頭上に注意



 冬の鋭利な冷たさは春の到来で唐突に消え去るのではなく、春という季節の中で、先端からじわじわと蒸発していくのだろうと私は思う。四月だ春だと騒いでも肌寒い日はたまに訪れるし、布団からするりと抜けだせない朝だってある。きっとまだ、冬の残骸がどこかに刺さっていて、気が向いた時にだけそこから冷たさが溶けだして、酸素に混じって広がるのだろう。
 まるで、溶けたチョコレートみたいに。
 特有の甘い匂いを発するチョコレート。カカオ自体は決して甘くはないのだが、チョコレートを口にした記憶があるせいで、あの匂いが鼻を掠めるとああ甘いと疑問を持たずに信じてしまう。
 忘れてしまいたい。チョコレートの甘い味も。涙の味がする冬の寒さも。生きてきた時間も。楽しい思い出も。嫌な思い出も。何もかも。忘れてしまいたいと思った。
 消去したい。記憶を。全部まっさらな状態に戻したいと思った。しかし、記憶というものはパソコンの中に保存しているデータのように、簡単に消去なんてできない。
 体のどこかにリセットボタンがあればいいのに。人差し指ひとつで押せて、なにもかも、簡単に消去できるボタンがあればいいのに。もし人間に、リセットボタンがあれば私は迷う事すらせずに押しただろう。躊躇いもなく、自分が今まで歩んできた人生の全ての記憶を消すのだろう。

 だが、そんなボタンなんてどこにもない。ないからこそ、私は今から死ぬのだ。
 死んでしまえば過去の記憶を思う事なんて出来なくなる。それは、リセットボタンを押すことと同義である。同義であるからこそ、私は躊躇いもなく、死を選んでしまったのだろう。

 さらば世界よ。さらば私よ。願わくば、魂すら消え去らんことを。



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