桜の下で
段々と声が大きくなっていき、最後に癇癪玉の破裂音のような特大の声を出した染井吉野は、名も知らぬ女によって抑えられた。背の高いその女は染井吉野を抱え込むようにして、耳と口を一度に塞いだ。私は驚いた。女の腕が三本あったのだ。右から二本。左から一本。ぎょっとしていると、柔らかに微笑みながら、左にもう一本腕を増やして、私に向かってひらひらと手を振ってみせた。
「すみませんね。この子、桜が咲く時期になると興奮しちゃって。人の話聞くために来たのに、毎回こんな風に自分のこと愚痴っちゃうんですよ。今時期以外は大人しくていい子なんですけどねえ」
「ちょっと白木蓮! 手を離しなさいよ!」
女の――白木蓮の手を無理矢理外し、言葉を発した彼女であったが、それもつかの間で、すぐにまた口を塞がれていた。納得がいかない様子で首を振って拘束を解こうとするが、白木蓮の力は強いらしく、緩まることはなかった。
「自分は分からなくはないですよ。桜に憧れ、死を重ね、ほんのり香る狂気を見出し、幻想を抱くお気持ち。桜って綺麗ですからね。それに、非日常感がとても強い。綺麗が過ぎると浮世離れしているように思えて、そこに畏怖だのなんだの感じるんでしょうねえ。情緒豊かな証拠です。咲き誇れば堂々とした夢のようで、舞い散る姿は潔く儚げで。それはそれは綺麗ですもの」
ゆったりとした口調の白木蓮に、私は好感が持てた。一方的に喋り倒し、挙句関係のない愚痴を披露する染井吉野とは大違いだ。
「ねえ聞いてるの? 白木蓮ったら!」
二度目の解放。しかしすぐにまた白木蓮の手によって口を塞がれる。潰れるような声を出した後、染井吉野は大人しくなった。
「自殺というものを私たちは理解し得ません。貴方の死に対する考えも、それを冒涜されたからと言って怒るお気持ちも。私たちにはいまいち理解が出来ないのです。人の考えは複雑で、私たちには想像し難い。ですので、理解が及ばないという短絡的な理由で、私はあなたの行動を否定することはしません」
「それは有難い。ならばこのまま――」
「ですが、この木にかかる迷惑は別です。正直なところ、あなたが徹している行為は、私たち木にとって非常に性質が悪い。先程これが申した通りです。濡れ衣で殺されるこちらの身にもなってくださいませ。出来れば八つ当たりなどという詮無いこと、早急にやめていただきたい、と言うのが私の意見です」
「無理だ。そんなこと。この苛立ちを自身の内で消化することなんぞ出来ん。こちらもさっき言った通りだ。私は器が小さいのだ。この無限に沸き立つ怒りは、あの野犬と同族である犬畜生どもに向けることでしか鎮められん」
「そうですか。それは、なんとも。……やるにしても少し頻度を下げていただけると、噂の質も変わると思うんですがねえ」
「ああそうかい。はいはい」
質よりもすっかり動かなくなった染井吉野の事が気がかりだった。まさか死んでいるわけではあるまい。桜の精が窒息死するだなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
「……ああ、これ以上話しても平行線のままでしょう。なので、また来ます。噂の質が変わるまで、不定期ではありますが、二人でここを訪れるとしましょう」
「ふん。何度来ても私の考えは同じだ。変わることはない」
「だとしても、私たちはここに来ます。何度も何度も、あなたとこうして顔を合わせましょう」
白木蓮は微笑んだ。それを見た私は、ほっこりとした穏やかな気持ちになるどころか、真反対の、不安や恐怖と言った感情に襲われた。背中にうすら寒ささえ感じる。久方ぶりの感覚に私は身構える。
「め、迷惑だ。もう来るな。私の考えは決して」
「私たちの来訪を迷惑だと感じるのであれば、あなたの胸の内にある不服不満を少しばかり削り捨て、せめて慎ましく化けて出るよう心掛けてくださいな」
白木蓮は私にぐいと近寄った。息がかかりそうなほど近い距離に、白木蓮の白い顔が迫る。何も言わずに私の顔を見ている。返事を待っているようだ。私は顔を逸らし、口籠りながら答えた。
「……善処は、する。だが期待はしないくれ。長年の習慣は、そうあっさりと改められん」
私の返答に満足したのか、白木蓮は一度だけ頷き、染井吉野を抱えたままその場から消え失せた。
私は一人ほくそ笑む。善処するとは言ったが改善を約束するとはいっていない。期待をするなと釘も刺した。習慣を改めることは難しいと明言した。嘘は言っていない。
そもそも、あの二人の正体こそ嘘なのではないか、と私は疑っている。もしかしたら妖怪や狐狸の類なのかもしれない。狐狸はイヌ科であるから、仲間からの苦情を聞いて私を化かそうとしたのだとしたら。可能性は零ではない。仮にそうだとするのなら、そんな奴らに丸め込まれ、私の行動を制限されて堪るものか。犬畜生の分際で小賢しい真似を。
私は桜の木を見上げ、悪質な妨害には決して屈しないと心に強く誓ったのだった。
**メモ**
きっと会うたびに染井吉野と喧嘩する。花の精だと証明しても、聞く耳を持たない。
染井吉野は戦争がトラウマ。
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