猫の話

 冬至も近い冬のこと。眠れずにいた私はひとり、火鉢の炭を突き崩してながら睡魔の到来を待っていた。すると。
 とととと。なにかが縁を走る音がする。どこからか野良猫が入り込んだのだろう。昼間にやった出汁っかすの煮干に、文字通り味をしめたのか。
 私は仕方なく立ち上がり、締め切っていた障子を開けた。途端吹き込む冬風に火鉢から貰った熱を奪われる。おかしい。雨戸はきっちり閉めたはずなのに。怪しんで見ると、雨戸がほんの少し空いていた。猫が通れるほどの幅だった。いつの間に開けたのだろうか。
 不思議に思っている間にも、頬にぴりりと寒さが刺さり、自然と身が震え始める。羽織っていた褞袍と寝巻きの襟元をぐっとかき合わせ、真っ暗な縁を覗いてみるが何かいるようには見えなかった。まあ、野良猫が入り込んでいたとしても、朝追い出せばいい、と寒さに弱い私は都合よく思うことにした。
 雨戸をぴしゃりと閉め、障子もしっかりと閉め、再び火鉢の前に座ろうとしたのだが、先程まで私が座っていた場所に、一匹の猫が香箱を組んでそこにいた。
 驚いていると、なんとその猫、口を利いたのだ。

「失礼しております」

 返す言葉が思いつかない。猫が喋るなんて。これは、夢だろうか。応えずにいると、猫は。

「いやあ外が寒くて寒くてたまらなかったものですから。こんな日は温もりが恋しくなってしまうものでして、ええ。死んでも尚、身は凍えるものなんでございますねぇ」
「はあ」
「わたくし旅をしているのですが、寒いとどうも心が弱っていけません。今宵だけで良いのです。どうかこの温もりを、分けては頂けませんでしょうか。その代わりと言ってはなんですが、その、わたくしのお話をひとつ、お聞かせいたしたく」

 あまりに現実感がなさすぎて、私は呆然と現状を受け入れた。考えることを放棄したのだ。どうせ考えたところで、猫が私の目を見て話しかけてくる状況など到底信じられず、これは眠気からくる幻覚だ、夢だ、と繰り返し考え悩むだけだろう。ならばいっそ、思考停止で受け入れた方が楽なのでは、と深夜の回らぬ頭で判断したのだった。

「ああ、いや別に。お構いなく。危害を加えないのであれば、特に追い出したりはしないよ。黙って寝てくれていい」
「そんな。そう、でございますか……」

 明らかに沈んだ表情をする猫。いくら猫といえどもそんな顔をされると罪悪感に襲われる。

「いいや、やっぱり聞こう。ちょうど眠れなかったんだ。お前の話を聞いているうちに眠れるかもしれない」

 見知らぬ猫の、しかも普通ではない猫に気を遣う自分に、己のことながら苦笑いする。何をしているんだか。
 私の心中など知らぬ猫は、香箱を組むのをやめて、背筋を伸ばすようにして──猫背は猫背だが──座り、ゆっくりと語り始めたのだった。



 わたくし、生前は飼い猫なんてものをやっておりまして、自分で言うのはなんですが、なかなか物分りの良い猫でございました。
 ダメと言われればそれ以上手を出さず、来るなと言われればそれ以上近づかず、反対に、おいでと言われればそばに寄り、おいしい?と聞かれればうにゃうにゃうにゃと人の言葉の真似なんかして。まあたまには反抗することも少しはありましたが、大方は、聞き分けの良い猫で通っておりました。
 もちろん、ご主人からは大層可愛がられておりました。思い返せば幸福を絵に描いたような日々で、いまでも時折思い出しては、柔らかな気持ちにしてくれるのです。髭の先まで詰まったあの日々の思い出は、私の宝物でございます。
 わたくしが死んだときなんて、わたくしは、いち猫で、たかが猫でございましたのに、わたくしのご主人は葬式なんてものを挙げてくださいました。わたくしのことを人のように愛し、最期まで、人のように送ってくださいました。
 わたくしの骨壺を抱え込むご主人の姿は、見ていられないほど憔悴しきっておりました。いつものように、元気づけてあげたくありましたが、残念なことに、わたくしは魂のみのしがない浮遊霊となっておりましたので、そんな小さな願いすら叶いませんでした。

 しばらく経ったある日のことです。わたくしは未だ哀しさに沈むご主人と一緒に外出しておりました。外面的には立ち直った風を装っていましたが、家に帰ればそんな仮面は剥がれ落ち、不安定な状態で暮らすご主人でありましたので、わたくしは、まだ、離れられずにおりました。無力な存在だとは理解しておりましたが、だからといって、ご主人を一人きりにすることなんて出来るはずがありませんでした。
 そんな執拗いわたくしを、お神さまが見かねたのか、わたくしは導きのようにそいつに出会ってしまったのでございます。

