其の三


恋は優し

野辺の花よ

『ボッカチオ』の歌を聞きながら、私は隣に視線をむけました。
坂田さんは木村屋のあんぱんを食べながら舞台を眺めて居ました。

坂田さんがあんぱんをお食べになるなんて。お腹が空いていたのかしら。

そう思いながら、私は再び舞台に視線を移しました。
こんな事、お父様に知られたらどうなるのでしょうか。
考えただけでも恐ろしくなりましたが、私はそんな雑念を振り払って兎に角、今、この時間を愉しもうと思いました。
だって、こうして坂田さんと並んでオペラを鑑賞出来る事が嬉しいのです。ずっと、夢見ていた事が実現してしまいました。
坂田さんを意識し過ぎて、オペラの内容は殆ど、頭にはいってはきませんでした。
折角、楽しみにしていたオペラなのに、勿体ない事をしてしまったと少し悔やみました。

オペラの後、私と坂田さんは餡蜜屋にいきました。
正面の席に座った坂田さんは顔をほころばせ、餡蜜を食べていました。彼が甘党だというのは重々承知しておりましたが、先程、あんぱんを食べていたのに、よくお腹に入るなと感心しました。
というよりも、先程から私たちに向けられる視線が痛いのです。
餡蜜屋は若い女性だらけですから、坂田さんのような若い男性が居るのが珍しいようでした。

しかも、彼は銀色の髪と紅い瞳の持ち主ですし、普段は袴ですが、帝大に通う時は外套に詰め襟の学生服(お父様が帝大生に相応しい服装をと坂田さんに与えたものです)なので、一見すると書生ではなく上流階級の殿方ふうに見えるのです。
女の子達が素敵な殿方ねとひそひそ話をして居るのが聞こえました。

「坂田さん、よく餡蜜屋にいらっしゃるのですか?」
「まさか。俺一人では行きづらい場所だ。今日は、お嬢さんと云う心強いお方が居るから入れたのですよ。前から、一度入ってみたかったんですよ、此処の店に」

坂田さんはそうおっしゃった後に、今度はハットケェキを頼みました。
余程、お腹が空いていたのでしょうか。
坂田さんは、運ばれて来たハットケェキに蜂蜜をたっぷりと掛けました。

「坂田さん、蜂蜜、掛けすぎじゃ…」

見ているこちらが気持ち悪くなります。

「俺、甘いの大好きですから…」

坂田さんは、丁寧にナイフでハットケェキを一口分に切って、フォークを使って口に運びました。

「やはり、変ですか?」
「へ?」

口に含んだハットケェキを飲み込んだ坂田さんが、フォークをお皿に乗せて呟きました。

「いや、男が甘い物を好きって変かと」
「変じゃありませんよ。文明開化のこの時代、男も女も関係ありません。」

その時、私は真剣な顔をしていたと思います。
坂田さんが驚いたように少しだけ眼を丸くすると、急にくすくすと笑い出しました。

「そうですね。お嬢さんのおっしゃる通りだ。今の世の中、男女の格差があれば日本を低落させてしまう…貴女は、ただ家に居るだけの婦人にならないはずだ」
「まぁ、酷いわ。それは、私は嫁の貰い手がないとおっしゃりたいのですか?」
「違いますよ。お嬢さんは職業婦人になられてみてはという意味です。嫁の貰い手も何も、お嬢さんは許婚がおられるでしょう」

坂田さんのおっしゃる通り、私には許婚が居ます。
しかし、私は例え許婚であろうと誰にも嫁ぎたくありません。
だって坂田さんが好きですから。なんて、口が裂けても言えません。

私は、残りのホットケェキを幸せそうに頬張る坂田さんに胸をときめかせながら、一人物思いに耽りました。


それから、私たちは餡蜜屋を出ました。
空は、薄暗くなっており、街灯がぽつりと燈っておりました。

「そろそろ、帰りますか?」
「ええ」

本当はもう少し一緒に二人だけの時間を過ごしたいのですが、流石に、お父様に言い訳が出来ませんので此処は素直に帰ることにしました。

ハットケーキ:ホットケーキのこと。日本に伝わったは明治時代。大正12年に、三越デパートの食堂でハットケーキという名前で提供された。



HOMEtop prevnext