせば届きそうだったから、ジェイドはそっと腕を動かそうとして、やめた。シートベルトが邪魔だった。


「疲れた」
 フロイドがそう呟いたことで、ジェイドはかなり長い時間が経っていることに気が付いた。言われてみれば、もう三回もタイトルコールを聞いている。けれど、目的地まであと半分以上、三人は進まなければいけなかった。雨音も、追ってくる者の気配も、今はまだ感じられない。
「少し、休憩しましょうか」いつの間に起きたのか、アズールが口を挟む。もしかすると、最初から寝ていなかったのかもしれない。「あと数キロ先にコンビニがあるはずです。そこで一度休みましょう」
「本当にあとちょっとなの?」
「こんなことで嘘をつくわけないでしょう」思っていたよりも彼は元気なのかもしれない。分からないことだらけだな、とジェイドは思う。いつも、いつもそうなのだ。それが少し気掛かりだった。喉に残る、魚の骨や鱗のような存在。放っておけばいつか消えると分かっているし、害はないと知っている。でも、もしかしたら、内臓からズタズタに傷つけられてしまうかもしれない。もしかしたら、なにかの前触れなのかもしれない。あの時みたいに。そうやっって考えてしまう日が稀にある。考えても仕方のないことを頭の片隅に置き続けてしまうのは、感情のある生き物としてどうしようもないことだと、ジェイドは思うようにしている。その方が、ほんの少し楽だから。
 アズールの言っていた通り、少し車を走らせると一件のコンビニが目に入った。広々とした駐車場にはトラックが数台止まっている。彼らもまた戻るべき場所へ帰る途中なのだろうか。フロイドはぐっと伸びをした後、そそくさと車から降りた。
「なんか買ってくるけど、どうする?」ドアを開けたまま、車内に話かける。
「僕も一緒に行きます。フロイドに任せると余計なものまで買い込みそうですから」と、アズールが答えたため、ジェイドが待機することになった。フロイドが乱暴に勢いよくドアを閉めせいで、大きな音が周囲に響く。
「反応が悪いから、これぐらい勢いあっていいの」と、言い訳するフロイドの声が車内にいたジェイドにまで遠くくぐもって聞こえた。アズールが外へ降りる直前、一度ジェイドの方へ視線をやる。
「ジェイドも一度降りた方がいいですよ。これから先、長くなりますから」彼はそれだけ告げると、静かにドアを閉じた。
 走行中も騒がしいわけではなかったのだが、誰も居ないと少し寂しく感じる。一度ドアを開けたせいで、車内にも新鮮な冷たい空気が入り込んでいた。体の芯まで冷やすような空気だった。寒さのせいか、寂しいという感情が促進する。これ以上育って欲しくない。ジェイドは今まで車内の酸素が少なかったことと、体温の温かさにようやく気がついた。彼らのアドバイスに従い、外に降りて勢いよくドアを閉めてみる。外は涼しく、少し湿った空気を感じた。同じ冷たい空気なのに、寂しさはピタリと成長を止めた。立ち上がってみると、ずっと同じ姿勢でいたことによる疲れや、体の痛みが知覚される。商売にしているだけあって、彼の助言はいつも的確だ。時々走る車の走行音と、小さな虫の声。それ以外は何も聞こえない、静かな夜だった。ほんの少し雨の匂いがする。深海に似た、夜の散歩を思い出す。
 そうしてぼうっと時間を潰していると、遠くからビニール袋の擦れる音と二人がじゃれ合う声が聞こえてきた。とても楽しそうだ。そんな風に伝えたら、二人はどんな顔をするだろうか。
「ジェイド」離れた所から、フロイドに名前を呼ばれ、振り向く。
「いくよ〜」彼がなにかを放り投げたのを見て、ジェイドは空を見上げた。釣られたアズールも上を見上げる。暗い夜空にたくさんの星々が散らばっていて、とても綺麗だった。遮る明かりが少ないためか、街よりもずっとよく見える。ずっと外で待っていたのに、ジェイドは星々の存在に気が付つかなかったことに、自分自身でも驚いた。いっぱいに広がる星空を遮るように、不安定ながらもこちらへと向かってくる物体が一つ。ジェイドが一歩踏み出すと、バシンと大きな音を立てて手の中に何かが収まった。手袋をしていなかったら、手を痛めていたかもしれない。飛んできたものはペットボトルだった。手袋越しにあたたかさが伝わってきた。
