はるかぜきたる

 ガタガタと木戸を揺らす風に、椿はうんざりしていた。今日一日中吹いていたというのに、夕方になっても一向に収まる様子がない。食堂を開け、せっせと働いていた時は特に気にならなかったのだが、いつものように三時過ぎに、一旦店を閉めてしまったのがいけなかったらしい。客がいなくなって静かになった途端、風の音や風が物を動かす音が気になって仕方がなくなってしまったのだ。夕方の開店に向けての仕込み作業にも集中できず、いっそこのまま店を閉めてしまおうかとも考える。
 いい加減止まないかしら、と椿はひとりごちた。
 ふと、食堂の入り口に置いてあるプランターの事を思い出した。朝の内に中に入れようと思っていたのだが、今の今まですっかり忘れていたのだ。
 椿は入り口の戸を半分開けた。外から勢いよく吹き込んでくる風に押されて、目を閉じてしまう。前髪はもちろん、結ってある髪も大きく乱されてしまい、椿は一瞬で不愉快になった。これ以上乱されまいと前髪を押さえながら外に出る。と、プランターの前でしゃがみ込んでいる人がいた。その男は、プランターの上で風に揉まれるパンジーに触れている。泥棒かと一瞬頭に浮かんだが、よく見るとその男の姿に見覚えがあった。
 食堂の常連の一人、蘆原エンカだった。エンカは突然開けられた木戸にびっくりしたのか、椿の方に目を向けてピシリと固まっている。パンジーの茎に手を添えたままの恰好で。
 少しの間無言で見つめ合っていた二人だったが、風の冷たさで我に返る。エンカは眼鏡の位置を整え、口を開いた。

「ああ、椿さん。こんにちは」
「こんにちは、って何してるんですか?」
「いやあ、風で飛んで行ってしまいそうだったから、なにかいい対策はないかなと考えていたんだ」
「対策?」
「この鉢を紐でどこかに括りつけたり、いっそ釘を打ち込むってのはどうかな。そうすればこんな風でも、飛んだり倒れたりすることはないと思うよ」
 エンカは笑顔でそう言った。一方椿は考えるような素振りをしてから。
「うーん。私が取り込めばいいだけなので、そこまでしなくてもいいかなぁ。固定するのって大変そうですし。……と言ってもついつい取り込み忘れちゃうんですよね、これ。今日も忘れてて、さっき気が付いたんですよ」

 椿はエンカの隣にしゃがみ込む。三十センチほどの長さのプランターには、土と花の重りが入っているのでそう簡単に飛びそうになかったが、確かにエンカの言うようにプランターごと倒れてしまうかもしれない。朝からこの強風にさらされているのに、まだ倒れていないのは幸運なのだろう。
 だが風に煽られ、今にも花と茎が千切れてしまいそうな花をみて、椿はなんだか申し訳ない気持ちになった。

「思いついた時に行動しないと駄目ですね。後回しにすると、忘れたときに後悔と罪悪感が……」
「え。だ、大丈夫だよ。見たところ茎が折れたり、千切れたりしていないようだし。今からでも中に入れてあげれば、大丈夫」
「そう、ですかね。ありがとうございます」

 椿は自分の右頬をむにゅりと摘んだ。そして何かを思いついたように手を離すと、エンカに向かって「エンカさんも一緒にどうですか?」と言った。
 一緒に、の意味が分からなかったエンカは、すぐに返答することが出来ずにいた。

「中でお茶でもどうですか?」
「お誘いは嬉しいけど、もうすぐ六時になるよ。ここの開店時間って六時からだろう?」
「そうなんですけど、なんだか今日は気持ちが滅入ってしまって。お客さん相手にお商売する気分じゃないので、このまま閉めようと思っててですね」
「適当だなあ」
「いいんです。私のお店ですし。それに、ここが開いてなくても他のお店は開いているでしょう?」

 椿は少女のような笑顔を浮かべてプランターを持ち上げると、さっと店の中へと入っていった。入り口から覗くように上半身を出し、エンカに向かって手招きをする。

「さっさとおいでな。風が入って寒いだろ」

 椿の後頭部からダミ声が漏れる。椿はその口――後頭部にある大きな口を、空いていた片手で塞ぎながら慌てて中に引っ込んだ。




**メモ**
椿の後頭部にある口は、椿とは別人格。



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