染みの色は

 本を手に取り、ぱちりと閉じられたページの束を見ると、まるで、小さな箱のようでありました。立て筋が薄く見える漆喰の壁と、厚みのある表紙の蓋。その表紙には『節足動物図鑑』と書かれてありました。容れ物の様だと、棺桶の様だと感じました。

 私は生き物が好きでした。花も。虫も。

 私はこの本に、好きだったと言う理由で、虫すら閉じ込めたのです。
 単純に好きでしたから、閉じ込めたのでしょう。
 大人になってしまった私には、その当時の自分の感覚が分かりませんが。

 カマキリが好きでした。人間の背丈より甚だ矮小だと言うのに、果敢にも自前の鎌をゆらゆらと振り上げてくるあの姿が。
 アブラゼミが好きでした。命を焦がすように大声で鳴き続け、夏の証のように主張する愚直で懸命なあの姿が。
 モンシロチョウが好きでした。白くて、まるで作り物のように繊細で、さらさらと風の中を泳ぐように飛び舞うあの姿が。
 バッタが好きでした。太い肢を折りたたんでは思い切りよく跳ね上がり、薄く堅そうな翅を楽しそうに動かすあの姿が。

 でしたから。好きでしたから、閉じ込めたのだと思います。
 大好きなあの姿を、忘れてしまいたくなくて、私は閉じ込めたのでしょうか。
 夏の日に、庭で採取した虫を。
 
 分厚い頁の真ん中ほどに手をかけ、左右に開きます。私は閉じられた棺桶を割ったのです。虫らの、『押し花』言う遺体を見るために、割ったのです。
 そこには予想通りの光景がありました。

 虫らの体から離れた脚が、ページとページの間に挟まっていました。関節も外れていて、虫の脚はいくつもの節になり、ばらばらになっていました。頭も。胸も。腹も。翅も。全て、離れていました。これを虫と呼んでもいいのでしょうか。虫だった物。そう、形容すべきではないでしょうか。
 本の黄ばんだペ−ジには虫の体液がこびりつき、何とも言えない様相を呈していましたが、それに対しては別段何の感情も抱きませんでした。
 こんなものになるのか。虫たちの死骸を見て思ったことはたったのそれだけでした。虫の死骸に特別な思いを抱くことが出来ませんでした。庭で、採取しただけでしたので。私が育てた訳ではありませんでしたので。

 虫の死骸は、母の死体とよく似ていました。棺桶に納められ、モノと化した母に。


 じっと見ていますと、虫の死骸と母の面影が重なりました。途端。とても。肚が立ちました。私は言い表すことも出来ない、隠しきれない苛立ちを抱えながら、部屋に置いてあった屑籠へと向かいました。
 そうしてそれらの、虫の押し花を。いいえ。ただの汚らしいゴミの標本を、屑籠に捨て入れたのです。ぱらぱらと、虫だったはずの物がページから剥がれ落ち、屑籠へと降っていきました。花の押し花とは違い、大事な宝物に成り損ねたゴミを、ゴミに重ねた母の面影を、私は憎々しげに見ることしか出来ませんでした。
 からっぽになった本を見て、私は清々しました。ページに染みついた虫の体液だけはどうやっても落ちませんでしたので、仕方なくその本を閉じ、再び祖父の本棚に戻すことにしました。床に座り、本を元の場所に置こうと視線を下げた時に、私はそれを見つけてしまったのです。

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