「お見事」いつの間にか近くに来ていたアズールが囃し立てる。
「恐縮です」ジェイドはわざとらしく一礼をした。
「それ紅茶ね。あとこれ、菓子パンも」フロイドはビニール袋から、大きめのメロンパンを手渡してくれた。彼自身は手にフライドチキンを咥え、片手にオレンジジュースを飲んでいる。紙パックのものだ。
「ありがとうございます」ありがたく紅茶をいただいたものの、泡しか口に入らなかった。
 アズールは水が一本なのに対しフロイドはたくさんのものを買っていて、そのほとんどが食料のようだった。先ほどジェイドが車内でお腹を鳴らしたことがバレていたのかもしれない。
 三人は誰からともなくぼんやりと、車の近くに立ち並んだ。長い間座っていることに皆疲れたのだ。
「それにしても、随分派手な車ですね」アズールの指摘はもっともだった。明るいオレンジ色の車は、暗い夜でも良く見える。
「かっこいいでしょ」フロイドは自慢気に答えた。この車を選んだのは彼だ。
「えぇ、とっても」アズールの嫌味もフロイドには届かない。
 ジェイドがパンを食べている間に、彼はフライドチキンを食べ終えていた。本当は、一口欲しかったのに伝えそびれてしまった。
「そんな目でこっち見んなよ」フロイドはげんなりしていた。ビニール袋をガサガサと漁り、もう一個のチキンを取り出す。
「ほらこれ、ジェイドの分。”僕にも一口ください”ってぜってぇ言われると思って」
「気を遣わせてしまったようで、申し訳ありません」
「はいはい。いつも”一口”って言いながら、ほとんど持っていくじゃん」手渡されたチキンは、少し冷たくなっていた。
 それきり三人は、何かを発することはなかった。ただぼんやりと立ち尽くすのみ。ジェイドはもう一度空を見上げた。先ほどはペットボトルに気を取られ、きちんと見れていなかった。たくさんの星々がこちらを見ている。明るく輝いてみえるのは、自身の体を燃やし続けているからだ。想像できないぐらいの熱と光を身にまとい、この宇宙から存在が消えるその時まで、永遠に光り続ける。時には耐え切れずに、爆発する星もいる。きっと、今まで一番明るく、最も熱く、最期を迎えるのだろう。死の間際まで輝こうとする星々がジェイドは好きだった。少し似ている気がするのだ。星の命が尽きたとしても、しばらくの間、明かりは届き続ける。星が死んだことに僕たちはすぐ気が付けない。それが良いのか悪いのか、ジェイドには分からないけれど、ただ凪いた海のような気分になる。
 ズズズと大きめの音がして、ジェイドの意識は現実へと引き戻された。フロイドは飲み終えたオレンジジュースを袋に戻した。
「ねぇ、サイレンの音しない?」フロイドに言われ、二人も耳を澄ませてみる。先ほど聞いた音たちに加えて、確かに、サイレンが遠く聞こえた。身体の軸が、抜け落ちた気がする。
「まさか僕たちのことでしょうか?」
「そんなことないと思いますが……」アズールが少し言い淀む。それが不安なのか、思案しているだけなのか、ジェイドには分からなかった。
「念のため、早めに移動しましょう」
 三人は再び車へ乗り込み、もう一度エンジンをかける。少し、寒い。


 「あ」と言う声が、誰からともなくあがったような気がした。車の窓に水滴が一つ。続けてぽつぽつと、雨が降り始める。あっという間に本降りへと変わり、窓は濡れ、視界が滲み始める。フロイドはすぐにワイパーを動かした。キュッキュッと規則正しい音が鳴り始め、世界が一瞬だけはっきり見えるようになる。落ちた雨は風に流され、窓の上を走る。横に流れていく雨粒を、ジェイドはぼんやりと眺めていた。ラジオはずっと前に切られている。夜も更け、放送している番組が少なくなったからだ。今は車と雨の音しか聞こえない。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくようで、だけど冷たさは心地よく、ほんの少し目が覚める。独特の空間を楽しいと思った。ジェイドは窓越しに雨粒をなぞってみた。すでに結露が始まっており、手袋が湿る。指と雨の通り道がはっきりと窓に残った。街灯の歪んだオレンジ色が、少しだけ真っすぐになった。
