月光魚

 炎昼。風景が歪む暑さの中、深見邸に続く坂を上る女の姿があった。夏を煮詰めた青空と沸き立つ入道雲を背景に、時折転がる蝉の死骸を小石のように蹴飛ばしては、急傾斜の坂を悠々と歩く。
 坂の頂上。深見邸の敷地にまるで家人かのように遠慮なく立ち入ると、大きな声でクコを呼んだ。
 片側に垂らしたオレンジ色の前髪が、真昼の日を受け金色に輝く。対して前髪以外は黒色で、うなじあたりで束ねた髪はするりと細く長く、猫の尻尾を思わせた。
 少しして、ばたばたと走る音が家の中から聞こえ、クコが玄関の戸を開け現れた。
 女は柔和なまなざしでクコを見る。

「やあやあ。どーも」
「あっ、クロミケさん!」
「あらら、なんか邪魔しちゃったみたいだね。ごめんごめん」

 昼飯の調理中だったのか、クコは赤いエプロンを身につけた格好だった。だが本人は一向に気にすることなく、大丈夫ですお構いなく!、とエプロンの上からお腹を叩いてアピールしている。まるで狸のようだね、とクロミケが言うと、まさに狸ですから、とクコは誇らしげに答えたが、その自慢の腹が空気を読まずにぐうと鳴ってしまい、クコは気恥ずかしくて小さくなった。

「あら可愛い音。ぐうぐう」
「ク、クロミケさんのお洋服、今日も素敵ですね」

 恥ずかしさをはぐらかすために持ち出した服の話に、クロミケの目が光る。さっとポーズを決め、自信たっぷりな目付きでクコを見た。さあ褒めろと言わんばかりだ。
 白い袖なしのブラウスに、贅沢なほどボリュームのあるフレアスカート。腰の金色の大きなリボンと、裾をぐるりと縁取る金の刺繍が鮮やかだった。確かによく似合っている。
 クコが乏しい語彙力で素直な感想を伝えると、クロミケは心から嬉しそうに笑みを深め、得意げに言った。

「ふふん。そうだろう、可愛いいだろう」
「はい、とっても可愛いいです」

 クロミケはくるりと回転してみせた。ふわりと、花のように広がるスカート。覗くしなやかな白い足に、クコは思わずどきりとしてしまい、照れを隠すように手櫛で髪を整えた。
 上機嫌なクロミケは、自分よりも幾分か背の低いクコの頭を、子どもにするようによしよしと撫でた。

「今日は昨日の礼に来たんだ。あんなに卵が入ってるポテトサラダは初めて食べたよ。中々美味であったぞ」

 にんまりと笑うクロミケ。昨晩クコから貰ったポテトサラダの味を思い出しているのか、どこかうっとりとしている。一方クコは苦笑いを浮かべた。深見がたっぷりと拵えた、自立式卵の失敗作のおかげとは言いにくかった。

「お口にあってよかったです」
「たまに味わう手作りのあたたかさは、身に染みるねー」
「クロミケさんもたまにはご自分で作ってみればいいのに」
「やだやだ。面倒だもの。それに、私が好きなのは誰かの手作りであって、私の手作りではないのさ」
「もう、またそんなこと言って、」

 続く説教を封じるタイミングで、クロミケは塩入れのような小さな壺をひとつ、クコに差し出した。

「これあげる」
「なんですか?……ん、水?」

 そろそろと蓋を取ると中には液体が満たされていた。底が見えるほど透明で、水のようにも思えたが、水にはないとろみがあった。検討がつかず、はてこれはなんだろうかと首を傾げているとクロミケが教えてくれた。

「月光魚。うちで育ててるんだけどさ、増えちゃって。ポテトサラダのお返しにどうかなって。いらない?」

 月光魚。聞いたことのない響きだった。クコは誰に似たのか、その耳慣れない呼び名に惹かれた様子で、目をきらきらと輝かせる。

「欲しいです!」
「うん、よかった。世話らしい世話はしなくていいんだけど、こいつは月の光を食べるから、月の出る晩は外に出してあげて」
「はい!了解です!」

 クコは元気よく答えた。そわそわと壺を眺めていたが、我慢できず、クロミケに一言断りを入れたあと、その魚はどんなものかともう一度覗き込んだ。まるで壺の中に入ろうとでもしているかのように顔を近づけ、目を凝らす。しかし、いくら探しても見つからない。

