僕はカワウソじゃない


 三月の事である。僕はその日、季節外れの花見をしていた。季節外れの花見。花が咲いていない時期の花見。それはとっても無意味ですね、と裏葉ちゃん辺りに言われそうではあるが、僕はこの無意味な花見が好きだった。
 花が咲く前の、最後の準備期間。ほんの少し膨らみかけた蕾を見て、僕は春を想像する。遠足前の高揚感に似たそれを得るために、僕は毎年、この桜が密生している桜の園に足を運んでいるのだ。
 そうして僕は、不幸な事に、桜の園で雨にあった。曇天から落ちてくる雨粒は、次第に数が増えていく。僕は辺りを見渡した。あるのは当然桜の木だけだ。まだ花の咲いていない傘の骨のような桜の木々に助けを求めることなんてできない。僕はうろうろとその周囲を歩き回り、どこか雨宿りが出来ないかと思案していた。桜の園の外縁部に杉の木の群落を見つけたので、僕はその中にある一本の杉の下に滑り込むことにした。
 止む気配など一向にみせず、むしろざんざんと勢いを増す雨にほとほと困りつくしたころだった。
 一閃の、眩いばかりの紫電が空を走ったのである。それはどこかに落ちたのだろう。その雷光の後を追うように、僕の体を震わせるほどの爆音が森中に轟いた。僕は体が濡れることもお構いなしに、木の下から飛び出したのだった。
 僕は雷が苦手なのである。あの音を耳にするだけで、化けの皮がすっか剥がれてしまうほどに。
 僕の化けの皮は瞬く間に消滅した。皮を失い、元の姿へと戻る。人型から貂(てん)へと戻る途中でさえ、僕は恐怖に突き動かされるままに、足を止めることなくひたすら走ったのだった。
 裏路地を経由して知った道に戻ると、運の悪いことに知り合いの顔を見つけた。そいつは人型に変化し傘を差している。コンビニにでも行ったのか、ビニール袋をぶら下げて、僕の前方をだらだらと歩いていた。僕は今の状態――情けなくも化けの皮がはがれた状態で彼に関わりたくはなかったので、その場でじっとしてやり過ごすことにした。そのままどっかにいっちまえ、と思ったのが悪かったのか、草介は突如踵を返し、こちらへと寄って来た。人のよさそうな笑顔を浮かべている。相変わらず似合わない、と僕は後退しながら毒付いた。

「ほほん。梢じゃないか。こんなところでなにしてるの? そんなあられもない姿で」
「うるせえ」
「あはは、ごめんって。お前がそんな姿になった原因は分かっているよ。お前は昔から雷に嫌いだからね。こっちで人として生活をしているなら大きな音にも多少慣れたかと思っていたけど、僕の思い違いだったみたいだ」
「アレに慣れもへったくれもあるか。アレは生き物を驚かすために鳴っているんだ。アレに驚かないものは生き物ではない」
「はいはい。でも雷が鳴ると化けの皮が剥がれてなんにも出来なくなるなんて勿体ないよね。折角の貂なのに」
「知ったことか」

 雨に濡れそぼる僕に気を遣うように、すっと傘が差し出される。雨除けは有難かったが、僕は一刻も早くここから立ち去りたかった。だが草介は、そんな僕の気持ちを知る訳もない。

「朝霧所長の言いつけでね、桜餅を買いに行ったんだ。人使いが荒い人だよ全く。雨も降っているし、今日は邪魔しないでくれよ」
「邪魔なんかするもんか。僕も急いでいるんでね」
 そう言って逃げようとした時だった。
「先日の」
 僕の小さな背に向かって槍でも突き刺すように、草介は言葉を投げたのだった。覚えていたのか畜生。
「先日のお礼がまだだったよね」

