色彩をあなたに



「これは何色?」

 少女が隣にいる男に問いかけます。男は動かしていた絵筆を止めて少女の方に向き直り、少女が手にしていた絵の具のチューブを見て言いました。

「それはコバルトブルーだよ。夏の日の空のように深い深い青。この色をキャンバス一面に広げると、白くてもくもくしている大きな雲を描きたくなるんだ。空以外にも、この色はどこにでも落ちているんだよ。例えば、晴れた日の海だったり紫陽花だったり、宝石や南国の魚の色だったり。それから、ええと」
「バラの色!空に似てて海にも似てて、あじさいに似てるあの青い色なら見たことがあるよ!ほら、去年森で見つけた、あの、青いバラの、バラの色!」

 少女は楽しそうに話します。くりくりとした大きな目を、嬉しそうに細めながら笑います。青いバラと聞いた男は、ああそうだねと言うと少女の頭を撫でました。

「じゃあこれは?」
「これはね、えっと。キャロットオレンジ」

 キャロットオレンジ。男から教えてもらった色の名前を小さな口の中で、小さく小さく繰り返していました。そうしているうちに何かを思い出したのか、少女の表情が曇りました。

「にんじん、の色なの?」
「そうだね。君が嫌いなにんじんの色。キャロットのようなオレンジ。キャロットがにんじんだって覚えていたんだね」
「…うん。だって、クラールが昔、おいしいキャロットジュースだよって言ってにんじんのジュース出してきたことがあったから。ちゃんと覚えてる」
「千里は物覚えがいいんだね。賢いなあ」
「あのね、いやな事はね、覚えたくないから覚えているの」

 ふん、とわざとらしく鼻を鳴らした少女――鶴見千里は大人びたような顔になり、クラールと呼ばれた男に背を向けてしまいました。そんな千里の態度に、クラールは苦笑いを漏らすしかありません。
 
「ごめん。いや本当にあの時はごめん。まさかあんなに苦手だなんて」
「クラール。私はにんじんのことが苦手じゃなくてきらいなの!」
「ああそうか。そうだね、嫌いだったね。…えーっと、じゃあ改めて。これは、キャロットの色。キャロットオレンジ」
「…それ、以外は?」
「そうだなぁ。楽しかった日の夕焼けのような色。マリーゴールドによく似た色。元気の詰まった乾電池のような色」
「夕やけやマリーゴールドは分かるけど、そんな電池知らない」「君のすぐ近くにあるから今度探してごらん」
「うーん。じゃあ目が見えるようになったときに覚えていたらね」
「うん。出来れば覚えていて欲しいなぁ」

 クラールは千里のオレンジ色の瞳を見ながらそう言いました。焦点の合わないその瞳は、所在なく周囲の景色をただ反射しているようでした。
 千里は目が見えません。先天的ではなく、一時的に目が見えなくなっていました。失明理由は偶然を筆頭に血筋や因果や呪い。そんな、八歳の少女には似つかわしくない理由のせいで、鶴見千里の視力は一切の光を失っていました。
 クラールも様々な理由でヒトを辞め、人里から離れた小さなこの家で絵筆を取ることになった訳ですが、それはまた別のお話しです。

「千里。早く良くなるといいね」
「うん!だからね、今まで見た色を忘れないように、もっと。もーっと色を教えて!」
「そうだね。色を忘れてしまうと大変だからね」
「んー、じゃあねー、これは?」
「ん?これは――」

 クラールは今日も、自身が見える色彩の数々を、目の見えなくなった千里に分かりやすく伝えるために透明な頭を捻らせます。誰も見ることが出来なくなったその顔を、喜怒哀楽様々な表情に変えながら――つまりは四苦八苦しながらも――生き生きとした色を乗せた言葉を紡ぐのでした。



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