7
「何故私が鶴見中尉殿の元から離れなければならないのか…くっ、月島ばっかりッ…!」
『元気出して下さい鯉登さん!』
どういう経緯なのかは伝えられなかったが、両親を亡くした赤ん坊を信頼のおけるとある場所に連れて行くという任務を鶴見により仰せ付かる。
「鯉登少尉、頼んだぞ」
「キエエエッ!?」
妙な叫び声と共に膝から崩れ落ちる鯉登を名前は苦笑い、そして月島は半目で見ていた。
「道中の赤ん坊の世話は男ひとりでは心もとない。名前さん、君も一緒に行きなさい」
『分かりました』
せっかく旭川からの任務を外れ、鶴見と共に行動が出来ると思っていた矢先、尊敬する上官からの命令とは言え、また離れ離れかと大層落ち込んでおり、先程からずっと影を落としていた。
『離れるのは少しの間ですし…その、あまり気を落とさないでくださいね』
「…はあ。鶴見中尉殿……」
胸ポケットからおもむろに写真を取り出すと鯉登はそれを切なげな眼差しで眺めていた。
『鶴見さんの事、ほんとに好きなんですね』
「尊敬している」
*
だいぶ歩いたか。
名前がそう思った時、赤ん坊が腕の中でもぞもぞし始める。
『赤ちゃんがぐずり始めましたね』
「…む?」
名前に出産経験はないが、こんな感じかと自分なりに子をあやしてみれば初めの方こそご機嫌斜めだったものの、しばらくすると徐々に静かになっていき、最終的にはすやすやとまた眠り始めたようであった。
「もう大丈夫なのか?」
『はい、眠ってくれました』
心地良さそうに眠る姿が可愛いと、小さく微笑みながら顔を上げれば、赤ん坊の様子を伺って覗き込んでいた鯉登と間近に視線が絡み合う。
それからしばしの間を置くと、両者とも顔から火が出そうな勢いで赤面し、一気に身体を跳ねさせた。
側から見たら接吻しているように見えていただろうと、そう思えるくらいにはお互いの顔は近かったのだ。
「キエエエエエッ!!」
『す、すみません鯉登さん……!』
すぐ傍で遊んでいた幼い子供が呆けたように見上げ「生接吻だ〜スケベだ〜」と言い、通りすがりのおばちゃんからは「お熱いねえ」などと言われてしまう始末であった。
「冷め切った関係よりもいつまでも情熱的な方が良いわよね〜!」
そう言いながらどんどん近付いて来るおばちゃんの圧に耐え切れず名前は一歩後ろに下がるが、鯉登は引き下がらなかった。
「……ま、まあ当然だろう。私の妻は……とても素晴らしい女性…だから、な」
『……!』
「あらあらあら〜!熱々だわね〜!」
きゃー!などと頬を染めながらうねうねと変な動きをしているおばちゃんを他所に、鯉登の顔はもはや沸騰していた。
夫婦ではない!などと言えば状況的に当然面倒な事になる。鯉登はそのまま仲の良い夫婦のふりをして、その場を乗り切ろうと不格好に頑張っていて、名前もまた彼の意図を汲んだつもりだが、鯉登と同じく顔は茹蛸のようになっている。
「…それからそこのハナタレ小僧」
「なに〜?」
鼻水を垂らし、気の抜けた顔で鯉登を見上げた。
「私は接吻などしていないしスケベでもない。たまたま互いの顔が近くにあっただけだから勘違いするな」
「え〜、でも赤ちゃんてさ〜スケベして出来るんでしょ?」
子供の発言に鯉登も名前もぴしりと固まる。
「てことはあ〜、ふたりはスケベ『えーい黙らんか!余計な事考えんでバカみたいに遊ぶ事だけを考えてろ!』
「え〜」
あっちに行けと言わんばかりにしっしと手を振る。
まるで嵐がさった後みたいに沈黙が訪れた。
『こ、鯉登さん…なんか、すみません…』
「……っ、お前が悪い訳ではない」
『…赤ちゃん連れてる以上、夫婦のフリはしておかないと…ですもんね…』
「………先を急ぐぞ」
『…はい』
互いに妙な気分を抱えながらも目的地へと向かい歩き出したのだった。
*
「ここだ」
なんだかんだで色々あったが目的地には到着し、辺りを見渡してみれば草木で覆われた家がいくつもあり何かの集落のようであった。
「ここはアイヌの村だ」
『アイヌ……ですか?』
アイヌといえば、名前が高校生の頃に行った修学旅行の先が北海道であり、そこでアイヌの文化について触れた記憶が蘇る。
アイヌでは"チタタプ"という肉や魚を小刀で細かく刻んで食べる料理があって、その時は手を小刀に見立てて膝の上にとんとん叩きながら学んだ事を思い出していた。
(……なんだか感慨深いな)
「おい、こっちだ」
『あ、すみません!』
少し離れた場所から鯉登に呼ばれ、慌ててそちらの方へと向かう。
『ここ、お家の前ですよね。いいんですか?』
「ああ。籠の中へ赤ん坊を降ろしてくれ」
『分かりました』
指示通りに名前は抱いていた赤ん坊をそっと籠の中へ下ろす。鯉登はそこへ鶴見から預かった手紙と現金を入れると素早く立ち上がりすぐまた移動を始めたので、名前は慌ててその後ろをついて行く。
『…住人に声をかけなくて良かったのでしょうか』
「あれでいい」
名前もそれ以上の事は聞けず、2人は早々にアイヌの村を離れた。
『赤ちゃん。元気でね…』
ぽつりと呟いた名前の言葉はさらりと吹いたそよ風に流され、何処かへ静かに消えていった。
top back