染みの色は
爪でした。
爪が。
人間の爪が。
目の前に、並んだ本と本の隙間に落ちていました。爪を摘んだ時に出る短い端材のようなものではなく、一枚の爪でしたので、私は声にならない声を上げ、思わず後ずさってしまいました。
どうして爪が、ここに。
爪を食い入るように見ていた視線を無理に引き剥がし、顔を上げました。目の前にあるのは綺麗に整頓され、整然と並んでいる分厚い本。祖父の本。本。
祖父の本は、本の後ろにも並べられていましたので、その、私が手にしていた『節足動物図鑑』の隙間から、後ろにある本の背表紙を確認することが出来ました。
その背表紙はぼろぼろに破れていましたので、何の本なのか判別が出来ませんでした。確か、小難しい言葉が、ページ内に詰め込められていたような気がします。愛別離苦だの。贖罪だの。そのような言葉が記されていたように記憶しています。
しかし、裏を返せば私はその事しか記憶していないのです。あの本を読んでいたはずなのに。あの本に、『押し花』をしたはずなのに。
思い出そうとしても思い出せません。まるで、記憶の欠片が端々から溶かされ、薄い膜に覆われ、奥へと隔離されているような、そんな、曖昧な。
あの本に触れ、表紙を見て、タイトルを知ってしまえば、それがきっかけとなり様々な事を思い出すのでしょう。ですが私は、そんなこと。望んではいません。
思い出し、知ってしまうことが怖かったのです。
私はあの本に、一体何を閉じ込めたのでしょうか。
私はあの本に、何を期待し、何を押し込めたのでしょうか。
あの本の中身を見て、私は何と感じるのでしょうか。
形が変わっていても、大切だと思えるのでしょうか。
形が変わっていれば、不要だと思うのでしょうか。
当時の私が、閉じ込めたいほどに大切だったものは、一体何だったのでしょう。
終に私は、本棚の奥に仕舞い込まれていた、分厚い本の数々を開く事はおろか、触れる事が出来ませんでした。
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