浮き玉

 窓から吹き込む朝風の涼しさが、いつの間にか冷たく感じられ始める初秋のこと。
 クコは聞き覚えのある歯切れの良い声に起こされた。寝ぼけた頭には内容までははっきりと入ってこないが、なにやら深見と話しているらしい。時計は六時少し前。この時間帯と深見の楽しそうな声が、来客が何者なのかを示している。行商人だ。
 またモノが増えてしまう鬱陶しさと、今度は何だろうと考えてしまう好奇心と、ほんの少しのわくわく感が綯い交ぜになったクコは、夏用の薄い掛布団を抱え込み、敷布団の上でごろごろと寝返りをうった。
 部屋の窓から玄関先を見下ろすと、やはり予想通りの二人がいた。深見と鬼山(きやま)がそれはそれは楽しそうに話している。二階にまで聞こえる盛り上がり具合を見てクコはまたかと呆れかえった。
 赤鬼の鬼山が持ってくる商品は、他の行商人が取り扱うものと比べて危険なものが多い。死にはしないがやり方次第ではどうなってもおかしくないような品を平気で売るので、クコは鬼山のことを穿った目でみるようにしている。今回も疑いの眼差しで鬼山を見ていると、朝日を受けて鬼山自慢の金の二本角がきらっきらっと光を反射し、クコの目に直撃した。眩む目を擦ると今度は睨めつけるように鬼山の顔へと視線を飛ばす。
 口角をギッと上げ、目をキラキラと輝かせた鬼山の顔は、誰がどう見ても胡散臭くてたまらない。そんな鬼山から商品を受け取った深見を確認したクコは、「あーあ。また何か買ってる」と足早に着替えて居間へと下りていった。

 ちょうど室内へと戻ってきていた深見に向かって、クコは朝の挨拶ではなくお小言を口にした。

「まーた変なもの買って!」
「変じゃないよ。面白いもの」
「私にとっては面白くないですー。変なものですー。もうっ、片付かなくて大変なんですからね」

 ぷりぷりと頬を膨らませ文句を言うクコ。深見はそれを見ないようしながら、そそくさと座卓についた。クコに背を向ける格好で座り、先程手に入れた品を矯めつ眇めつ眺めている。クコはクコで、何を買ったのだろうと気になっているが、自分から声をかけるのも嫌だと思ったので黙っていた。月光魚の住まう睡蓮鉢をちょいちょいと指でつつき、深見から声が掛かるのを耳をそばだてて待ってきると案の定、ねえねえと声を掛けられたので、クコは平静を装いつつ気持ち素っ気なく応える。

「なんだと思う?」
「知りませーん」
「飴をね、買ったんだよ」
「飴ですか?」

 飴という言葉に引っ張られるようにクコは、のそのそと近寄って深見の手元をのぞき込んだ。手のひらサイズのねこ瓶には、飴玉がいくつも詰められていて、その可愛らしさにクコは口許を抑えて嬉しそうな声を漏らした。

「ひとつあげようか」
「え!いいんですか?」

 先程までの嫌悪はどこかへ飛んでいったらしく、クコははしゃいだ声を上げる。さっと両の手を出して、いまかいまかと飴を待つ。それを見て深見は、単純な子だなぁと思ったが、もちろん口には出さずに飴をひとつクコの手に置いた。
 淡い七色の光が揺らぐように色を変える、まるでシャボン玉のような不思議な飴玉だった。表面にまぶした砂糖のざらざら具合がまた愛らしい。
 クコはにこにことお礼を述べて、ひょいっと飴を口へと運んだ。ころり。ぱちん!

「ひゃっ!」

 口に含んだ瞬間、飴は弾けて消えてしまった。口の中で破裂したその驚きと、自身の体かふわふわと宙に浮きつつある驚きが合わさって、クコは目いっぱい混乱した。わっわっ、と手をばたつかせてなんとかバランスを取って浮かないように頑張るが上手くいかず、そうこうしているうちに足が畳から離れていく。「ぎゃあ」とカラスの悲鳴みたいな声を出して、クコは空中に浮かび上がってしまった。

「な、なんなんですかああああ!!?」
「浮き玉。文字通り、浮くんだって」
「はあああ!??」

 忍者のように天井の隅に張り付く格好のクコ。深見は申し訳ないと口では謝っているが、どうにも顔から笑みが取り除けず、終いには噴きだしてしまいクコの怒りを買う。

「あーもう!!どうにかしてくださいよ!深見さん!」
「ごめんってば……ふふっ」
「思ってない!悪いって思ってないこの人!!」

 びしっと指をさせば、支えが不安定になりくるりと回転してしまった。慌てて体制を整えるがなかなか上手くいかず、終いには手足で踏ん張ることを諦めたクコは脱力し、室内で手放した無抵抗な風船よろしくぷかぷか浮いている。