「視界が悪くなりますね。除湿機などはついていませんか?」
「あるよ」運転中のフロイドは、アズールをチラリとも見ずに答えた。
「でも、別に運転できるし大丈夫」ジェイドは少し驚いて、片割れの方を見る。決して目が合うことはなかった。
「そうですか」その声にどんな感情が乗せられているのか、ジェイドには分からない。
 順調に逃走を続ける三人だが、赤信号ではどうしても停止しなければならない。雨で滲んた赤色の光は、まるで舞台装置のように思えた。わざとらしく自分たちを照らすための光。もしくは、三人を捕らえるサーチライト。窓に落ちた雨粒は重力に従い垂直に流れていった。フロイドは片手間にペットボトルを開けて飲み始める。後方からは、物音がしない。青信号。雨粒は車をなぞり斜めに走り出す。窓から落ちまいと必死にしがみついているようにも見えた。もう何時間も前から車は西へと進み続けている。
「ねぇ知ってた?」フロイドが楽しそうな声をあげた。目尻をぐっと下げてにやりと笑う。ジェイドと異なる目が強調されて、二人は違う生き物だとよく分かる顔。こういう顔をするフロイドは何かを含んでいることが多い。そしてそれは、ジェイドにとっては面白く、アズールにとっては嫌な出来事であることがほとんどだった。雨が止む気配はない。むしろひどくなっていた。
「この車、天井が開くんだって」
「おいバカやめろ」アズールは咄嗟に大声をあげたが、もう遅かった。フロイドがボタンを押すと窓は勝手に開き始めた。遮られていた雨が車内に入り込む。冷たい。それから天井が浮き始め、アズールの後ろへと収納されていった。トランクが大きく見えたのはそのためか、とジェイドは一人納得する。屋根がなくなり、雨は三人の真上から降り注ぎ始めた。反射的に目を細める。少し下がった窓が再び元の高さまで登り始め、ピタリと止まった。まるで魔法のように、オレンジのオープンカーは誕生した。
「おやおや、びしょ濡れですね」
「あぁもう、最悪だ」
 前髪が顔に張り付いて鬱陶しい。頭から水を被り、洋服も、靴も、手袋の中までもが濡れ始めていた。こらえきれない笑いが顔に浮かぶ。アズールは契約書を守るため、鞄に防水の魔法をかける。それから、自身のジャケットにも魔法を施し頭の上から羽織った。雨で冷えた体に夜風が当たる。人間なら間違いなく風邪をひいてしまう温度だった。だけど、ジェイドにとっては少しも寒くない。少しも。
「海泳いでるみたいで楽しいじゃん」
「そんなわけないだろう!!はやく戻せ」
 ジェイドはそっと目を閉じる。頭に浮かんだのは、故郷の深海。それから、大きく燃える炎。命を燃やす星。きっとこの雨で落ち着いてしまっただろう。もう少し、目に焼きつけておくべきだった。
 今日このすべては、概ねアズールの計画通りに進んでいる。


「夜が明ける前に、できるだけ遠くへ逃げましょう」
 アズールが無茶なお願いをしてくることは、今までも何度かあった。けれど、今回はいつもより曖昧で、抽象的なお願いだったと思う。とはいえ、きっと彼の中には何らかの具体的な計画が立てられているのだろう。ただ、僕たちに教えてくれないだけで。
 人魚が秘密裏に売買されてあるという噂の街があった。興味本位で陸に顔を出した人魚たちを様々な誘惑で連れ込んで、そのまま高値で売り払ってしまうらしい。能天気で好奇心旺盛な人魚は多いから、簡単に攫えたに違いない。はっきり言って、ジェイドにとってそんなものはどうでも良かった。海では弱いものから死んでいく。けれど、思いの外アズールはこの件が気になったらしい。予想外の出来事をジェイドは好んでいたし、何よりアズールからのお願いを断る理由はない。それはフロイドだって同じこと。二人はすぐさま了承し、アズールの計画に乗ることにした。
