この世界に二人だけ



 春の陽気を微かばかり感じとれる三月の某日。その日は、卒業式の次の日でした。薄曇りの宵の中、ぼやけたような光を注ぐ月を背負うようにして、里枝は公園で友美恵を待っていました。前日の大雨のせいで、手入れの行き通っていない道路の至る所に水たまりが出来ていました。その水たまりを避けながら、友美恵は手を振り、里枝の方へ近づいて行きました。

「こんな夜に呼び出すんだもの。お母さんを説得するのに時間が掛かっちゃった」
「あのね、友美恵に見せたいものがあって…。どうして今夜じゃなくちゃ駄目だったんだ。ごめんね」
「ううん。もうすぐ里枝とは会えなくなっちゃうんだもの。気にしないで」

 友美恵の言葉を聞いて、里枝は最後の覚悟を決めることになりました。この時、友美恵が別の言葉を里枝にかけていたのだとしたら、あのような事にはならなかったのかもしれません。
 しかし残念なことに、里枝は友美恵と一緒に例の廃墟へと向ってしまいました。

 物事は予想以上に、里枝の算段通りに進みました。それは思いのほか簡単に、するすると流れる河川のように、一切滞ることなく、極自然に、里枝は友美恵を殺害することが出来てしまいました。余りに滑らかに事が運ぶものですから、まるで二人が産まれる前から、この状況が訪れる事が決まっていたと錯覚するようでした。
 土間に敷いた、毛布の上に倒れる友美恵を、里枝は呆然と眺めていました。呆気なかったのです。命を奪うと言う行為が、あまりにも軽く感じられてしまい、里枝は少しだけ、その手に握った鉈を、血に染まった鉈を、じいっと見つめました。
 冷ややかな土間の空気と、湿っぽい土の臭いの中に香る温かい鉄の匂い。自宅から持ち込んだ毛布に、じわじわと吸い込まれていく友美恵の血は、闇夜のせいで墨汁のように黒々として見えます。地面に乱暴に広がった髪は、まるで黒い炎のようでありましたので、その髪色と血色の黒さ、友美恵の肌とブラウスの白さが対照的で、それはそれは、色味の鮮やかさはないものの、目が眩むほどによく映えておりました。

 死んで尚美しい友美恵の体を、里枝は無心で眺めておりました。何分特が経ったのでしょう。何時間時が過ぎたのでしょう。それすら分からないほどに、時間を忘れ、里枝は友美恵を眺めていたのです。
 暫くして里枝は、友美恵の、肌理細かく生気のない青白い肌に触れ、彼女が確かに死んだことを確認しました。まるで月の光のように滑やかで、温度がないその華奢な手を、豆腐でも掬うように里枝はそっと持ち上げます。ほろりと崩れ落ちてしまいそうな肢体から、黒く酸化した血を丁寧に丁寧に拭き取れば、肌の透明度が幾層倍にも高くなりました。すっかり汚れをふき取ったころには、それはまるで白磁器のように見えました。余りの美しさに里枝は感嘆の息を漏らすしかありません。

 前日に降った大雨のせいで、水槽の中には雨水が溜まっておりました。数日を費やして、水槽一杯に敷き入れた百合の花は、すっかり雨水に濡れておりました。百合と百合との隙間を埋めるように、水が注がれていましたので、それはまるで大きな氷細工のようにも見えました。水面に無数の百合が浮かび上がっている様は、とても綺麗でした。百合が浮かんだ水槽。幾重にも百合が敷き詰められた水槽。その、白百合が犇めく水槽に友美恵をゆっくりと沈めます。友美恵の死体は重くはありましたが、そんなことは里枝にとって、些細なものでしかありませんでした。

 そうしてやっと全ての準備が整うと、里枝は水槽の縁に腰掛け、一抱えある黒い石を抱きながら、予め用意していた薬品を一息に飲み干しました。瞬く間に喉が焼け爛れていく感覚が里枝を襲います。噎せれば噎せるほどに喉が潰れていきました。息をする事すら満足に出来ない痛みに、里枝は涙を流しました。それは決して死にたくないなどと言う戯言から零れた涙ではありません。ただの、何の感情を持たない、生理的な涙でした。里枝の心の内を代弁するとするのならば、その涙は嬉し涙と形容しても殊更問題ないでしょう。里枝は死へと繋がるこの苦痛を、大いに喜んでおりました。愛しい愛しい友美恵は里枝の手にかけられ、もう現実にはおりませんでしたので、肉体から離れたその魂が、幻想世界に揺蕩う姿を思い描き、また、そんな魂となった彼女が、現在属しているであろう夢幻の空間に自分自身が溶けゆく現状を、ただただ、嬉しがっていたのです。
 
 ぐらり。倒れ込むように水槽の中へ落ちた里枝の横顔は悲しいほどに儚く、友美恵のように美しいものでした。割れた窓から差し込む真新しい陽光が、つうーと水面を泳いでは、次から次に水底へと落ちて行きます。きらきらと。きらきらと。朦朧とする意識の中でその光を感じながら、里枝は瞼を閉じました。

 この透き通る、初心で小さな世界には、貴女と私、二人だけ。

 里枝は心の中でそっと呟くと、吸い込んだ最後の息をがぼりと吐き出し、静かに静かに、僅か十八年の短い生を閉じたのです。


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