「もー!深見さんも食べてください!」
「いやです」
「そんなの通じません!」

 ばたばたと宙をかいてみるが進まず。試行錯誤を繰り返すうちに、壁を軽く蹴り出してみれば、水中と同じように前方へと真っ直ぐに進むことができると気がついた。何回か失敗しながらもその遊泳術を習得したクコは、えいっと壁を蹴って深見の首を両腕で掴まえた。

「うわっ」
「やった!」

 首を中心に、ぐるりとフラフープのように回ったクコは深見の手から飴の入った瓶を奪取した。そうして奪い返されないよう胸に抱きかかえて再び天井近くまで浮き上がる。返しなさいと深見が手を伸ばしても、どや顔で少し距離をとりあっかんべーをかます憎たらしさ。
 ひとつふたつと瓶から飴を取り出して、深見の口を狙い放って見るが入る訳もなく。ふわふわと漂いながら次の策を練っていると、表で声がした。と思ったら戸が開く音。続けて廊下を歩く音。

「ちーっす。クコいるかー?」

 平然とした顔でずかずかと家の中に上がり込んできたのは、犬崎玄(けんざきげん)だった。短い髪を無造作にかきながら現れた玄は天井に背をつけ浮く幼馴染の姿を見て、はたと足を止め怪訝な顔をする。

「お前何してんの?」
「げ、げん兄こそこんな時間になに」
「母さんからこれ持っていけって頼まれたから」

 提げていた袋を前に突き出すようにして二人に見せる。袋には様々な種類の野菜がいくつも入っていた。
 どうしてクコが浮いているのか深見が事のあらましを説明すると、玄はふうんと腕を組んだ。そうしてクコを見上げて。

「ふっ」
「鼻で笑わないでください!」
「そりゃ無理だろ。笑う笑う」
「ぎゃっ!やめて、写真は、写真だけは」
「ほりゃ」

 携帯でクコの姿を撮った玄は、本人の携帯にその写真を送り付けた。手元に携帯がないクコだったが、長年の経験からやりそうなことは把握しているので画面を見らずともそれが分かった。不快そうに眉根をぎゅっと寄せて声を荒らげる。

「いりませんよ!というか消してくださいよね、それ!」
「母さんにも送っとこ」
「やーめーてー!」

 その後も揶揄ってくる玄の態度に我慢出来なくなったクコは、会得した遊泳術で今度は玄の首元にしがみついた。仰天し大きく開いた玄の口に、クコは素早く飴を投入する。ころん。ぱちん!
 玄の体が宙に浮く。浮立ての時のクコと同じようにじたばたと手足を動かしてなんとかしようと足掻くが、クコよりも体が大きいせいかなかなか上手くいかない。そうこうしているうちに天井に頭がぶつかった。窮屈そうに首を曲げ安定を図る玄を見て、今度はクコが笑い出す。

「ばーかばーか」
「くっそ!」
「難しいでしょー!私を馬鹿にした罰です」

 じたばたと藻掻く玄を尻目に、浮遊歴が長いクコはすいすいと自在に移動していく。お返しとばかりに近寄っては揶揄い、反撃をいなしてはほくそ笑む。
 しばらくして、宙に慣れた玄とクコの追いかけっこが始まった。けして広くはない室内で、天井畳すれすれを行き交う縦横無尽、手加減無用の真剣バトル。体力を推進力に変え勢いよく飛び出す玄と持ち前の柔軟性でひらりと回避するクコ。時折建具や壁にぶつかるが、それがさらに二人をヒートアップさせた。がるがると牙を向くうちに口が裂けていき、すっかり冷静さを失った二人は生来の獣の姿に戻ってしまった。
 二匹はさらに激しく追い回す。宙で互いを追う犬と狸。その様子は見ようによれば仲良くじゃれていて可愛らしいが、被害を受ける家主からしてみればそんな悠長には構えられなかった。いつ障子を襖を破られるか。電灯を家具を壊されるか。気が気ではないが、元はと言えば自分が原因なので仕方がない。
 深見は疲れた顔をしてあるところに電話をかけた。

「もしもし、鬼山さん?さっき買った飴のさ、効果ってどうやって消えるの?えっ、十二時間?そんなにかかったら家が持たないな……。せめて効果を緩和させる対処方とかって、あっ、ちょっと待って。メモするから」

 障子が破れる音を耳にしながら、深見は鬼山の言葉を聞き逃さぬよう真剣にペンを走らせるのだった。


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