 人魚であることを隠し商売の一環として彼らのアジトに乗り込むのは容易だった。いつもやっていることと変わらない。食いつきそうな餌を撒き、向こうからやってくるのを待つだけ。狩りは僕たちの得意なことだった。僕たちの一番の問題は逃走経路だ。
「逃走経路ですが、深夜は公共交通機関が動いていないため徒歩か泳ぎになります。飛行術は……僕らでは難しいでしょう」アズールは苦い顔をする。「彼らの居る港町で本来の姿に戻るのはリスクがあるので、避けたいのですが、今回は仕方ありません」
「車は?」
「僕たち三人は誰も免許を持っていないでしょう。今から取得するのでは間に合いませんし、深夜に無免許運転でもして捕まったら元も子もありません。偽造も可能ですが……こちらもリスクが高いので避けたい」
 僕とフロイドは顔を見合わせて笑った。
「アズール、それについては僕たちに任せてもらえませんか?」
 彼はニコニコと笑う僕たちを見て怪訝そうな顔をした。眉間にぐっと皺を寄せ、僕らの真意を探るようにじっと見つめる。空と同じ青色が、僕たち兄弟を正面から捕らえた。そして、ほんの数秒考えたあと「分かりました。お願いしますね」とだけ言った。僕とフロイドはそっと目を合わせる。二人は同じことを考えていた。何も知らないアズールを驚かせてやることを。計画の決行日が近づくにつれ、彼は何度も「逃走経路はどうなっているんですか?」と確認をとってきたが、こちらが詳細を教えるつもりがないと分かったのかある時から聞いてこなくなった。僕たちは不思議なバランスで成り立っている。
 彼らのアジトは小さな島の最東端にある、小さい港町だ。良くも悪くも多くの人で賑わっている。昼間は普通の街だけれど、夜になると酒やタバコといった人間の匂いで溢れる場所だった。唯一の美点は、周囲を冷たい海が囲っていることだけだ。
 先方の悩み事は、捕まえた人魚が暴れ回り商品に傷がついて困るというものだった。だから、稼いだ金を山分けするという約束で、人魚によく効く鎮静剤を渡した。契約は成立。ここまでは、相手にとってもこちらにとっても順調な取引だった。取引の間、ジェイドは建物の裏手に待機していた。そこはゴミ捨て場になっているため、人はあまり近づかず、サボり場所としよく利用されていた。合図があればいつでも動き出せるようにジェイドはじっと耳を澄ませていた。それからどれほどの時間が経っただろうか。二人が契約を行う場所、アジトの最上階からガシャンと大きな音がした。窓から灰皿らしきものが飛び出し、割れる。物を壊すのはフロイドの方が得意で、炎の魔法はジェイドの方が得意だった。だから今回は、この配置で間違いない。大きな火柱があちこちに現れる。この街はお世辞にも治安がいいとは言えない場所だから、タバコか何かが建物に燃え移ったとか、魔法を使った喧嘩が起きた、となるのだろうか。そういえば、交通事故があって街へ向かう一本道が封鎖されているんだとか。大きな消防隊は、島の中央にある比較的大きな街にいるそうで、この辺りにはほとんどいない。海のすぐ側で火事が起こるだなんて、この町を作った人間は想定していなかったようだ。炎が消えるには、もうしばらくかかるに違いない。長いこと海で暮らしていたから、こんなにも大きな炎を見るのは初めてだった。炎は人々の悲鳴や怒号を丸ごと呑み込み、圧倒的な力でねじ伏せる。純粋に綺麗だと思った。星と同じ、命を燃やす炎。もちろん、星の方がずっとずっと美しいけれど。
 警報の音が聞こえる頃にはもう遅く、二人は早々に割れた窓から飛び降りていた。合流した三人はあらゆるものから逃れ、急いで目的地へと走った。ジェイドとフロイドは、時々アズールを揶揄うことも忘れなかった。崩壊し始めた建物から離れ、町を抜けたその先。封鎖された道の先にある駐車場に、鮮やかなオレンジ色の車は止まっていた。暗い夜でもよく見える、素敵な車だった。フロイドは運転席の扉をあけて、呆然と立ち尽くすアズールの方を向く。
