色鉛筆/ヒースの丘
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 若芽のちらほらと顔を覗かせる、のどやかな眼下の里の風景を眺めながら、少し昔のことをハナビは思い出していた。
 子供の頃、一度だけ祝い事を自粛したことがあった。里が復興の最中であったことにも加えて、姉が大怪我をして療養中であった。
 嘗ては甚大な被害を受けたこの場所にも、いつの間にか豊かな木々が茂っている。季節の花が色とりどりに揺れている。
 ハナビはいつも知らないでいる。何も知らずに、前を往くネジとヒナタの姿を必死に追っていた。




「ハナビ」

 まさに今、きっと聴きたかったのだろうその声はハナビの心に染み入るように響いた。
 白いワンピースに風が通ってふわりと膨らむ。その間に、足元に敷き詰められた薄紅色を踏まないように、ゆっくりと側までやって来たその人は、17歳になったばかりのハナビの表情を解いた。
 少しは背が伸びたと思うが、未だハナビは体格の良い従兄を見上げる格好だった。途中で誕生日会の席から抜け出していたハナビを、ネジはその眼で少し気遣うように見つめて、ゆるりと微笑んだ。

「疲れたか?」
「ううん、そんなことない」

 下から風が吹き上がって薄紅の花が盛大に擦れ合う。靡く黒髪を軽く押さえながら、ハナビはネジと一緒に緑が次第に濃くなりつつある里を見遣る。
 通りを駆け抜ける子供の背を押す、またはいたずらに花の命をおびやかす無実な青嵐に。微笑ましく目を細めるハナビを、見守るネジはこの上なく穏やかな表情だ。

「少し、気が早いと思うのだが……」

 ……手を。おもむろにそう言って、突如贈り物を仄めかすネジに、ハナビはぽかんとした視線を戻す。だが、ネジからはまだ貰っていなかった。気付いて期待感に破顔すると、言葉に導かれて両手いっぱいのものをネジに強請る。ネジは苦笑しながら、ハナビの左手だけを選び取ると、上着の内側を探って銀色に光るものを取り出した。

「……今はまだ、形だけのものだが……きっと、大人になったら。だからその時まで」

 ハナビの指に、静かに嵌め込まれたリングに。眩しい陽射しを品良く反射するそれを見つめて、ネジは未来の約束をした。今はまだ叶わなくとも。この先の曲がり角で、ハナビが追い付くのを、ちゃんと待っている。
 ネジの手が離れて、そっと目の前に戻した手元に、ハナビはまじまじと視線を送る。夢と現実の狭間で、揺蕩うハナビは呆けたようにネジを見上げた。

「私で……良いの?」

 昔からのあどけないその様子にネジは眉を下げて、困り果てた笑みを浮かべた。

「貴女しかいないんだが」

 それともオレでは不満でしょうか。懐かしい口調でハナビを窺う優しげな瞳に、ハナビは微かに、微かにかぶりを振る。
 風を孕んだ白い袖が伸びて、いつしかハナビはネジの腕の中にいた。修行中も、幼い頃背負ってくれた背中も、逸れぬようにときどき繋いでくれた手も。ネジはこんなにもハナビの近くに居た。気付かぬうちに従兄として見れなくなってしまったのはハナビの我が侭だったのかもしれない。
 ハナビが頬を預けるこの胸元には、大きな傷跡が刻まれている。思いを巡らせては、これまで幾度も、人知れず心底で迷い躊躇ってきた。
 いつかの日、姉を守った大きな勲章を、ネジが命を賭して守り切ったそれ以上の存在に、この先ハナビはなれるのだろうか。
 心地良い心音に重ねた、銀色の光に濡れる指先を、ネジにそっと握られた。ネジはその見えない答を、ずっとハナビに示してきた。
 不安ならばカタチにする。孤独に苛まれるなら約束を。今見つめ合った、その眼は、真っ直ぐにハナビを選んだのだから。


――病める時も、健やかなる時も、いつも貴女を想い、助け、生涯……お側にいることを。
 ネジが白い眼を開けて、その先をハナビの瞳に映した。
 仮初めの婚儀。花嫁の生誕祭。釣鐘型の花たちがその何方にも祝福を贈るように、一斉に揺れた。

 手を重ね合って、やっと小さく頷いた笑顔を見届けて、ネジは白い額にキスを贈った。




ヒース/【孤独・寂莫・謙遜】




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