蛇と蛍の沼事情


 その日俺は、自宅の沼の底でごろごろと寝転がり休日を満喫していた。
 俺が住んでいるこの沼の底には、申し訳程度に白い砂利が薄く敷かれている。いるのだが、砂利の下に細かい泥の層があるせいで、軽くでも寝返りを打てばもわりと泥の煙が砂利の隙間から立ち昇ってくる。なので俺は、寝返りを打つことすらせずに、仰向けのままに上を――水天井を見ていた。
 自分の口の端から漏れる気泡が、ぶくぶくと音を立て上へ上へと昇っていく。そんな小さな小さな、不揃いのビーズのような水泡を、俺はボーッと眺めていた。

 と、その時。上からサンダルが落ちてきた。片方だけのサンダルが、ゆらゆらと、まるで紙切れのように揺れながら、俺の頭目がけて落ちてきたのだ。流石にゆったりと落ちてくるサンダルに、素直に当る気も無かったので、俺は起き上がってそのサンダルを掴んだ。細かい泥が巻き上がり、思わず噎せそうになる。
 さて。今俺の手のひらの上にはサンダルがある。何の変哲のない――例えこれがなんとも変哲のあるサンダルだったとしても、履物なんぞに興味がさらさらない俺には分からないだろうが――サンダルが一つ。六七メートルほど上にある水面の様子を見上げてみたが、人影があるわけでもないし、かと言って、もう片方のサンダルが落ちてくる気配もなかった。

 そのあまりに静まり返っている現状が、気持ち悪かった。

 何だか嫌な予感がしたので、俺は上へ――水面へと向かって尻尾をくねらせて泳ぎだした。
 もし、このサンダルの主が自殺をしようとしていたらどうしよう。確かにこの沼は山裾にあるし、周囲に人気はない。絶好の自殺スポットと言えばスポットだ。
 だとしても、入水自殺だなんてやめてほしい。
 勘違いしないでほしいが、別に俺は、誰かが死ぬことが嫌な訳じゃない。ここで死なれる事が嫌なだけだ。この場所を事故物件にされたくない。と言うか、新鮮な溺死体が俺を目がけて降ってくるのは勘弁してほしい。


 水面に近づくほどに、陽の光が強くなって来た。
 水中へと差しこまれる春の光を浴びながら、俺は水面すれすれまでに手を伸ばし、水を一掻きした。じゃぷん、と空気が混じらないような重たい水音が鼓膜に染み込む。
 目の位置までを水面から出して周辺の様子を伺うと、一人の女が座り込んでいた。膝を抱え、湿っているであろう地面に腰を下ろし、ぐずぐずと音を立てながら鼻をすすっている。その女の足元を見れば、サンダルが片方なかった。

 ああこいつか、こいつの私物か。
 俺は心の中で悪態をつきながら、そろそろと女の元へと泳いで行った。女は沼の際で座っていたので、そこまで近づくことは容易だった。水際まで近づくと、そこは浅瀬になってるので、自然と立つ形になってしまう。俺は女をなるべく驚かさないように、声をかけることにした。

「おい」

 それ以外の声掛けを俺は知らない。無愛想だとかなんとか言いたいのなら勝手に言えばいい。なんと言われようとも、俺は、これ以外に声の掛け方を知らない。
 女は俺の存在に気がついたらしく、勢いよく顔を上げ、まるで化け物でも見たような顔を俺に向けてきた。確かに俺は人間ではない。水蛇の化け物のような、人以外の種族だ。だが俺程度の――人間の体に爬虫類の鱗のようなものが散らばり、下半身が蛇になっている人外なんて世間にも沢山いるだろうに。
 それに、この沼は俺の自宅だ。住民が出て来ただけで驚くようなら近づかないでほしいものだ。
 なんだか腹が立ったので、俺は不満さを全身から出すように、ざぶざぶと波音を立てながら沼の中央までも戻った。これで怖がられたらもうどうしようもない。いや、いっそ俺を怖がり、もう二度とここに近づかなくなればいい。
 俺はその場から動かずに女の様子を見ていた。すると、女は上げた顔を下に向けることなく、唐突に、ぼろぼろと涙を流し始めたのだ。

 ちょっと待て。何故泣いた。俺がそんなに嫌か。落ち着け女。落ち着け俺。何故このタイミングで泣く。俺のせいか。
 焦る俺をしり目に、女は誰にでもなく、もしかしたら俺に向かって、大声でわめき散らし始めた。まさかあんな大声で、この距離のある中愚痴を吐かれるなんて思わなかった俺は、呆然とそれを聞くしかなかった。
 内容は、まあ、一般的な社会人の悩みとでもいうのだろうか。そんなありきたりな内容だった。言葉の中にたまに混じり込む、死にたいという願望だけがやけに鋭く聞こえたが、本心から死にたいとは思ってはいないのだろう。あれだ。長期休暇が欲しい、とか、ハワイに行きたい、とかそんなレベルの。
 愚痴祭りの中、俺はそれとなくサンダルについて聞いてみた。それに対する返答はあまりに馬鹿らしいもので、捨てたかったから捨てたと言う笑えるほどに子供じみた物だった。
 サンダル女の愚痴は日没まで続いた。馬鹿かと思った。延々と似たような内容の愚痴を、だらだらと繰り返しているだけなのに、もう三時間ほども経ったと言うのか。外気に晒している鱗は、すっかり乾いていた。