「ところでその、クロミケさん。その月光魚って魚は見えないほどちっちゃいんですか?私にはちっとも見えなくて」

 クロミケは笑う。

「そりゃあ、今は真昼間で陽の時間だもの。日が落ちたらそいつも出てくるからさ」
「へぇー」

 クコは納得したように頷くと、壺の蓋をしっかりと閉めた。両手で大事そうに壺を包み込むクコを見て、クロミケはほっこりした気分になった。
 クロミケは自身が行っている飼育方法をクコに教えてあげた。月光魚の飼い方は植物の世話の仕方とよく似ていて、手頃な鉢に水と月光魚を入れ、月の出る晩は月光をたっぷり浴びさせ、代わりに太陽の光には出来るだけ晒さない、というものだった。更に聞けば、月光浴は毎日でなくても良いし、浴びる時間も最低二三時間ほど、直射日光に当たらなければ日中でも外に置いていても良いらしい。多少ずぼらであっても大丈夫そうな飼育手順に、クコはこっそりと胸を撫で下ろした。

「ふんふん、なるほど」
「私は睡蓮鉢に入れて日が当たらない場所に置きっぱなしにしてるよ。外に出したり中に入れたりするの面倒だし」
「ほうほう」
「鉢の大きさで体の大きさも変わってくるから、そうだなー、これっくらいの鉢に入れとけばちょうどいいかな」

 手で40センチぐらいを表し、そんな鉢があるかどうかをクコに尋ねる。確かに納屋に使われていない睡蓮鉢があったはずだ。少し大きい気もしたが、大は小を兼ねるだろうと、クコは大きく頷いた。



 夕方、赤く熟れた太陽が山の端に落ちていく時間に、クコは納屋を漁って中から睡蓮鉢を引っ張りだした。想像以上の大仕事で、まず睡蓮鉢を埋めるように積まれたガラクタを片付けなければならなかった。
 こんなことなら日頃から綺麗に整頓していればよかった、いいやそもそもガラクタを捨てない深見さんが悪いのではそうだそうだ、と不満がむくむくと膨れていったが、睡蓮鉢を納屋から取り出せた時の達成感で、単純なクコの不満袋は、破裂する前にどこかに飛んでいった。
 群青色の睡蓮鉢を洗い、言われた通りに日中は縁側の庇と南天の葉で日陰になる場所へときちんと据える。水を溜めるとそれだけでなんだか涼しげだった。
 さっそく月光魚を鉢に放そう、としたタイミングで深見が帰ってきた。なんて間の悪い。クコは仕方なく出迎えに行き、帰ってきたばかりの深見の手をぐいぐいと引きながら、早口に昼間の出来事を伝えた。深見は困ったような顔をしてクコにされるがままについて行く。
 鉢の所まで連れてくると、見ていてください、となぜか得意げにして月光魚を鉢に放った。とぷりと、壷の中身が水へと落ちる。水面に大きな波紋が広がった。しかしそれらしき魚の姿は見えない。クコはしゃがみ込んでなにか変化がないか観察する。しかし、次第に波紋も収まっていき、出来上がったのは静かに水が満ちている睡蓮鉢。
 あからさまにがっかりするクコを深見が慰める。

「月光魚とは面白いものを貰ったね」
「あれ深見さんご存知で」
「昔飼っていたんだよ。この鉢でね」
「そうだったんですか」
「この子たちは夜が深まれば深まるほど姿を濃くしていくから、今ぐらいの宵じゃ足りないんだよ。時間が経てばはっきり見えるようになるから、それまでの辛抱だ。ああ、それに今日は満月だからきっと綺麗だよ」
「……本当に?」
「あ、信じてくれないんだ」
「深見さんって意外と嘘つきですから」

 クコは気を取り直したようすで睡蓮鉢の側から離れた。どうやら宵が深まるまで放っておくことに決めたようだ。

「よしっ、ご飯食べましょ。今日の晩ご飯はじっくりコトコト煮込んだ豚の角煮ですよ。こってりやわやわで、トロトロつやつやてりてりで、一切れでお茶碗一杯いけちゃうぐらい美味しいんですよ」

 名残惜しさを断ち切るように言うと、クコは小走りで台所へと向かっていった。

 ***

 風呂上がりのアイスを食べながら、のんびりと過ごしていたクコに深見が声をかける。ほらほらと指さす方を見れば、ぼんやりと何かが光っていた。
 光は手のひらほどの大きさで、すーっと宵闇の中を滑るように移動している。よく見ると光は魚の形をしており、たおやかな尾鰭をゆっくりと動かして、まるで魚が水中でするように泳いでいた。月光を浴び、鱗一枚一枚が満月のごとく煌々と輝いている。月光魚の航跡は光が帯を引いたように揺らめいて、それは心奪うほど美しかった。

 月光魚の姿を初めて見たクコは感動を通り越し、ひゃあああと奇声をあげたのだった。




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