勝者の行進
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「ダンデに嫌われたかもしれない……ですか」

 助けてください、とスタジアムを出たあたりで縋りついた時すでに、元ジムリーダーの青年は本当のところ嫌な予感がしていたのかもしれない。
 挨拶を向ける余裕すらないアポ無し訪問者に、全く以て訳が分からないだろうに、その悲壮に暮れる姿に多少気が差したのか。しょんぼり頭をなだめつ、とりあえずは見放さずに少女を近くの広場へと案内してくれた。
 ベンチを見つけて、それぞれが腰かけるのを見計らいいま一度たずねる青年は、うつむく少女の唇の動きを今度は模倣するようにたどる。
 何がどうしてどういう流れでそんなことが起こるのか、と。きっと冷静な頭の中は突拍子もないユウリの言葉に混乱を増している。けれどぽかん、と思考を奪われているような微細な変化は束の間だった。こちらを見下ろす曇りがちの瞳は状況証拠、できたら客観的に見た事実に判断を委ねたいようだ。

「話が見えねえです……何があったんです」

 おだやかな語調にため息をひそませて、長丁場の予感に気後れしているのだろうか。項垂れているのか元より猫背なのか、すでにその風貌からは幾何か疲れが読み取れる。ただ見方を変えれば、これは自分より年頃の少女の悩みに、根気よく付き合ってやろうという密かな覚悟のようである。
 こうした言動のひとつひとつに、彼がつぶさに人を見ていて、本来情深い性質だということが分かってくる。だから、ユウリはこの時ネズを選んだのだろう。
 気の済むまで耳を傾けようというネズの寛大さに甘えて、ユウリはここ数日間のことを振り返る。

 何だかよそよそしいというか、から元気というか。近ごろダンデにそのような印象を感じている。
 ホップやソニアと繰り広げる皆の掛け合いは見ていてとても楽しい。だけどダンデは笑いたくないのかもしれなかった。ユウリに対しては、本音では距離を置きたいのだろうかとさえ。そんなことを勘繰るくらいに、状況や立場が一変してしまった。
 ユウリがダンデの場所を、奪ってしまったからだ、と。
 自らの深い深い意識の根底でユウリはそう気づいてしまった。

 嘗てダンデが背負っていたチャンピオンという存在は、ユウリの中でとても重く、揺るがなかった。心の中にある重厚なその椅子に対峙したまま、未だユウリは座ることができないでいる。
 今まで築きあげてきた彼の誇りを。ガラル中に慕われる町の英雄を。偉大な歴史を自分の手で作り変えてしまったーーそんな途方もない思念が、まるで責めるように自分自身に切先を向けつづけるのだ。

「それは……多分考えすぎだと思いますが」

 目蓋の裏の暗幕に覆われて、じっと身を置くユウリは、ネズの声にはっとする。
 ユウリに向けられた鋭い刃先を、誰かの手がそっと押さえてくれているような感覚だった。
 もうこれ以上苛まれなくて良い、どこかそんな意思を持つ手によって、ユウリを痛めつける尖った感情が、ゆっくりと離れていった。
 ネズにどこまで話したのだろう。途中から気持ちが昂って周りのことが見えなくなっていた。
 周囲の喧騒が戻って徐々に落ち着きを取り戻した。二人のいる広場はまだちらほらと人が往来しており、先刻よりも夕空は色濃く染まっている。
 少し涼しい風が吹いて、重たげなネズの前髪を揺らしていく。無彩色な風貌は夕景につつまれても青く冷ややかであり、無口だ。

「ポケモンバトルに勝つことって、悪いことですか」

 ポツリとおとされたその問いに、反応を見せる前に、家路へと向かう人影が幾つも二人の前を通り過ぎた。ややもすれば眩しくもある夕陽が、チラチラとその合間に見え隠れする。慌ただしい明滅はその怜悧な横顔にも現れていたが、ネズは構わずただ一点を見つめていた。

「極端な話ですが……きみの理屈に合わせるのなら、ダンデに気を使うべきだったと。きみはきみのポケモンたちに、手を抜いて戦えと、そう、言うんですか」

 白い輪郭に淡く橙をにじませて、ネズが視線を差し向ける。
 優しく語りかける声、ひとつひとつの言葉がユウリの肌を震わせて……次第にその脳を揺り動かしていく。きみにとって本当に大事なことって何ですか。今あるもの、今までずっとそばにあったもの。ネズは気長に見守る姿勢で、睫毛を伏せた。

