『ありがとう』
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――ネジ兄さん、いつもありがとう。
あなたはいつも頼りになって、私を助けてくれるから。
だから、つい甘えてしまうんだ――。







ネジヒナ拍手小説 ――『ありがとう』――







「ネジ兄さん、ネジ兄さん」

穏やかな陽光が降り注ぐ、ある日の午後のこと。
小鳥の鳴き声が軽やかに響く青空の下で、庭の花木の手入れをしていたネジは、忙しない足音に気付き、小枝を切っていた手を止め、声の方を見遣る。

「あの……ちょっと書類を書いているんですけれど……忍者登録証の“シンセイ”って、どういう字でしたっけ?」

庭にいるネジの前で止まった少女――彼より一つ下の従妹であるヒナタは、駆けて来て軽く弾む息のままそう言って、持っていた紙とペンをネジに差し出す。
ネジは、手にしていた剪定鋏を脇に抱えるとペンを取り、さらさらと問われた言葉を漢字で書いて、ヒナタに紙を返す。
紙とペンを受け取り、そこに書かれた字を確認したヒナタはやがて顔を上げ、にっこりと嬉しそうな笑みを向ける。

「ああ、そっかぁ。ありがとう、ネジ兄さん」

笑顔で礼を言ったヒナタは、またぱたぱたと軽く足音を立てながら庭を去って行く。
その後姿を暫く眺め、特に何を思うでもなくネジが再び作業を進めていると、また、同じ様な気配が近付く。

「ねえねえ、ネジ兄さん」

小走りで目の前にやって来たヒナタを、ネジは手を止めて見遣る。
今度のヒナタは、両手に何も持っていなかった。

「あの……今からお客様が見えるみたいで……。男の方なんだけれど、お茶菓子は、甘い物としょっぱい物、どっちが良いと思う?」
「……どちらも用意したら良いんじゃないですか? 食べたい方に手をつけるでしょう」

愁眉を作って、ネジの顔を窺う様にこて、と小さく傾けたあどけない顔に、ネジは眉をぴくりとも動かさない。
素っ気ない返答であったが、ヒナタはネジの意外な妙案に、顔を見る見る綻ばせた。

「ああ、そっかぁ、そうだよね。ネジ兄さん、ありがとう」

そう言って笑顔を向け、早速戻って言われた通りにしようとしたヒナタは、ネジが気怠げに息を吐いているのに気付く。

「……ネジ兄さん、どうしたの……?」
「ああ……別に……。最近事務仕事が多くて、肩が凝ってしまって……」

鋏を持ったまま作業に戻らないネジは、ヒナタの声に、片手で肩を解しながら言う。
指先を肩に埋めるネジの、長い髪の間からちらりと見える首筋に視線を送っていたヒナタは、ふうん、と言うとネジを置いてその場から去って行った。

「……」

あまりにも冷めたその態度に、面食らったネジが思わず手を止めヒナタの後姿を見詰めるが、黙って鋏を持ち直し、伸びた枝葉をまた切り始める。
パチン、パチンと切られて落ちた枝が下に溜まり、大分形が整ってきた椿を眺めると、ネジは側にあるごみ袋を広げ、周囲に落ちた枝を片付けていく。
その時、本日3度目となる耳に慣れた足音が聞こえ、ネジは眉をぴくりと動かす。

「ネジ兄さん」

耳に慣れたその声に、名を呼ばれたネジはだが手を止めることはなかった。

「ネジ兄さん、あの、これ……」
「いい加減にしてください」

駆けて来たヒナタから差し出された手を見ることなく、ネジはヒナタの言葉に被せる様に冷たく言い放つ。
それにビク、と体を強張らせたヒナタは口を噤み、地面にしゃがみ込んで顔を向けないでいるネジの手元を見つめる。

「……自分のことくらい、少しは自分でやってみたらどうなのです? オレだって、忙しいのです。あなたの面倒を見ている程、暇ではないのですよ」

ガサガサと袋を揺らしながら、その中に切った枝葉を無造作に入れる様子に、ヒナタは直ぐには返答しなかった。
ネジが傍らに突っ立ったままのヒナタに構わず枝を片付けていると、暫くし、ごみ袋の音に混じり上から小さく声が降ってくる。

「あの……ごめんなさい……。そうですよね、ネジ兄さんだって、困りますよね……」

明らかに憂いを含んだその声に、ネジは一瞬だけ手を止めると、だが謝られることではないとその声には反応しなかった。

「……ごめんなさ……」

しかし何か泣き出してしまいそうな、胸が潰れてしまう程無理に感情を押し殺した声に、はっとしてネジが顔を上げる。
漸く手を止めたネジを、ヒナタは微笑みで迎えた。

「あの、でもこれだけ、もらってください。余計なお世話かも、しれないけれど」

徐に腰を屈め、しゃがみ込んだネジと視線を合わすと、ヒナタは持っていた物をネジに握らせる。
胸に押し付けられる様にして渡された、白い封筒に視線を送っていると、傍にいたヒナタが立ち上がる。
ネジがそれを見上げる頃には、ヒナタはくるりと体の向きを変えており、そのまま何も言わずに走り去って行った。
ヒナタ様、と喉まで出掛かった言葉を呑み込み、ネジは、屋敷の角を曲がり姿が見えなくなるまで、物寂しい後姿を見詰める。
残ったのは、彼女に握らされた一通の封筒。
持っていたごみ袋から手を離す。
真っ白な封筒を裏返し中身を出すと、湿布と一緒に紙が入っており、一筆書き添えられていた。




