染みの色は

 押し花。
 今の今まで、私はそのことを忘れていました。祖母から押し花を教えて貰ったことがあったのです。
 ――花を本の間に挟んで、上から重しを乗せて圧をかける。そうして暫くの間そのままにしておくと、一枚の紙のように平たくなった花が出来上がるんだよ。その花はそれ以上に枯れないからね、長い間とっておけるんだよ。
 祖母は楽しそうに教えてくれました。祖母に教えて貰いつつ、生まれて初めて押し花を作った時は、きっと祖母も子供時代にやったのだろうなあと考えて、何だか嬉しくなって祖母と一緒に笑ったことを思い出しました。

 どうして忘れていたのでしょうか。あの優しい思い出を。あの楽しかった思い出を。祖母から押し花を教えてもらった日から、私は毎日のようにそれを――押し花をしていたと言うのに。
 
 思い出すことが出来た押し花の記憶を頼りに、私は一冊の本を探しました。本のタイトルなんて少しも覚えていませんでしたが、分厚くて、深い緑色をした、辞書のように分厚い本だったように思います。この記憶が正しいのか間違っているのか、よく分かりません。分かりませんが、兎に角私は探しました。
 その本は、祖父の本棚の一番下の段にありました。私は床に座り、その一冊の本を棚から抜き取りました。
 表紙には『植物図鑑』と書かれていました。そのタイトルを見た途端、更に、昔の記憶がふわふわと浮かんできたのです。海に浮かぶクラゲのように、ふわふわと。
 きっかけさえあれば、埋もれた記憶さえも簡単に手にすることが出来るのでしょう。そして、久方ぶりに手にしてしまったその記憶は、深く深く思い出そうとする過程で、次から次に、当時の感情さえも生々しく再生してしまうのです。

 私はこの本に、好きだった花々を閉じ込めたのです。
 好きだったからこそ、閉じ込めたのです。
 
 薄い朱色の和紙のような、心許ない花弁を持つヒナゲシの花が好きでした。
 絵本から抜け出てきたような花弁を持つチューリップの花が好きでした。
 出来たばかりの薄氷のような花弁を持つクロッカスの花が好きでした。

 好きでしたから、閉じ込めました。
 大好きなあの姿を永遠に手元に置いておきたくて、私は閉じ込めたのです。
 自分が丹精込めて育てた、その花々を。
 
 その本を開いてみますと、幼い記憶の中では綺麗だったそれらの花々は醜く変色し、ぐずぐずと見苦しく萎れ、あの美しかった面影が、少しも残ってはいませんでした。そんな姿を――鮮やかだった花弁がまだら模様に変色していている姿を見て私は、悲しくて、悲しくて、仕方がありませんでした。

 子供の時は、押し花をすればこの姿が永遠に、美しい姿のまま本の中に残るものだと信じていました。信じていたのに。真実は違っていました。


 その、『植物図鑑』を閉じた瞬間に、私はまた、思い出しました。憶えていたはずの、思い出したくない過去の記憶を。木の葉が揺れ、終いには森全体が騒ぎだすような、そんな胸騒ぎを感じながらに、私は当時を思い出してしまったのです。
 手にしてしまった記憶を頼りに、一冊の本を探しました。それは、探す前に見つかりました。『植物図鑑』の隣に、それは並んであったのです。

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