 あのままダンデがチャンピオンの座に就いていたら全てが「予定通り」だった? 彼は英雄のままだった? 
 自慢の兄を持つホップは飽くことなく深紅のマントを追いかけ続けていたーー?
 ユウリは奮然と首を横に振った。
 それでも。仮令そうだとしても。今いる自分を否定する理由にはならない。ポケモン達と共に旅して進みつづけてきた、これまでの道程に恥じるようなことは何一つしていないから。
 あの試合、あの時持ち得る全力でユウリはダンデに挑んだ。ユウリを信じその気概に呼応して、勇敢に立ち向かってくれたポケモン達がいた。その最高の旅路の果てに、何をためらうのだろう。頑張ったポケモン達も自分自身も、受け入れていなかったのはダンデではなくユウリの方だ。
 ユウリの瞳に光が戻ってきた。今ネズを真っ直ぐにとらえるその意志の色は、故郷で会ったあの日、初めてダンデが見つけたものだ。
……ですよね、と今それを見届けて、人がワルい笑みを浮かべるネズは、おそらく満足する反応を得たのかもしれない。

「なら、ダンデをもっと信じてみなさい……彼はそんなことで恨みもつような、小せえ野郎じゃねえですよ……勿論、きみに敗れたこのおれもですよ」

 気が抜けたのか、均整のとれた眉目が人間らしく和らいだ。さらには戯けたように自身の敗戦の話も持ってくるから、つられてユウリも頬を緩める。もちろん心得ている、そんな風に目で返せば、ネズの笑みが一段と深くなる。
 おどろくほどに、ネズは自らの立場もプライドも何も背負わない。尤も彼は、自分が引き継ぎ守ってきたジムリーダーという肩書きを、拘りなく後継に譲ってしまったところだ。

「きみと、きみの育てたポケモンに敬意を払っている。今まできみに敗れた奴らはきみという目標がもらえたし、課題や気づきを得る者もいたでしょう。だから……ユウリと戦えて良かったと。元チャンプは多分そう思ってますよ」

 きみはそんな存在ですよ。そう告げるネズの背景がいつの間にか青みがかっている。
 頭上には橙の雲と夜の薄青のきわやかに混ざりあうさまが広がっていて、黄昏に向かう束の間の時を色どる。ネズは少しばかりユウリを買い被っていないか。あまりに現実味のない光景だった。子どものえがく空想のように。
 返答につまって、照れ隠しをするユウリの心理を内心で察しているのだろうか。ユウリへと注ぐ静かな眼差しはそれを明かさないし、何も聞かない。ただあどけない表情をいたずらに追い詰めるのをやめて、ネズは視線を空に投げた。
……奪ったのではなく、その椅子は勝ち取ったものなんですよ。正正堂堂と。だからきみは何も気負うことはねえですよ。
 幻想的に移ろう空を見ながらそんな言葉を聞いていた。ユウリの方こそ肩の荷が降りたのか、或いはその声がまるで、絵本を読むような優しさで。次第に鼻の奥が苦しくなり芸術的なグラデーションがぼやけていった。肌を撫でる風がひやりと目に沁みる。
 大丈夫。今度ダンデに会ったら、元気よく挨拶して、またいつか手加減なしのポケモン勝負をしてもらおう。

 立場はさまざまだが、ポケモントレーナーとして在りつづける限りは、負ける時の悔しさが常に付きまとう。しばしば大きな経験の差、年齢差だって彼らは飛び越える。
 だけどあの純粋な心根を持つホップの兄は、皆で強くなるという自身の夢を、次代に託したのかもしれない。ユウリをそんな存在だと。こんな自分を認めてくれていると。胸の中でなら、ネズがそう言ってくれるのなら、思っていても良いのだろうかーー。

「それで悩みは解決しましたか」

 ネズの声に意識がゆっくりと引き戻される。美しくうつろう空の下にいる自分。隣にいるネズは相変わらず背を丸めて単調な態度だったけど、これまで文句も言わずに日没にいたるまでユウリに付き合っている。
 その、一定を保っていた完璧な余裕が消えた。
 ひっそりと息を呑んで、いたわるような目元がユウリを見つめる。

「……もしこの先、きみに負けたことできみを恨むような輩が出てきたら……しょうがねえですがおれを呼んでください。我がスパイクタウンに招待して、盛大にもてなしてやるですよ」

 涼しい夕風にまぎれて、ネズの穏やかに紡がれる声が耳に届く。
 何だかウキウキなことを目論むような、頼もしいネズでもあった。だけどどこか遠くを見ている。ユウリの気づかないところに気づいて、まるで知らないふりしているかのように。
 この先決して足を止めて振り返らぬように。自分の道をただ信じて進むように。
ーーいいですか、きみにはおれがついています。
 これはネズからのそんな力強いエールだ。