 白黒の雌でございました。捨てられて行き場のないやつで、まだ若いだろうに毛並みは悪く、痩せっぽっちで、お世辞にも可愛らしいとも凛々しいとも言えないような風体でございました。そいつは、わたくしを見ると驚いた風に体を膨らませはするのですが、いかんせん、迫力がない。地力が発揮できてないとでもいいましょうか、まあ、こんな子どもにも押し出されそうな踏ん張りしか出来ないぐらい体力がない訳ですから、当然といえば当然でございましょう。わたくしは、怯える若人を諌め、懇々と話をしたのでございます。
 良い場所を教えてやらんこともない、と。

 ええ。本当は、わたくしの本心のみでいうのであれば、本当は。教えたくありませんでした。ご主人の隣いるべきなのはわたくしなのだと生前からずっと自負しておりましたし、あの場所にこいつを据えるということは、ご主人の中のわたくしの存在を薄めることになるのではと、卑しいわたくしは、そう、考えてしまうのでした。悲しむということは、わたくしを思い出してくれているのでしょう?それは、わたくしにとって、嬉しいことのように思えてしまっていたのです。なんであれ、わたくしのことを想ってくれている、と。
 しかしわたくしは分かっておりました。それが、ご主人にとって、ダメなことであると。わたくしは物分りの良い猫なのです。ご主人が愛してくれた、物分りの良い猫なのです。

 わたくしはそいつに、ご主人の良いところを、教えられるだけ全て教えたのです。捨て猫ですから、初めのうちはてんで信じてくれませんでしたが、しだいに半信半疑になり、しまいにはきらきらと目を輝かせてわたくしの話を聞いておりました。
 そうしてわたくしは、そいつをご主人の元へと送り出したのでございました。その後のことは、お話せずともお分かりでしょう。優しい優しいご主人が、みすぼらしい捨て猫を放っておくなんてこと、する訳ないのですから。

 ああ、去る時が来たなと、わたくしは気が付きました。身が軽いのです。ふわふわとして、まるで体の内に風を飼っているかのように身が軽くて、どこまででも駆けていけるのではないかと思えるほどでございました。まるで早く、その場から離れろという風に。
 まだまだ一緒に、ご主人がその身と別れる時まで添うていたいのに。世の理は残酷でございますね。──いいえ、いいえ。きっと、世の理は優しいのでございましょう。
 このままずっとずっとご主人のそばにいて、あいつとご主人の仲睦まじい様子を逐一見ていたら、わたくしは知らず知らず嫉妬してしまって、醜いものになってしまうでしょう。そんなものになってしまったら、ご主人が魂となったときに、わたくしに気がついてくれない。それは、とっても、とっても、悲しいこと。
 わたくしはさよならをする覚悟を決めました。本当はしたくありません。いつまでもそばにいたいのです。ですがわたくしは、大層物分りの良い、猫なのです。


 よく晴れたある日、ついにわたくしは、ご主人に言いました。

 ふとしたときに、一瞬で良いのです。こいつと──まあこんなやつとわたくしが似てるところは猫という生き物一点のみではございますが──わたくしの姿を重ねて、わたくしと過ごしたあの幸福な日々を思い出して微笑んでいただければ、わたくしは髭がピンと上向くほどに嬉しいのでございます。楽しかったという記憶とともに、わたくしのことを思い出していただけましたら、わたくしは、なにより幸せでございます。
 ご主人が魂となったその時は、かならず迎えに参りますので、共に歩いて逝きましょう。
 どうかそれまで、ご主人もお幸せに。

 わたくしはご主人に向かって伝えました。もちろん聞こえてはいないでしょう。ですが言わずにはおられませんでした。それから最後に、ご主人の足元に擦り寄り、さよならをしたのでございます。

 そうして、わたくしは大好きなご主人と、見知った土地に別れを告げ、いつかご主人から聞いた猫の国を目指して旅をすることにしたのでございます。



 語り終えると猫は満足そうに目を閉じて、火鉢の温もりを堪能するようにその場で寝転がった。声をかけてもにゃあとも鳴かず、すぴすぴと寝息すら聞こえ始めたので、私は構うことを諦め、自分の寝床に入る。次の日の朝にはもう、猫の姿はどこにもなかった。やはりあれは夢だったのか。夢でなければ、あいつはまた、旅にでたのだろう。どちらにせよ、話を聞かせてくれたお礼に餞別のひとつもくれてやればよかったなあと、私は白くなった火鉢の炭をつつきながら思うのだった。



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