僕たちは朝が来ない深海魚



 夜の盛りに、ふと目が覚めてしまった。
 枕元に置いているスマートフォンを手探りで見つけ電源ボタンに軽く触る。ぱっと点いた画面は眩しくて、その白い光が目を刺すように飛び込んできた。余りの明るさに思わず顔を顰めてしまう。目を細めながら画面を確認すると、三時二十七分と表示されていた。
 もう一度電源ボタンに触れて、スマートフォンの画面を消した。灯りを失った部屋は、また、穏やかな闇に戻ってしまった。 
 
 仰向けになり、天井に目をやる。遮光カーテンのせいで、この部屋には月の光すら届かない。夜風がカーテンの襞を揺らしても、差し込むのはほんの少しの、糸のような、細くて弱い光だけだ。暗い部屋を思い切り裂いてしまえるような、ナイフのように鋭く冷たい光はここには届かない。
 部屋に灯りがないせいで、天井の模様も、色も、なにも見えなかった。目を閉じていても、開いていても、真っ暗な黒しか見えない。僕の目の前にあるその黒は、闇そのものだった。以前テレビで見た、深い深い海の底によく似ている。 

 こんなにも真っ暗な部屋にいると、後ろ向きの事ばかり考えてしまう。そうして次第に、過去の記憶がいっぱいに詰まった、思い出の引き出しを開けてしまうのだ。
 自発的にやってはいないはずなのに、能動的とも言い難いその行動を、いまだに僕は抑制することが出来ない。二十数年生きてきているのに、僕は自分を思い通りにコントロールする術を知らないのだ。
 だから、開けたくもない引き出しの取っ手に手をかけてしまう。顔を背けようとしても、重たく静かな負の思考が僕の行動を絡め取ってしまい、自分の意志ではぴくりとも、動けなくなる。そうして、開けたくもない引き出しを開け、見たくもないものを見てしまうのだ。
 引き出しの中にあるのは思い出したくない記憶。消化不良のままいつまでもそこにある記憶。そんなものが、いやに整然と、時を経ても依然と、丁寧に仕舞われている。

 そんな記憶の塊をまじまじと見てしまう前に、僕は口を開いた。

「ねえ、ヒロ。起きてる?」

 横で寝ていた彼に、声をかけてみる。こんな時間だ。当然寝ているだろう。気が付かれなければそれでいい。なんて、思っていたのに彼は起きていた。僕の声で起こしたらしく、彼は寝起き特有のおかしな声で返事をした。ごろり。と、彼は僕の方を向くように、寝返りを打った。
 
「ねむれないのか?」

 しゃがれた声。こんな夜中に起こされて眠いだろうに、僕を怒るようなことはしなかった。それどころか、どこか満足そうに僕の頭を撫でると、彼は優しく抱き寄せてくれた。それは余りに近く、額同士が当たってしまうので、僕は少しだけ身を捩らせて下へと、彼の胸にすがるように、体を移動させた。すると、また改めるように、彼がそっと抱きしめてくれた。
 彼の穏やかな愛情に触れると、毎回、鼻の奥がツンと痛くなる。それに気が付かない振りをして、僕は彼に話しかけた。

「あのさ」
「ん?」
「夜の、暗い部屋ってさ、海の底に似てるよね」
「海?」

 彼は、まだ眠気が取れない声で返事をしてくれた。少しだけ目が覚めたのか、彼は僕の右手に指を絡ませ、そっと握った。僕が握り返せば、やわやわと、まるで子供のように何回も握ってくれる。
 彼はいつも優しい。出会った時からそうだった。僕が一方的に、好きだと伝えた時も、優しく、真摯に向き合ってくれた。

「うん、海。深い深い海の底にはさ、月の光も、太陽の光も、なにも届かないんだって。でもね、光がないのにさ、その、深海にだって魚がいるんだ。深海魚がね、棲んでるんだ」
「深海魚なぁ…。そういや、なんであいつらってそんな不便なところで生きてるんだろうな。明るい所の方が楽しいだろうに」
「それは。あれじゃないかな。きっと眩しすぎるんだよ。きらきらしすぎてるから、静かで穏やかな場所に逃げたんだ。そこでさ、生き残るために形を変えて」

 言い終わらないうちに目頭が熱くなってくる。鼻の奥がじわじわと染みるように痛くなって、顔全体が熱くって。
 なんでだろう。どうしてこんなにも、泣きそうなんだろう。
 僕もこの現実から逃げたいのだろうか。その、深海魚のように。ひっそりと。穏やかに。緩やかに。只管に。好きな人と一緒に。生きていたいのに。どうして。

「…あのさ。来月、田舎に帰ることになった」
「そう、か」
「就活が上手くいかないんだろって。ふらふら遊んでないで、さっさとこっちに帰って素直に店継げって。でさ、」

 こんな風に、震える声で、彼に伝えても仕方がないのに。困らせてしまうだけなのに。動く口を、あふれる言葉を、止めることが出来なかった。

「嫁貰って孫見せろって」
 僕の言葉に、彼は何も応えなかった。
 彼は何を考えているんだろう。暗い暗いこの部屋では、互いの表情なんて見ることが出来ない。それが唯一の救いでもあるし、酷く、怖かった。
 


 
 僕はただ、形のない想いを抱えて、先のない未来を想像し、悩みながらも、臆しながらも、笑いながら、もがきながら、自分の世界で生きていたいだけなのに。
 そんな願いすらも、叶えようとすることが出来ないなんて、僕は一体、何のために生まれ、何のために大きくなったのだろうか。
 だけども、僕は。今まで自分が歩いて来た道を捨て、縁を切り、新たな場所に向かう事なんて出来ない。そんなこと、怖くて。怖くて。

 眩しい世界に背を向ける事も、逃げ出すことも、生き方を変えることも、自分ではなにもせずに、その場から動かずに、背中を丸め、目を瞑り、夢の中で深海魚に憧れるだけの僕は、なんて愚かな生き物なんだろうか。



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