「不思議そうな顔してますね……面倒事には、首を突っ込みたくなるんですよ。まあそんなこと、本当はなければ良いんですがね」

 だからそんな風に独りで抱え込まないで、すぐ言うように。何か重要な言葉の数々を呑み込んだような横顔は、前髪にすっぽりと隠されて、それからユウリを見なかった。
 きっと涙をかかえて赤くなった少女の瞳を、それ以上ふるわせぬために。
 ネズはさて、と何事もなかったように話を切り上げ、立ち上がった。

「ではユウリ、そろそろ帰りましょうか。冷えてきますんで……」

 短い上着ははたして保温の用を成すのか、今日もほっそりと締まった腰のラインを晒すネズは、立てた襟の中で首を竦めている。たしかに海が近いので風がよく通るようだ。もしかしたら、ずっと寒い思いをさせていたのかもしれない。ネズが背中を向けている間に、じわりと湿った目元を急いで拭って、ユウリもつづけて腰を上げた。
 この時間となると、空飛ぶタクシーもフル稼働だ。もう待機所にいた大半は出払って、または残り少ないタクシーを拾う人や、その戻りを待つ人の姿が見られた。
 そんな光景を見て拾うのを諦めたのか、取り敢えず歩き出したネズの後を、遅れてユウリもついて行く。

「少し歩いても大丈夫です?」

 肩越しにそう問いかけるネズはどうやら駅に向かっている。ここで不確定な「空車」を待っているよりも合理的だと、ユウリは自然と頷いた。もとよりユウリに拒否権などないと思う。そんな立場ではない。スタジアムを出た後のネズにどんな用事が入っていたかは分からないが、ユウリの突撃が入っておそらく予定を狂わせた。寧ろ帰りの乗車券くらい支払う心意気だ。
 近代的で巨大なシュートシティ、上空を走るモノレールに沿って歩き進めると、遠目に特徴的な外観が見えてくる。ドーム型の屋根にはまだ残っている夕陽が微かに反射している。駅周辺は各種大型ブティックやバトルカフェなどが立ち並び、そこを目指す人波なのか徐々に二人の周囲が賑わってきた。
 ときどきこちらを見ては仲間内でささやいている。アーティスティックな出立ちのネズがやはり存在感を放っているのだろう。と最初は思っていたのだが、そのうちに口々に「チャンピオン!」「やっぱり」「チャンピオンだ」と人々が騒ぎだしてユウリは狼狽えた。
 ネズの方こそ、最近まで二足の草鞋だったりで知名度は十分なはずなのに。かつてダンデが受けていた声援と同じくらいの熱量が今自分に向けられている。あの決勝戦を彷彿とする。だからってすぐには信じられないし、ダンデのようにこの場に相応しい[[rb:応対> ポーズ]]もできない。ユウリはまだ未熟な「子供」だ。スカートの裾を握って、何も返せずに立ち竦んでしまう。

「どうしたんです。行きましょう、チャンプ」

 振り返ったネズがそつなくユウリを呼ぶ。彼は何もおそれないのか、人々を背にする飄々とした立ち姿、そしてどこかユウリを見据えるその表情が、アクどい。
 もしかして、わざと空飛ぶタクシーを拾わなかったのか。こうなることを分かっていて? 
 深読みし過ぎなのか、とにかく今のユウリには考える頭が足らないけど、単なるいじわるではないと言える。
 ポケモンバトルは見る者に勇気を与えること。大きな夢や明るい希望をももたらすこと。それはユウリを囲むたくさんの瞳と、そこに宿る無邪気さを見ていたら分かるはず。
 それを、知ってほしかったのだろうか。ユウリだって立派にその一端を担っているのだと。
 ダンデの場所を背負うでもなく、守るでもなく、ただ自分らしくその椅子に座れば良い。
 ユウリの確信に満ちた表情だけを見て、その通りと言わんばかりに、ネズの口の端が上がった。

「ほらユウリ。列車が行っちまいますよ」

 逆光の中、呆れて笑うネズはどこまでも柔らかい眼差しで、寛大だ。だけど行儀ワルく顎で駅を示すあたりが頼もしい。
 そうだ、ネズと一緒なら。きっと堂々と歩ける。
 橙に染まる道をぎこちなく踏み出してみると、通りの両側から歓声が上がった。
 若干照れくさそうにはにかんでいる、その初々しい様にネズは目を細めて、束ねた髪を揺らしてユウリの少し先を歩き出した。

 上空に小さく、戻りのアーマーガアが数羽飛んで帰還してきたのが見える。待機所でしばらく補給して、また乗客をのせてこの街を出発するのであろう。
 地上ではじまったばかりのパレードは、まだまだ皆を帰さないだろう。
 


(了)

 

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