ほろよい月夜

 ハクさんのお店は、すっきりとした外観のお洒落なお店でした。壁は白と黒のツートンカラーで、店先には植木が並んでいます。なんだかお高めな焼肉店の外観に似ているなあとも思いましたが、口には出しませんでした。
 入り口近くには看板がそっと掲げられていました。居酒屋、蛇の目。黒い看板に白い筆文字でそう書かれていました。準備中と書かれた木の札をひっくり返し、ハクさんは私たちをお店に迎えてくれました。
 中はとても静かでした。開店直後のお店というものに入ったことがなかった私は、その独特の静けさに緊張してしまいます。
 外観とは裏腹に、店内は木目を基調としたデザインでした。至る所に吊り下げられたカンテラが内全体をやんわりと照らしていました。天井はもちろん、テーブルの端や棚の中で、その優しい灯が膨らんでいました。壁際にはとても大きな本棚があって、見たこともないほどにカラフルな酒瓶と一緒に様々な種類の本がみっしりと収められていました。
 私と久山くんがカウンター席に座るのを見届けると、ハクさんはするりとバーカウンター内に入っていきました。
 バーカウンターの隅の方には、見覚えのある赤ベコが飾られていました。先刻と同じようにばちりと目が合いましたが、恐れるに足りません。仕掛けさえ分かれば、ただのおもちゃにしか見えませんでした。
 ハクさんからメニュー表を受け取り、久山くんと一緒に眺めました。

「この、金木犀のお酒が気になります」
「飲み方はどうする?」
「折角なのでロックでいただきます」

 久山くんは、「湊さんって意外とお酒強いよね」と苦笑いしながらハクさんに注文を伝えてくれました。
 私は目を疑いました。注文を受けるハクさんの服装が変わっていたのです。先程まで着物をお召だったのに、一体いつの間に着替えたのでしょうか。白いシャツに黒いエプロンを装着し、まるでカフェ店員のような格好になっていました。なんだか店内の雰囲気と合っていないような気もしますが、ハクさんにはよく似合っていました。
 そんな事を考えながら待っていると、金木犀の甘い匂いをたっぷり蓄えたお酒と一緒に、赤い液体が並々まで注がれたグラスが私たちの目の前に置かれました。
 赤い液体。これはトマトジュースではないですか。まさかのトマトジュースの登場に、私はついつい首を傾げてしまいました。どうしてこのタイミングでトマトジュースを。いえ、トマトジュースを馬鹿にする気は毛頭ありません。ありませんが、てっきり彼もお酒を頼むのだと思っていたので、虚を突かれてしまいました。

「ど、どうかした?」
「え?」
「怖いぐらい真剣な目で見てたから、これになにかあるのかと思って」
「いえ、久山くんはトマトジュースがお好きなんだなあと思いまして……。美味しいですよね」
「トマトジュース? いやいやお嬢さんこれは、」
「そう、そうなんだ! 俺トマトジュースに目がなくて」

 トマトジュースに目がないといいながら、久山くんはハクさんを睨んでいました。こんな睨み顔、社内では見たことがありません。
 私は金木犀のお酒が注がれたグラスを手に取り、その香りを堪能しながら少しだけ口にしました。口の中があの甘い香りで満たされ、胃の中がじんわりと暖かくなりました。匂いだけでなくお酒自体もゆるりと甘くて、私はすぐに、幸せな酒気に包み込まれました。

「ふふふ。今とても秋を感じています。秋を凝縮したような黄色い幸せがこの世にあることを、私は知ってしまいました。秋に出会う幸せは、柔らかな黄色に染められているのですね。ふふ」
「あれ。もう酔ってるの?」

 それから、幸せな時間が訪れました。ハクさんが作られるお料理はどれもとても美味しくて、筆舌に尽くしがたいほどでした。友人と一緒にいた時点で満腹だったというのに、ハクさんの料理を前にすると胃に隙間が出来きるようで、難なく頂くことが出来ました。
 美味しいお酒を飲んで、美味しいお料理を食べて。なんて素敵な時間なのでしょうか。さすが花の金曜日。只今絶賛花盛りです。
 久山くんと私は普段会社ではしないようなお話を沢山しました。要領の得ない同僚だと思っていたことを正直に打ち明けて謝罪しますと、久山くんは笑って許してくれました。
 お酒も進み、二度目の満腹を迎えたころ、ハクさんが自家製のアイスクリームをプレゼントしてくれました。バニラアイスの隣には蜂蜜漬けのナッツが添えられています。アイスを一口食べると口の中に濃厚なミルクの味が広がりました。

