金木犀のお姉さん

 お姉さんと出会ったのは僕がまだ幼稚園に通っていた頃だ。
 家の庭には花をつけない金木犀が一株植えられていて、そのそばにお姉さんは立っていた。僕が指を差したり話しかけたりすると、両親は顔を顰めてやめなさいと嫌そうにしていたけれど、お姉さんが嬉しそうに笑うものだから僕はそんな注意を無視して話しかけ続けた。こうなると言っても聞かないと両親が一番分かっていたようで、次第に諌めることを諦めて、お姉さんに話しかける僕を呆れ顔で見るようになった。
 小学校に上がる年に、ようやくお姉さんが僕以外の人には見えないのだと理解したけれど、だからといって僕はお姉さんから距離を置くなんてことはなく、むしろ特別な友達なんだと誇らしく思えた。
 お姉さんが姿を見せるのは決まって秋口で、近所の金木犀が咲き始めると、お姉さんの季節だと僕は自然と思うようになっていった。
 お姉さんは僕のことを名前ではなく少年と呼んだ。お姉さんの名前を知りたくて何度も尋ねたが、聞くたびにはぐらかされて、結局中学生になったいまでも僕はお姉さんの名前を知らない。
 名前も知らぬお姉さん。お姉さんはいつもどこか得意げで、それが年上の余裕なのだろうかと小学生のころは思っていたのだが、最近僕は気が付いてしまった。お姉さんは自分に自信がある事柄を選んで話しているのだ。
 僕が勉強が分からないと言えば必ず話を逸らして、別のどうでもいいことを持ち出してくる。いつもお姉さんのペースで会話が入れ替わるので、たまにむっとすることもあったが、楽しそうに話すお姉さんの顔を見ていると、そんな気持ちはすぐにどこかに飛んでいってしまう。
 そんな見かけの割に子供っぽい性格を持つお姉さんは、結局のところ何者なのだろうかと考えた時期もあって、もしや金木犀の精なのではと夢のあることを考えてもみたが、そういう神秘的なものにしてはあまりに人っぽいので違うだろうとすぐにその予想をとりやめた。いくら考えても答えなんか出ず、本人に聞いてみたところで真面目な答えが返ってくるわけでもないので、僕はお姉さんの正体について詮索することを諦めた。まあ、お姉さんはお姉さんで、なんであっても僕の親しい友人なのだからその正体なんてどうでもいいのだ、と僕は中学最後の秋に投げやりな結論を出したのだった。
 ***
 私のことをお姉さんと呼び慕ってくれる少年の存在が、この空っぽな心をどれほど埋めてくれたのか想像に難くない。少年と出会うまで、私は空虚な存在で、ただ毎日、金木犀の天辺近くに漂い、晴れた日は空を行く雲を眺め、雨の日は葉を伝う雨粒を数え、風の日はしなる枝を憂いていた。この木にさえ触れないような存在であるのなら、だらだらと存在せずに潔く消えてしまいたいと年中考えていたような私に、少年は気が付いてくれたのだ。
 少年は私に語りかけてくれた。幼子の特有の高い声で、小さな手を私の方に伸ばして、たどたどしく、ふっくらと笑った顔が慈愛に満ちているように感じた。それらは私の存在を肯定し、朧だった私の輪郭を明瞭にしてくれた。どれだけ無意味な存在でも、私はここにいるのだと。
 あの日から私の思考はまるきり反対の方向を向いた。存在理由が分からないから何もしないのではなくて、存在理由が分からないのなら自分で見つけてしまえばいい。幸い時間は沢山ある。
 秋口から気温が下がるにつれて庭先に少年が顔を出す頻度が減っていったので、庭の紅葉が全て赤くなる頃に、思い切って旅に出ることにした。
 ふわふわと風に乗り、どこにだっていけるこの体の便利さを、その時私は初めて知った。様々なものを見て回り、いっとう楽しんで戻ってきた時には一年が経過していた。あちらこちら金木犀の甘い匂いに包まれていたので、私に染み込んだ噎せ返るほどの金木犀のかおりも上手く誤魔化せるのではと踏んだ私は、このときから、少年の前に現れるのは秋の内だけにしようと決めたのだった。
 一年越しの再会だというのに、少年は相変わらず私のことを慕ってくれた。成長するにつれて少年と交わす会話の内容は複雑になって、ときたま理解できないようなものもあったが、その時は遠慮なくお姉さん権限で素知らぬ顔をして別の話題にすり替えたりした。たまに不服そうな表情を浮かべることもあったが、私の巧みな話術にのせられ、そんな表情すぐに消し飛んだ。
 私はいつしか少年と――私の思い違いでなければ――友人と呼べる間柄になっていた。
 少年の感情は豊かだった。笑い悲しみ怒り悩み。日ごとに違った顔を見せる少年は面白く、どれほど話しても飽きなかった。年中ここにいたいとさえ思ったが、もしこの庭に常駐したとして、毎日少年が私と会話してくれる保証はなく、むしろ秋だけという限定的なものがあるから、こうやって毎日のように話せているのではないかという不安はあったし、なによりもこの私に染みついた金木犀のかおりが厄介で、年中この甘い匂いを振りまくわけにもいかない。このにおいの不自然さのせいで、もし正体を看破されてしまったら、どんな顔をして少年に会えばいいか分からなかった。なので結局、小心者の私は毎年、紅葉の季節に旅に出て、金木犀のかおりが充満する秋ごろに戻ってくるこの定期行動を辞めることができずにいるのだった。
 私の正体。少年には絶対に明かせない理由というのは単純明快で、私の印象を――秋にだけ会える幻想的な綺麗なお姉さん像を完膚なきまでに壊してしまうからだ。
 私は金木犀の精などという高尚なものではない。私は只の、浮遊霊だ。どうしてこの少年の庭にいるのかは見当もつかないが、こんな風になる前は人間であったことは記憶している。生前はなんの変哲のない人であったのに、死に場所が悪かったせいでこんな、金木犀を焚き染めたような匂いを放つ特異な幽霊になってしまったのだ。
 きっと私は何があってもこの秘密を少年に打ち明けることはないだろう。私の口は巌の如く硬いのである。
 ***
 わたしの場所を間借りしている幽霊さんは、とっても可愛らしい女学生さんなんだけれど、なんだかいつも退屈そうで、折角の愛らしさが台無しだわ、なんて勝手に心配していたの。そうしたらある日、この家の坊ちゃんに手を振ってもらって、途端笑顔が増えて一安心したのだけれど、ふいにね、とっても寂しそうな顔をするの。どうしたのって声をかけて揚げられたらいいのだけれど、わたしにはそんな高等技術出来なくて。
 だってわたしは人でも幽霊でもなくて、しがない植物なんだもの。植物が言葉を発するには大層時間がかかるのよ。わたしはまだまだ若輩者だから、相手の言葉は分かっても話しかけるなんてこと出来ないの。
 そうね、もしあの子に言葉をかけることができるなら、いの一番にありがとうって伝えるわ。あの子から漂う金木犀のかおりのおかげで、あの子が私の側に立つとね、まるで花を咲かせた気分になれて、それがとっても誇らしいの。たとえそれが偽物のかおりでも、とってもとっても、嬉しいの。


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