――『ネジ兄さんへ

  いつもありがとうございます。
  お体、大切にしてください。
                   ヒナタ』




何度も、何度も、そこに書かれた短い文章を読んだ。
角が少し丸みを帯びて子供っぽい、こぢんまりとした、だが彼女らしい温もり溢れるその文字を。
そして沸々と、後から後から後悔が押し寄せて来る。
――ああ、やってしまった。
ネジは、小さな紙が折れないよう大切に手の中に握り込むと、深く首を垂れた。






自室に閉じ籠もり、一人啜り泣いていると、不意にドアの向こうから声が掛かった。

「ヒナタ様」

静かに呼び掛けられ、だがヒナタはびくりと体を揺らす。
慌てて滲んだ涙を拭って振り返ると、黙ってドアを注視する。

「……いるのですか」

ばくばくと、心臓が騒ぐ。
どうしよう、と突然の声の主の訪問に動揺していると、返事をする時機をなくしてしまった。

焦る心情と裏腹、ヒナタが何も出来ずにいると、入りますよ、と更に声が掛かり、咄嗟に前を向く。
暫くして、キイ、とゆっくりとドアが開けられる。

窓辺のクッションの上に座り膝を抱えたヒナタには、現れたその姿は窺えない。
膝を抱く手に力を込め、ドア付近に立つ静か過ぎる気配に息を詰めていると、それが声を出す。




「……ヒナタ様」
     
ドア越しではない、はっきりと聞こえるその声は、ヒナタの体を固く強張らせた。 
またしても返事をする時機−タイミング−を逃がしていると、ネジは部屋には足を踏み入れずにその場で言う。

「……もうそろそろ、会合が始まる様です。ヒナタ様も、お早めに向かわれますよう」
「……は、はい……」

背を向けたまま辛うじてそれだけ返すと、返事を聞いたネジは、では、と言いあっさりとドアを閉め、部屋から離れた。
張りつめた空気が徐々に緩み、ほっと一息つくと、ヒナタは顔を上げ時計を見遣る。
もうそんな時間か、と立ち上がり、軽く身だしなみを整えようと壁に掛けられた鏡に向かう。
髪に櫛を通し、衣服の乱れを整えていると、ふと、ドアの横にある棚の上に、見慣れない物が置いてあることに気付く。
ヒナタが戸惑いつつも、“それ”に添えられた小さなカードを手に取り、何も書いていない面を何気なく引っくり返すと、目を見張った。




――『こちらこそ、ありがとうございます。』――



決して達筆とは言えないが、頑固なネジらしい、角ばった、少し右上がりの字を見、ほろりと涙が零れた。

「ネジにいさ……」

言葉を掛けないところが、ネジらしい。
カードと一緒に置いてあった、可愛らしい容器のプリンに目を遣ると、ヒナタは目元を擦り、何度も何度も、短い文章を読み返した。

――ありがとう、ネジ兄さん。

胸の中で大切にそう唱えると、プリンを抱えて部屋を出た。

礼を言うのは、此方の方なのに。
自分がいつまでもネジから巣立ち出来ないでいるのは、もしかして彼の甘さに一因があるのでは、とヒナタは勘繰る。
こんなことをされたら、また甘えて、ネジから離れられなくなってしまう。
否。
離れたく、ない――。


一体どんな顔をしながら、こんな粋なことを企てたのだろうか。
どうしてもネジの顔が見たくなり、ヒナタは歩調を早めると、大分前を歩いているネジを大きな声で呼び止めた。


















おまけ↓








「ヒナタ、様……お気遣い、どうも、ありがとう……いや、違うな」

書き掛けの一筆箋をくしゃっと丸めると、机に向かったまま、無造作に後ろに投げる。

「ヒナタ、様、の、お心、遣い……とても……これも堅苦しいな……」

再び便箋にペンを走らせるも首を捻り、インクが乾かぬ内から紙を台紙から破って、同じく丸めて後ろにポイッと捨てる。

「たった一言、書くだけなのだが……難しいものだな……」

机に肘をつきこめかみを押さえながら、右手に握った進みの些か悪いペン先で、意味もなくトントンと紙を叩く。

「何か……何か、ないか? 頼むから、閃いてくれ」

今度はこめかみを指先で叩き、ネジは必死に、これまで積み重ねて来た経験の引き出しを開け、この局面にぴったりの、都合の良い言葉がないかと探る。
洒落た手紙一つ書いたことのない、鍛錬一色の生真面目な脳でも何か出ないかと刺激するも、彼が欲するモノは中々出て来ない。

「くそ……。こういうのは、駄目なんだ」

部屋の中に大量に無駄な紙屑を散らばせて、机に向かい己の凡才振りを嘆き、と結構な間、頭を抱えていたネジであった。




(旧拍手SS)

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