 そこから散々な目にあった。僕の首根っこを掴んだ草介によって、僕は見るからに怪しい薬屋――誂えを見てそう判断しているだけなので、本当は違う店なのかもしれない――に持ち込まれたのだ。いくら暴れようと、貂の姿でいる限り大したことは出来ない。出来て屁をこくぐらいである。
 猿の干物の前で、まるで振り子のように揺らされる自分の姿を、僕は曇った手鏡越しに見た。唇を噛みたかったが貂の姿では出来なかった。
 草介は見るからに変わり者な店主に向かって、「カワウソは引き取ってもらえますか」と聞いた。僕は拳を震わせた。畜生畜生。なにがカワウソだ。カワウソと一緒にするな。僕は九化けを冠する貂だ。お前なんて八化けの狸のくせに!
 今すぐにでも人型に変化して、草介の頬を張ってやりたいところだが、それは上手くいかなかった。体がむずむずするのだ。苛立ちが、頭の先や指の先に満ちている。これでは上手くいくはずがない。
 なぜなら、余裕がなければ化けの皮を練ることが出来ないのだ。それを十二分に知っている草介は、わざと僕を追いに追い詰めているのだろう。僕の精神を苛立ちで満たし、変化する余裕を持たせないように。
 なんて性格の捻じ曲がった狸なんだろうか。こんな経立の風上にも置けない狸が、自分と同期だなんて信じたくない。しかし、僕が信じようが信じまいが、それは変えることの出来ない現実であるのだから、賢明な僕は早々に諦めた。
 有難いことに――なんていうのは間違っているのかもしれないが――草介の行動は全て冗談らしかった。さすがに元学友を怪しげな薬に変えようとか、干物に変えようとか思ってはいないようだ。草介は店内をひやかすだけひやかして、じゃあまた来ますと言って外に出たのだった。

「もしまたいたずらの限度を超えた迷惑行為を僕の周りでやったら、本当に売ってしまうからね。貂の毛皮は高いらしいし、売ったお金でいちごのタルトをしこたま買おうって思ってる。それが嫌なら、弁えろ」

 そう言うと草介は僕を解放した。ひらひらと手を振ってその場から退場する草介の後姿を僕は目で追う。
 草介の言うように、あれは限度が過ぎていたと我ながら思う。例え事故だったとはいえ、全面的に僕が悪いのだから草介の怒りは最もだ。正直申し訳ないと思っている。だから、謝罪文と菓子折りだって届けたのに。それでも彼は、今の今まで許してくれていなかったらしい。しかしこれで許してもらえたのかと言われると、自信がなかった。とりあえず、当分の間は大人しくしていようと思った。
 すると、雨が止んだ。と思ったのだが、どうやら違うらしい。見上げると傘があった。振り向くと、それが裏葉ちゃんの傘だと分かる。彼女は僕に合わせるように身を屈め、僕を傘の中に入れてくれたのだ。草介に首の後ろを摘まれていた僕の姿を見ていたのであろう彼女は、僕の首筋を労わるように、人差し指で撫でながら口を開いた。

「何をしているんですか。草介さんに捕まるなんて梢さんらしくないですよ」
「はは……」
 僕は裏葉ちゃんに事の顛末を話した。自分でも情けないと思う、と僕は言葉を結ぶ。
「情けないと言うより、単に運がなかっただけではないですか。もし私が梢さんと同じ目に遭ったとして、梢さん以上の対処ができるとは到底思えません」
 裏葉ちゃんは傘をくるりと回す。「雷が鳴った時、私は主様のところにいたので平気ではありましたが」と前置きをして。
「一人でいるときに雷が鳴れば、私も走って走って逃げるでしょう。そうしてそんな時に、不機嫌な草介さんに捕まってしまえば、私もまた狐に戻る余裕なんて欠片も抱けないと胸を張って言えます。……だから、むしろよくやった、頑張った、と自分を褒めてあげてはいかがでしょうか」

 僕はなにも応えなかった。納得が出来なかったのだ。僕の行動が間違っていなかったとしても、僕の運が絶不調だったとしても、こんな風に、裏葉ちゃんに醜態を晒してしまったのは事実なのだから。
 何も言わずに下を向いていると、裏葉ちゃんは濡れた僕を丁寧に抱えあげた。

「梢さんが褒めないのならば私が褒めてさしあげましょう。えらいえらい。よくがんばりました」

 くりくりと僕の額を撫でている裏葉ちゃんの優しさに、僕は一層自分自身の情けなさが際立つように思えた。

***
梢のやらかしは盗みをしたか、傷付けたかのどちら。梢と草介は悪戯を仕掛け合っている仲。喧嘩友達。



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