バラの花束
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 小柄なヒナタが、此方を見上げながらタオルを差し出す姿には、どうにも込み上げるようないじらしさがある。思わずと綻んでしまった頬を今更隠せずに、その手から有難く受け取ると、ヒナタはにこやかに暇を告げた。
 ネジの前から、ヒナタは悪意の欠片もない様相でくるりと髪を揺らす。最近料理教室に通っているらしい彼女は、何かと忙しそうだ。こうして突っ立っているネジを度々放っておく。ただ修行の後、茶を持って来る気配もないのは口寂しいというか、単に寂しいというものか。仕込みがあるからと、迷わずキッチンに直行しようとする姿は修行中とは別の軽やかさがあった。この数日ヒナタは何を作っているのだろう。一族や、仲間に持て成すとか――。帰りそびれたネジは気になってそれとなく尋ねてみた。すると、振り返ったヒナタの口から想定外の予定が知らされた。

「明日……?」

 何も思い当たる筈のないネジの声は見事なほどに空を切って、瑞々しいヒナタの花笑みがみるみる萎んでいく。
 明日のお楽しみだというその手料理は、きっと美味しいに違いないだろうが、こんなに悲しい顔をさせるなんて。何をネジは間違えてしまったのだろう。
――――何でもない。
 遂には正体を明かさぬまま蕾はとじて、寂莫の空の下にネジを残した。





三月『バラの花束』





 徐々に影を伸ばす夕陰に、凭れるようにしてヒナタは膝を抱えていた。別れを告げる元気な子供の声が傍を通り過ぎて、視線を上げると、躍動する小さな背中が眩しいほどに染まっていた。やがて無人の公園となって、物音がしなくなるとヒナタの寂しさも加速した。辺りを淡く照らす陽も直に夜に代わる。それでも何となくまだ此処にいたい。自分だけが浮かれていてはずかしかった。
 帰り道に迷う心配はなかったが。気付けば傍らにもうひとつの影が寄り添っている。
 何一つ覚えていないような顔をしていたのに。どうしてネジはヒナタを“見つけて”くれるのだろう。

「……まだ、間に合いますか?」

 後ろに遠慮がちに佇む気配が漸く存在を示した。昨日ヒナタが閉じ籠もって、一方的に別れたきりのネジは、それでもやっぱりヒナタの心を占める人だ。本当は、今すぐにでもその声に寄り掛かりたかったけど。感情の整理がつかず口籠るヒナタの前に、ネジが香しい風を運んだ。
 視界いっぱいに広がる、おそらく真紅の薔薇は、夕焼けの煌めきに包まれて紫がかっていた。こんなに奇麗な花束を、今まで見たことがない。

「丁度、一年前の今日、でしたね」

 零れ落ちそうな眼にさまざまな色の神秘が重なり合う。言葉を忘れ見惚れるヒナタを腕の中に包み込むようにして、後ろからネジは懐かしむ様相で耳元に告げる。
 穏やかで優しい従兄妹の関係から一歩踏み出した日。一人の女性としてネジの瞳に初めて見つめられた。結婚記念日でも何でもない、それでも忘れられない、ヒナタの始まりの日。あれからここまで手を引いてきた、ネジの手は今でも優しいままだ。

「遅くなって、すみません……でも、思い出しました。もう、許しては貰えませんか?」

 窺うような声付きに、呆気に取られていた昨日のネジが蘇る。これ以上どうにもできないという猛省が垣間見えて、ヒナタの方が拗ねて面倒を掛けているようだ。
 平生より現実的でロマンティックな言動とは無縁なネジである。きっと忘れているヒナタとの出来事は他にもある。だけどこうして、ロマンチストなヒナタに付き合って花束を贈ったりもしてくれる。記憶の引き出しの中に、それは丁寧に折りかさねて、鮮やかなふたりの思い出が鮮やかなまま仕舞い込まれているのだ。
 月日が経っても変わらずに側に。……願わくば、これから先もずっと、そんなネジと一緒に。

「ネジ兄さん……!」

 高ぶった気持ちのままに、ヒナタは後ろのネジに抱き付いた。記念日を飾る花束を少しだけネジにあずけて、まずは心からの『ごめんね』と『ありがとう』を。
 ヒナタさま――驚きを浮かべるネジを遮って、初めてヒナタから口づけた。刻々と沈みゆく陽を一瞬だけとめて。花びらに祝福の色を閉じ込めて。今日という日がずっと、二人の中で続いていくように。


 揺らめく橙が差し込んでそっとまぶたを開けると、至近のネジに困ったように微笑まれた。つまりは『許す』という意思表示なのか、何か聞きたそうにして視線を寄越すネジに、ヒナタもつい頬を緩ませた。このように大人しい恋人にどれだけ振り回されても、ネジの方こそ寛大な心持ちで寄り添ってくれる。花束を持つネジにぐるりと囲われているヒナタは、注がれる眼差しに擽ったさを感じながら、背中のその存在に何かを思い出した。途端にネジの腕の中で、落ち着かなくなる。
 ごめんなさい……と一転してしおらしくなるヒナタに、ネジは柔和な表情のまま、わずかに首を傾げた。

「今度はどうして、あなたが謝るんです?」
 
 純粋に向かう問い掛けは、ただただ目の前で素直に振る舞うヒナタを思い遣っている。今までそれはネジの立場であったが、瞬く間にうつろう繊細な女心地の、ひとつひとつに気長にネジは向き合う姿勢でいる。

「あ……だって私……ネジ兄さんに何も……」

 訊かれるままに打ち明けて、ヒナタはネジを映す眼を曇らせる。ヒナタにとって特別大切な日であるのに、ネジに何もあげるものがなかった。この日の為に丁寧に仕込みをしていたのに、ひとりで落ち込んで投げ出してしまったから。困ったことに……ネジの呉れる素敵な薔薇に見合うだけの贈り物を、とても思い付きそうにない。

「……構いませんよ。もう帰りましょう」

 さらりと過ぎる夕風に目を細めて、すべてを理解したようなネジの表情には、徐々に薄まる光の欠片が美しい影を作っている。
 修行中も時折見つけていた、日夜小さな格闘をしたような微細な切り傷を。絆創膏の貼られた指先をそっとネジは握り込む。

……あなたといつも一緒にいられることが……オレは嬉しいんです。
 だから来年も、再来年も、一緒にいてください――そう静かに告げる、ネジの大切なものは真実に今手を取るひとただ一人だ。丁度一年前の今日にも語られた、なつかしくも色褪せない愛の言葉をかさねながら、ヒナタは掌のぬくもりに心ごと抱き締められた。

 ゆっくりと手を引かれて、まるで寄り添うようにふたりで立ち上がると、橙に染まる宙の端には夜の気配が潜んでいた。ネジの手元の薔薇も一層色濃く艶めきを湛える。来年も再来年も。そう言ってくれるネジの傍にいたい。一歩ずつ、ネジと進んでいきたい。
 あらためて差し出された花束に、星が降るように、笑顔が零れた。



(了)



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