染みの色は

 明日はお通夜があるから今日はもう休みなさい、と親戚の叔母さんに言われましたので、私は客間に布団を敷き、寝ることにしました。微かに香る畳の匂いに懐かしさを感じながら、スマートフォンで現在の時間を確認すると、午前二時を過ぎていました。早く寝ようと思ってはいたのですが、寝ようとすればするほどに、眠気が去り、眼が冴えてしました。寝返りを打っても、打っても、眠くなる気配が訪れることはありませんでした。
 布団の中で昔の事思い出しました。祖母の事を思い出しました。薄い薄い、母が母だったころの記憶を思い出そうとしました。花の記憶。野山の記憶。祖母の記憶。山の記憶。母の、おぼろげな記憶。
 そんな事を思い出していると、気が付けば午前三時を過ぎようかとしている時間になっていました。なっていましたので、どうせ眠れないのなら、少しだけ、自分の部屋に行ってみようと思い立ちました。


 客間から出て、所々がしなる廊下を真っ直ぐに歩いて行くと、右手に階段が見えてきます。電気が点いていない階段はとても暗くて、階段全体の上半分が暗闇に隠れ、見えないほどでした。スイッチを探し灯りを点けると――真夜中なので少し怖くはありましたが、見知った階段になりました。
 ぎしっ。ぎしっ。傾斜が急な階段ではありましたが、不思議な事に、段と段の幅を体が覚えていましたので、予想していたよりも楽に上ることが出来ました。
 部屋の入り口で、またスイッチを探し灯りを点けます。十年ぶりに入ったその部屋は、目が彷徨ってしまうほどにがらんとしていて、当たり前ですが、人の匂いという物がありませんでした。寂しいと言うよりも、酷く乾燥しているような、そんな印象を受けました。

 そこには勉強机と昔の漫画が詰まった本棚、中身が空の屑籠がありました。折り畳み式のベッドは畳まれた状態で、部屋の隅にあり、それに立てかけるように、足を畳まれた小さなテーブルが片付けられていました。私の物はそれだけです。
 部屋に入ってすぐの左側に、大きな大きな本棚がありますが、これは早くに亡くなった祖父の物です。その本棚にびっちりと詰め込まれている分厚い本も、図鑑も、何もかも、祖父の物です。
 私は祖父のコレクションであった図鑑の一冊を手に取りました。表紙には、『被子植物の生態 V』と書かれています。適当なページに指をかけ、本を開きますと、びっしりと文字が詰め込まれていました。専門用語や聞いたことのない植物の名前、英語で表記された人物名や、ラテン語の学名が、それはもうびっしりと書き記されてありました。
 私は、これを読んだことがあります。読んだと言っても、それは子供の時分でしたので、内容なんて全くに理解できていなかったと思います。ですが、読める漢字だけを拾って、知っている花の名前だけを拾って、私はこの本を、私なりに読んではいたのです。そんな昔を思い出しますと、自然と口元が緩んでしまいました。馬鹿だったなあと、知らず知らずのうちに、言葉が口から零れました。
 
 ぱらぱらとページを捲っていきますと、白黒印刷の本の世界に、一輪の花が咲きました。その花は、大事な文字を覆い隠すように咲き、さも自分の居場所を主張しているかのようにも見えました。

 コスモスの押し花、でした。
 

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