ひまわり

 時節は夏。梅雨明け直前。猛暑の入り口である。
 室内に滞留する慈悲なき湿度は窓を開け放っても一向に去りはせず、かといって、エアコンの除湿機能に縋ることも出来ない僕は、室内の板張り箇所にべたりと張り付くことでなけなしの正気を保っていた。
 エアコンの使用は七月下旬から、と所長が定めた時に、まあいけるだろうと高をくくっていた自分が憎らしい。全力で抗議すればよかったと、愚かな僕は毎年後悔する。解禁日――二十日まではあと数日。期間で見ればそれほどたいしたものではないのだが、この熱気の中であと数日過ごさなければいけないと思うと、それはとても長いように感じた。
 熱で微睡み始めた思考の中、僕は一つの妙案にたどり着いた。

 その案というのは単純なもので、こんな暑いだけの場所からおさらばして、さっさと涼しい場所に尻尾を抱えて避難する、というだけのことである。
 なので僕は今、卵ほどの大きさの信楽焼きの狸に化けて、冷蔵庫の中で悠々と涼んでいる。
 ひんやりとした庫内の空気を吸い込めば、体にため込んだ熱が収まっていくのが分かった。
 これはなかなか。良いじゃないか。頭の先からしんしんと、うちの内まで冷えて、冷えて、冷えて……。心地よさからか、やんわりとした眠気が僕の陶器のお肌を包み込んでいった。
 体の芯まできんきんに冷え終わった頃、誰かが突然扉を開けた。真っ暗だった冷蔵庫内がぱっと明るくなる。眩しくて僕は目を眇めた。

「何してるんですか」

 呆れの混じった声。裏葉だった。

*

「暑くてたまらなかったから涼んでいただけだよ」

 楽園から無理矢理連れ出された僕は、縁側に裏葉と並んで座っている。冷蔵庫内と外気温の絶望的格差に殺されずにすんでいるのは、ひとえに、裏葉が手早く用意してくれた氷水を張った盥のおかげだった。足を突っ込めば、冷蔵庫程ではないものの、ほどほどの楽園に誘われる。
 裏葉は所長に用事があって訪ねてきたのだが、所内は空っぽ。僕を探すが見つけられず、僕が机の上に置いていた『冷蔵庫にいます』とだけ書かれたメモに気が付き、失礼だとは知りつつも、思い切って人様宅の冷蔵庫の扉を開けたのだという。

「ほんっと碌な事しませんよね、草介さんって」
「しょうがないだろう。あそこに避難しなければ僕は死んでいたかもしれない」
「どうだか。わざわざ冷蔵庫に身を寄せなくても、他にやりようはたくさんあるでしょうに」
「そう? 思いつかないや」
「考える気がないのですね。もう……」
「暑いからね。思考も鈍るさ」
「鈍るも何も、思考のしの字にすら至っていないくせに」

 つり目のせいか、僕に寄越す視線の冷たさが他の連中と比べて一味違う。

「これ、暑中見舞いです」

 主様から、と言って突き出した手にはスイカが一玉。会った時から気になってはいたが、まさかうちへの贈り物だったなんて。裏葉はネットで包んだそのスイカを、ゆらゆらと大袈裟に揺らし、早く受け取れと無言でアピールする。僕は押し頂くように、両手でスイカを受け取った。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 役目を果たし満足気な顔をする裏葉。彼女の仕える主様とやらへ全幅の愛情がひしひしとこちらにまで伝わってくる。上司に向ける想いの質の違いに、僕は若干の居心地の悪さを感じた。微少の不快感から逃げるように僕は裏葉から視線を逸らす。
 その先にあったのは黄色の花。膝丈ほどの高さしかないその花は、夏前に所長が種を蒔くだけ蒔いて放置したものが大きくなったものだ。大した手入れもしていないのに立派に花を咲かせている。
 僕は目に留まったそれの綺麗所を数本手折り、裏葉に手渡した。

「これあげる。お返しはまた後日きちんとするから安心して」
「お返しは別に……。いいんですか? これ、もらっても」
「もらってくれなきゃ困る。裏葉がいらないって言うのなら、こっちで処分しておくけど」
「しょ、処分だなんて勿体ない! こんなに綺麗なのに」

 裏葉は向日葵をかき抱き、僕から守るように身を捩っている。嬉しそうで何よりだ。
 裏葉がにやにやしながら向日葵の花に顔を近づけると、花の裏側にでもくっ付いていたのか、緑色のカナブンが飛び出してきた。予期せぬ対面に驚き、慌てふためく裏葉の様子の一切を、僕は見ていなかったふりをして盥に浸けていた足を引き上げた。見ていたと知れたら、恥ずかしさからいちゃもんをつけられかねない。足に残る水気を適当に払い、縁側から家に上がる。

「ならよかった。あ、包み紙取ってくるからちょっと待っててよ」

 上擦った声で返事をする裏葉をその場に残して、僕は新聞紙を取りに奥へと引っ込んだ。


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