「ほら、さっさと乗って」


 車はトンネルへと差し掛かり、一時的に雨は止んだ。フロイドがボタンを押すと屋根は本来の場所に戻る。三人はすでに靴下の中までびしょ濡れだった。
「あ〜楽しかった」
「ふふふ、まさか天井が開くとは思いませんでした」
「ふふふ、かっこいいでしょ」
 ジェイドがチラリと上を見やると、鋭い顔をしたアズールが鏡越しに見えた。
「まったく、危ないじゃないですか!夜道の運転なんてただでさえ危険なのに、雨に当たるだなんて事故でも起こしたらどうするつもりですか?」
「でも起こさなかったから良くない?」
「そういう問題じゃない!!!」
 そんな二人の様子を見て、ジェイドは少しほっとしていた。いつも通りの僕たちだったからだ。
「さて、後片付けをどうしましょうか」
「あいにくタオルは持参していませんから、軽く魔法で乾かして放置するしかないでしょう」アズールは顔を顰める。嫌そうな顔をしながらも、すぐに片付けに取り掛かる様子がルームミラーから見えた。
「はぁ……湿気た車内で過ごさなければいけないだなんて」
 深く重たいため息が、後ろから流れてくる。ジェイドは空気を変えるためにラジオをつけた。早い時間だが、一部の局はすでに放送を始めているらしい。電波を合わせているとすぐに軽快な音楽が流れてきた。
「その曲、先ほども流れていましたよね?」アズールの言葉に、ジェイドはドキリとした。
「それっていつ?」
「コンビニに行く前です」
「え!?アズール寝てたんじゃねぇの?」
「はぁ?何言ってるんですか。僕はずっと起きてましたよ」
「あまりにも静かだったので、てっきり眠っているのかと……」
「せっかくオレとジェイドが気を遣って小声で話してたのに、全然意味なかったってことじゃん」
「気を使うなら、ラジオは流すべきではないのでは?」
「あはぁ、たしかに」
 やっぱり僕たちは、知らないことが多い。
 トンネルの終わりが見え始める。薄暗い今とは反対に、真っ白な外の明かりが強く見えた。眩しい。


 空が白み始めてきた。夜が明けようとしている。トンネルを抜け小さな丘の上に出た車は、ゆるやかに坂をくだる。目の前には大きく海が広がっていた。水面が朝日を反射してきらきらと眩しい。いつの間にか、雨は本当に止んでいた。薄暗い夜を走った車は本来の鮮やかな色を取り戻していた。
「まだもう少し、西へお願いします」
「はーい」
 三人は島の最東端から中心を横切るように、西へと向かっていた。夜の始まりから終わりにかけて、ずっとずっと進み続けていた。帰るべき場所を目指して。坂を降りて平地に向かうに連れ、防波堤とテトラポットの山が窓を埋める。次第に海は見えなくなった。防波堤の上に休んでいた海鳥たちは、突然現れる鮮やかな車に驚いて、いっせいに飛び去った。カモメの声が遠く聞こえる。道の先にある崖の上には小さな真っ白の灯台が見えた。ここから近くに見えるけれど、灯台が大きいからかもしれない。双子はだいぶ前から、地図を見るのは止めていた。進む道はアズールが教えてくれる。ジェイドが窓を開けると、雨の後の湿気を含んだ空気と潮の匂いが流れてきて、思わず顔を顰める。べたつく空気が気持ち悪い。人間の体を手に入れて、海に匂いがあることを初めて知った。ヒトであるジェイドにとって潮の匂いは独特で、あまり良いものとは言えない。それが少し寂しかった。だからジェイドは、窓を開けたままにした。しばらくすれば、この匂いにも慣れるはずだから。
 それから二十分ほどだろうか。これまで一本道しかなかった場所に分岐点が見えた。海の方へと直進する道と、海から離れ、上へ登る坂道である。
「アズール。これ、どっち?」
「上に登ってください」
「おや、海を目指すのではないのですか?」
「えぇ、そうですよ」
 フロイドは言われた通り車を進めた。窓から海がチラリと覗いたが、それはほんの一瞬のことで、代わりに木々が埋め尽くすようになった。ルームミラーに映るアズールと目が合う。彼は話すとき、こちらをきちんと見てくれるのだ。