「私なんてどーせなんにも出来ない馬鹿ですよー!仕事も出来ない、スポーツも出来ない、友達も出来ない、貯金も出来ない、こいびとも、こいび…」
「もういい。もう何にも言わないでくれ。これ以上は」

 面倒なので聞きたくない、と思わず言ってしまった。しまったと思ったが、それは紛れもなく後の祭りだった。手遅れにもほどがある。目の前で泣いていた女は、俺の言葉を聞くや否や、更に勢いを増して泣き始めてしまった。
 こんな、こんな女を俺にどうしろと。

 頭を抱えたくなるのを堪えて、俺は女に再び近づいた。音を立てずに、するすると近づいて行くつもりだったが、そんな俺の想定に反して、ざぶざぶと、少し乱暴な水音が立った。穏やかだった水面に波紋が刻まれる。
 その荒い模様を見て、俺は冷静さを取り戻せるよう努めた。
 女に近づく事を止め、深呼吸をする。
 冷静になれたかどうかは分からないが、今度はするすると音を最小限に抑えて移動することが出来た。そうして、女のすぐ側まで近づく。手を伸ばせば触れるほどの近さだった。やましい気持ちなんてこれっぽっちも、しじみの身程もない。あってたまるか。むしろ文句を叩きつけたいぐらいだ。
 そんなぶつくさ言ってやりたい胸の内を一旦無にして、女に話しかける。

「お前さ」
「もー、いーやーだー!」
「嫌なのは分かったから。俺の話聞けって」
「へびなのに…へびのくせにぃー」

 その物言いに少々カチンときたのは事実だが、今はそんなことどうでもいい。とにかくこいつを泣き止ませて、ここから立ち去らせることだけを考える。
 涙を噴き出し、鼻水を垂れ流し、涎はさすがに飛び散ってはいないが、女はかなり水っぽくなっていた。湿っぽいとかそんな加減の物ではない。瑞々しいとかそんな物でも当然、全然ない。ただ汚かった。汚いものをまき散らしながら泣いていた。
 腫れぼったくなっているその瞼を見て、俺は呆れた。

「いい加減止めろよそれ。きたねえな」
「止めれるなら、とめてるわ、よ」

 それから俺は、延々と、またこの女の愚痴に付き合わされた。まずは日没までの三時間、更には月が真上を通り過ぎ、西の山の奥に沈み込むまでの十二時間。星の姿が薄くなり、空が白んできた頃にやっと、女を泣き止ますことが出来た。泣き止んだと言うか、泣き疲れて寝たというのが正しい。
 地面で爆睡する女をむざむざと放置する訳にもいかないので、俺は色々と集め――色々と言っても所詮は森の中にある物なので、必然的に枯草や落ち葉程度なのだが――即興の寝床を作ってやった。寝心地がいいとは到底思えなかったが、身一つで寝るよりはマシだろう。
 
 女の目が覚めたのは、昼過ぎになろうとしている頃だった。俺が沼の底まで潜水して体の乾きを潤している最中に、目覚めたらしい。俺が水際の浅いところまで近づくと、不思議そうな顔をして落ち葉を触っていた。
 そして、俺の顔を見ると同時に土下座をしてきた。額を地面に擦り付けながら、よく分からない難しそうな言葉をつらつらと並べ立てて、何度も何度も頭を振り下ろしていた。
 髪はぼさぼさで木の葉まみれ。化粧はぼろぼろで、ストッキングも伝線している。見っとも無い姿で土下座を繰り返す様子がおかしく、まるで米つきバッタのようだったので、思わず吹き出してしまった。
 
「くくっ、何回頭を下げる気だ。米つきバッタかお前は」
「ば、バッタじゃありません!蛍です、ほ・た・る」

 がばっと顔を上げ、俺の方をまじまじと見てくる。充血した目が痛々しい。

「蛍?なにが」
「私の、名前です。名前以外に自分の事を蛍だなんていう人間いません」
「俺人間じゃねえからしらね」
「ほぼほぼ人間じゃないですか。半分は蛇ですけど」
「蛇じゃねえ。…いや、まあ蛇だけどよ。俺にだって名前はある」
「名前!是非教えてくださいよー。今度お中元贈りますから」
「んなもんいらん。……俺は、那朽ミズキだ」
「なぐち、ミズキさん。では改めまして、私は姫野蛍です」

 口角をにっと上げて笑顔を作ってはいるが、完全に腫れ上がった瞼の主張が激しすぎるせいで、俺は吹きだしてしまった。

***

 そんな初対面から数年経った今でも、蛍は週末が来る度にこの沼に遊びに来ては、飽きもせず愚痴を吐き散らかしている。蛍が人間的に成長出来ているのかはよく分からないが、とりあえず最近の愚痴には、死にたいと言う言葉が出て来る事はなくなっていた。



×/戻る/top