加藤と後藤田


 九月と言えど暑いものは暑いもので。今年の九月は、字面からすると残暑というより真夏に近いような気温が連日続いていた。太陽は勢いを落とすことなくぎらつき、校舎を焼き滅ぼさんとするばかりに容赦なく注がれる熱視線。暑い、というよりも、熱いと形容した方がしっくりくるだろう。そんな日の昼休み中ごろ。最悪な事に冷房が見事に逝ってしまった二年三組の教室内は、地獄以外の何物でもなかった。蒸し風呂のような自教室から、大半の生徒は他クラスに避難しているのだが、それすら面倒くさがり、ここから動きたくないと宣う奴らもいた。ゾンビのようなぎこちない動きをする生徒が四人、死体のように全く動かない生徒が一人。彼らは意味不明に呻きながら、貴重な昼休みを灼熱地獄で無意味に浪費するすること選んだ稀有な存在だった。この熱波漂う教室に自ら残るだなんてなんと物好きか。物好きと言うか、無気力な馬鹿と言った方が正しいのかもしれない。そんな連中、いや男子生徒五名は、無駄に死ぬ思いをしながら自教室で昼休みを『満喫』していた。自業自得である。

 しかし、二年三組の教室にも一つの希望があった。それは奈落に垂らされた蜘蛛の糸か、暗夜に注ぐ一縷の光か。彼らにとって、その眩い救いの手は、文明が生んだ画期的な偉大なる発明品。そう、扇風機である。まさに地獄に仏。教室の前方、教卓の左右に鎮座する二台の扇風機の背には、目が眩むほどの後光が見える。…気がする。五人は二人、三人(屍状態な彼は、自分の机が扇風機の目の前にあったので動いていないが)に分かれて、各々扇風機の前に座り込む。手を伸ばし、強風のスイッチを入れる。入れたと同時に、爆音。分解するんじゃないだろうか、と思えるほどに猛り狂う二つのモーター音に、五人は若干の恐怖を感じながらもその場から動くことはなかった。動けなかった。
 教室の左端にある扇風機の前には、加藤と後藤田の二人組が居座っている。

「あっついフライパンの上にいるみたいー、あー、わー、あーつーいー」
「焼け死ね」
「その指図は却下する」
「じゃあ死ね。ただ死ね」

 加藤に絶対零度の眼差しを向けられた後藤田は目を逸らす。逸らすしかなかった。なんて冷たい目なんだ。幼稚園の頃はこんな目しなかったのにな。などと過去に思いを馳せながら、後藤田はもう一度加藤と視線をかち合わせる。尚も死ねと念じているのか、加藤の目には氷が入っているのかと思わせるほどに冷ややかだった。

「……し、死なばもろとも!」

 幼馴染特有の勇気と根性と、ノリ。後藤田は意を決して加藤の肩に腕を回す。腕まくりしている後藤田の腕が加藤の首に直接触れる。現在、教室内の気温と人の体温はどちらが高いのだろうか。きっと、気温の方が高いだろう。加えて、扇風機の強風機能のおかげで大して暑くはなかった。しかし鬱陶しいものは鬱陶しい。何せ幼馴染と言えど他人は他人。パーソナルスペースの概念がこいつには備わっていないのだろうか、と加藤は思いつつ、その不快感丸出しな顔をして後藤田の腕を力ずくで剥しにかかる。

「ふざけんな。離れろ馬鹿。今から苦しんで死ね。焼け死ね。焼けろ」
「嫌だ。生きる」
「ならせめて苦しんで生きろ」
「楽して生きる!」

 後藤田の腕から一瞬でも早く解放されようと、ばたばたと暴れる加藤。だが運動部の後藤田の力に、文化部の加藤が敵うはずがない。ないのに。加藤は諦めずに後藤田の指を掴み、一本一本引き千切るように、丹念に、必死に退かそうとする。涙ぐましい努力ではあるが、そんな加藤の全力の抵抗は後藤田の前では子猫の戯れと何ら変わりなかった。今更だが加藤は一般男子より幾分も非力である。体力測定で女子に負けるほどに。
 このままではらちが明かないと踏んだのか、加藤は全身全霊を持ってこの剛腕の男(加藤からすれば)後藤田の相手をすると決めた。決意の表れか、後藤田をその冷たい瞳で睨むと、力任せに暴れ始めた。しかし残念なことに、加藤は非力であった。こん、っと加藤の足が目の前にある扇風機の頭に当たる。

「「あ」」

 扇風機は、がちゃんと大きな衝撃音を立てて床に倒れる。けたたましく鳴いていたモーター音は徐々に徐々に小さくなり、最終的には無音になる。羽が止まる。壊れた。いや、壊した。貴重な憩いの場を、楽園を、神を。加藤と後藤田に熱波が襲う。今の今まで扇風機の恩恵、強風を全身に浴びていたのだからその暑さは半端ではない。通常の何割増しにもなってそうな教室の熱を一身にくらうことになる。だが、いまはそれどころではない。故意的にではないとは言え、扇風機を蹴飛ばして壊してしまった事実は歪めることが出来ない。

「あー!壊した!」
「お、お前のせいだ。お前がくっ付くから」
「暴れたのは―」
「黙れ馬鹿。馬鹿力馬鹿馬鹿。馬鹿死ね」
「ちょ、馬鹿死ねって何」

 扇風機を壊したと言うのに相変わらずぎゃーぎゃーと騒ぐ二人。それを見て、反対側の扇風機の前にいた鳥居と上原は呆れかえる。と、二人同時に苦笑い。鳥居は胡坐をかいた膝の上に片肘をつき、加藤の方をにやにやと見る。

「あーあー、壊しちゃったー。先生に言って来いよー。昼休み終わるまでに新しいの見つけてこないと三組の皆から被害ボーボー」
「鳥居。非難轟々な」
「それそれ。ヒナンゴーゴー。ゴーゴー?」
「カレー」

 アイコンタクトの後、ハイタッチを交わす鳥居と上原。二人は笑いながら、カレー食いたいなー、ビーフとチキンどっちが好き?とか全然関係ないことを話し始めた。死体の如く動かない柳田は、相変わらず机に突っ伏して寝ている。
 すると、後藤田が頭をかきながら立ち上がった。

「よし、お前が行って来い」
「はあー?何で俺だけなの?つーか、壊した犯人は俺じゃないもーん」
「壊すきっかけを作ったのは……え、は?下ろせ、下ろせ馬鹿!」

 後藤田は力が抜けるような声でどっこいしょー言うと、加藤の手を引き立ち上がらせ、無駄のない動作で丸太のように担ぎ上げた。長身の後藤田にチビで非力な加藤が抗えるはずもなく、そのまま職員室に連行されていった。教室を出て更に喚き続ける加藤の声を聞きながら、死体こと柳田はようやく目を覚ます。
 昼休み終了のチャイムが鳴るまでに、新しい扇風機を手に入れることは出来るのか。現段階で決定しているのは、器物破損の反省文を書かされることだけ。もし首尾よく扇風機を手にいれられなかったら、クラスメイトからの集中砲火も決定事項として追加されるだろう。
 そんな小さな運命の分かれ道まで、残り十分。



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