「僕が言うのもなんだけども、ここは危ない場所だからもう二度と来てはいけないよ」
「そうだよ湊さん。もう二度とこんなところに迷い込んじゃ駄目だよ。今回はたまたま俺がいたからよかったけど、もし一人だったら」
「一人だったらどうなるのです? もしかしてこのナッツみたいに蜂蜜漬けにされちゃうとか? ふふふ、大丈夫です。そんなこと起こり得ませんので、ご心配なく」
「近いような遠いような、何とも言えない絶妙な例えだね」
「……ほら、夜道を女性が一人で歩くのって普通に危ないから。うん」

 夜道が危険と言われて私ははっとしました。……確かに夜道の一人歩きは、改めて考えるとあまりよろしくない行動だと言えます。

「でも私は、また来たいです。また来て、ハクさんが生み出す幸せを、この胃袋に思い切り、お腹がパンパンになるまで詰めたいです」

 私のわがままな言い分に、久山くんは眉間に皺を寄せていましたが、それとは対照的に、ハクさんはにこにこと微笑んでいました。

「ハクさんのお料理、とっても美味しかったです」
「だからね、湊さん。そうだとしても、ここは危険だからもう来ない方がいいよ」
「よし、今度からはリョウと一緒においで。それなら危なくないからね」
「は」
「ありがとうございます!」

 私は頭を下げました。久山くんには迷惑をかけるようで申し訳ないのですが、こんな素敵なお店にもう二度と来られないなんて考えたくもありませんでした。

「大丈夫だよ、リョウ。僕はもうこのお嬢さんを食べる気はないからね。人間の友人だなんてユニークだろう」

 とんでもない言葉が聞こえましたが、私は気が付いていないフリをすることにしました。恐ろしかったのです。だって人間の友人だなんて、そんな言い方を果たして人間の方が口にするでしょうか。もしかしたらハクさんの冗談かもしれません。ですが、もし本当だったら。

「そうだよ。僕は人間じゃない」

 どきりとしました。まるで心の中を見透かされているようで、私は身じろぎ一つ出来なくなってしまいました。ハクさんは笑顔のまま続けます。

「僕はヘビの物の怪だし、リョウは吸血鬼なんだよ。気付いてた? 彼、ずっとトマトジュースを飲んでいただろう。あれ、実はトマトジュースじゃなくて、人間の生き血なんだよ」

 ハクさんのよどみなく流れるような喋り方に、二人して唖然としてしまいました。久山くんは私の方を向いて、小さく「違う」と言いながら懸命に首を横に振っています。硬直している私を見ながら、ハクさんは声を出して笑い始めました。

「あはは。今言ったことはぜーんぶ冗談だよ」
「じょうだん、ですか」

 私は苦笑いを浮かべることしか出来ません。久山くんは両手で顔全体を覆い、深いため息を吐いていました。

「……ハク、頼むからもう喋らないでくれるかな。湊さん、今日は帰ろう。そろそろ三時になるよ」
「さ、三時ですか。もうそんな時間に」
「うん。俺もさっき気が付いてびっくりした。ヤヤモさんを呼んでくるから、湊さんはここにいて」
「わ、分かりました。……えっ、ヤヤモさん?」

 ヤヤモさん。まさか久山くんの口からその謎の言葉を聞くことになるなんて思いもしませんでした。ヤヤモさんとは一体どんな方なのでしょうか。私は締めのお冷を飲みながら想像します。
 その時です。私が急激な眠気に襲われたのは。呆気なく、ずるずると眠りに落ちていく最中に、太鼓の音が微かに聞こえてきました。ずるりと何かが這う音も。そうして私は。わたしは。

***
 目が覚めたとき、私は自宅の玄関口で寝そべっていました。昨夜あれから何があったのか。誰に送って貰ったのか、思い出そうとしてもちっとも出てきませんでした。


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