「僕たちが海を目指すのは、ただ単に帰るためではありません。もしも生き残りが僕らを追って来たとして、このまま一生誰かの陰に怯えながら暮らすのはごめんですから、今回をもってきっぱりと彼らが追ってこれなくするんですよ」
「そのためにジェイドが燃やしたんじゃねぇの?」
「あの炎だけで全てを燃やし尽くせるか分からないでしょう。あいつらにとって僕たちは人間ですから……そうですね、例えば、海へ向かう崖の近くに車が乗り捨ててあり、付近に靴が置いてあったとしたらどうでしょうか」
「なるほど……ですが、こんなにも大きな火事を起こした人間が海に飛び込んだりするでしょうか」
「火事は僕たちのせいにはなりませんよ。近頃この辺りを騒がせる放火魔がいるでしょう?昨晩はちょうどあの町に滞在していますよ」
「そいつ魔法士だったわけ?」
「えぇ、警察の調査で容疑者は絞られています。あとは逮捕するだけだそうですよ。娯楽の少ない閉鎖的な島に暮らす若者がスリルを求めて放火にハマってしまう……よくある話です」
「物騒な世の中ですね」
 しばらく進むと舗装された道が途切れ、砂利道へと変わった。ガタガタと車体が揺れ始め、少し楽しく思える。森の中を進むような穏やかな坂道だったが、次第に木々の背は低くなりゴツゴツとした岩肌が目立つようになった。先程よりも灯台が近くに見える。
「このあたりで車を降りましょう」
「やっと着いた……」車のエンジンが切れるのと同時に、フロイドはぐったりとハンドルにもたれ掛かっていた。長時間運転を続けるというのは、想像以上に大変なことなのだろう。それこそ、フロイドのような集中力がない限り。
「お疲れ様でした、フロイド」ジェイドの隣からはやる気のないうめき声だけが返ってくる。
「さぁ、ここからは歩きますよ」
「えぇ〜」
「フロイド、ジャケットを忘れないでくださいね」フロイドはぐっと大きく伸びをして、両方の肩をぐるぐると回していた。ジェイドは後ろに落ちたジャケットを拾ってやる。先ほどの雨で水を含んだ布は、ずっしりと重たくなっていた。外に出て軽くはたいたが、濡れていたせいで特に意味をなさなかった。
「ありがと」フロイドは、ぐしゃぐしゃのままのジャケットを片手に持った。ふわりと風が吹くと、一緒に潮の匂いが届いく。海は近い。雨に濡れた草木がきらきらと輝いていた。
「ほら、こっちですよ」アズールが指し示す方向に、二人はついて行く。舗装されていないがある程度は整えてあり、人が通れるような道は用意されていた。
「これ、どこ目指してるの?」
「送った地図を見てないんですか?」
「だって、オレ運転してたし」
 アズールは少し呆れたような顔をした。どこに連れて行かれるか分からないまま、ここまで来ていたなんて思ってもいなかったのだろう。そして、それがどういうことなのか、彼は深く考えないのだろう。
「あの崖の上にある灯台ですよ」たしかに、灯台は先ほどよりうんと近づいていた。
「車はあのままでよかったんですか?」
「えぇ、その方がそれっぽいでしょう」
 そのまま三人は、灯台を目指して歩き続けた。砂利道を革靴で歩くと汚れてしまうけれど、どうせこの靴は置いていくのだからそんなことは気にしない。低い草木を踏み進めると、時々ピョンと虫たちが飛び出す。あまり人が訪れない場所のようで、小さな生き物の住処になっているらしい。アズールは迷うことなく道を進み続けた。船と同じように、灯台を目指してまっすぐと三人は歩き続けた。崖の上を目指して緩やかな坂道を登る。
 それから、あまり時間が経たないうちに波の音が大きく聞こえ始めた。潮の匂いも強くなる。すぐそばには灯台がそびえ立ち、その白い体で朝日を反射していた。所々劣化が目立つし、想像よりも少し小さかったけれど、力強く真っ直ぐに立つ姿は頼もしく思えた。ここは、人気のないとても静かな場所だった。崖の下、眼前に広がる暗い海は太陽に照らされて深い青色をしている。そこでようやく、アズールは歩くのをやめた。ここが、島の最西端。
「帰ってきましたね」彼は安堵しているように見えた。本当は、ずっと緊張していたのかもしれない。今回の計画がうまくいくのかどうか一番気にしていたのはアズールだろう。
「えぇ、無事でなによりです」あの逃避行も楽しかったけれど、今はただ、静かな場所で落ち着きたい気分だった。あの町にいた時からずっと、そうだったのかもしれない。
「ねぇねぇ、もしかしてこっから海に飛び込むの?ちょー楽しそうじゃん」フロイドはいつのまにか崖の端に立ち下を見下ろしていた。
「そうですよ。靴は脱いでくださいね」
「ジャケットも置いて行っていい?」
「おや、それは気に入っていたものでは?」
「汚れちゃったし、海の中じゃ着れないじゃん」
 ジェイドとアズールも、フロイドに並んで崖の淵から海を見下ろした。今日の波は穏やかで、三人をやさしく迎え入れているような気がした。空は青く晴れ、海は青く揺らいでいる。同じ青でも少し違う色をしているなと、ジェイドは思った。あの夜、空いっぱいに輝いていた星々は見る影もなく消えていた。太陽の光に負け、すぐそこに輝いているのに誰の目にも見えない。もしかしたら、今この瞬間にも星々は死んでいるかもしれないのに!そのことに、僕らはすぐには気がつけないのである。気がつかなければ、この世界に存在しないのと、同じなのに。気づかない間に、星々は本当に消えてしまう。僕たちは目に見えなくても、星はそこにあると思っている。そう、思い込んでいる。本当はもう何万年も前に死んでいたかもしれないのに。そのことが、ジェイドは怖かった。またあの時みたいに止めることができないかもしれない。間に合わないかもしれない。僕らの前で輝く星がずっと前に死んでいることに、僕はすぐに気がつけない。だって僕らは、互いのことを、知らないことが多すぎるから。
 ふと、ジェイドの視界にきらりと輝くものが見えた。きらきらと光る彼の目に、ジェイドはそっと手を伸ばす。彼の眼鏡に、ジェイドの指が当たった。
「うわ、なんですかジェイド」アズールは顔を後ろに引く。
「眼鏡に指紋が付くじゃないですか」彼は眼鏡を外し、レンズを拭いた。
「手袋をしてるので指紋はつきませんよ」
「そういう話じゃありません。突拍子もないことをするのは、フロイドだけで十分です」そう呟くアズールから、ジェイドは眼鏡をするりと抜き取った。
「すみません、ただなんとなくやってみたくて」心のこもってない謝罪ににこやかな笑顔を合わせて、ジェイドは心を隠した。大丈夫、星はまだ生きている。
「アズール、きらきらしてたもんねぇ」フロイドは目尻をぐっと下げ、異なる両の垂れた目を強調させるように笑った。
「えぇ、どうしても気になってしまって」僕たち兄弟は互いの変化に鋭いのではなくて、同じような考え方をしているのかもしれない。「どうやら眼鏡が反射していたようですね」また嘘をつく。
 ジェイドはそそくさと靴を脱ぎ棄て、適当な所へ放り投げた。
「では、お先に失礼します」
「は?僕の眼鏡返してください」
「どうせ海の底でお会いするでしょう」
 ジェイドは数歩後ろに下がると、そこから勢いをつけて走り出し、一気に崖の上から飛び降りた。鋭い風が体をなでる。「この勢いでは眼鏡は壊れてしまうかもしれない」という懸念がジェイドの頭をよぎったが、飛んでしまったものは仕方がない。青が迫る。バシャンという大きな音が周囲になり響き、崖の上に居る二人にまで水しぶきが届いた。
「あはぁ、オレも行こ」
「ちょっと待ってください」
「ほらほらアズールも早く」
 フロイドはあっという間に海に飛び込む。バシャンと大きな水しぶきがもう一つ上がった。アズールが海を見下ろすと、深い緑色をした尾びれが二つ。それから、きらきらと輝く黄金の目が、海に浮かぶ星のようにこちらをじっと待っているのが見えた。
 大丈夫、星はまだ僕の側に。





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