Love call
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 ある時、日向の住まいに、“電話機”なる黒色の通信装置が置かれるようになった。何でも、ダイヤルを回せば、離れた所にいる相手とその場で簡単に話ができるようになるらしい。主に使用するのはヒアシで、遠方の分家宛てや、文を書くほどでもないちょっとした用件を伝える為に細々と使われている。古き良き慣例に倣う、歴史ある旧家にしてみれば、革新的な変化である。
 しかし姿の見えない相手と会話をするとは、どのようなものなのだろうか。忍術に頼るでもないというのは、些か想像し難かった。ただこの特殊な装置を通せば、どういう仕組みか相手の声を此方に届けて自分の声を運んでくれる。端から見れば、独り言を言っているみたいだったが、耳に当てた“受話器”を介して、父は確かにそこにはいない誰かと言葉を交わしてしたようだ。

 無人の空気を確認して、静かにヒナタは黒い電話の前に来た。まだ真新しいそれは綺麗な光沢を放っていて、暫くの間何もせずに見入った。こうして近くで見るのも、況して触るのも初めてだったが、父が電話を掛ける姿は度々見たことがあった。
 少しばかりずっしりとした受話器を持ち上げると、父の手付きを思い出しながら、見様見真似でぎこちなくダイヤルを回す。受話器を当てて、その先は黙って耳を澄ました。緊張と高揚が入り混じって体の内側で鼓動が跳ねている。それでも忍である彼女は表面上は落ち着いた様相を守る。息を潜めて暫く待っていると、機械的なコール音が途絶えて、その向こうにいる人物が応答した。

『……はい。ネジです』

 初めて、装置を通して従兄の声を聴いた。耳に直接掛かるほど、至近で聴こえるそれは、普段より少し曇っていて、どこか知らない声のようだった。一瞬誰だか分からなかったが、しかし律儀にも名乗ってくれた。当然ながら、ヒアシからの呼び出しだと彼は思ったのだろう。

『あ……ネジ兄さんですか……? あの……私、ヒナタです』

 いつもは威厳に満ちた電話口から、大凡想像もつかない、コロコロと菓子が転がるような声音が零れてネジは呆気に取られていた。少々間を置いて、ヒナタ様? と不思議がる素振りをされて、はい、ヒナタです、とヒナタもまた生真面目に返す。姿を見れば一発で分かるというのに、声だけで交わされるどこかちぐはぐな遣り取りに、電話の向こうのネジがやわらかく微笑んだ気配がした。

『……はい、分かりますよ。ヒナタ様ですね? ……何かあったんですか?』
『え……? ううん、別に、なんにもないのだけど……』

 互いに話し相手を確認して、漸く先に進めたは良いが、今度は沈黙が二人を迎えた。
 ならば何故電話などしたのだろうか。恐らくそう考えて、頭の中が疑問符だらけになっているであろうネジを、察したヒナタだが、何だか困ってしまって余計に何も言えなくなった。もしかして、いけないことをしてしまったのだろうか、と。ただ受話器を握り締めて、コール音が響くでもない、繋がったままの無音の電話に耳を傾ける。

『……その電話、ヒアシ様のですよね? 今、ヒアシ様の部屋にいるんですか?』
『! そ、そうなの。父上、今ね、お風呂に入っているから……だから今のうちにって……ふふっ』

 ふと思い至って、何気なく探り入れたネジの“話題”に、思い出したようにヒナタが飛び付いた。転じて、明るく耳元で弾ける声に、ネジは眩暈を覚えるほどの衝撃を受けた。えらく無邪気な様子だが……これがヒアシの知らぬ内緒の電話なのだと知り得た。湯上がりのヒアシが、ヒナタの近くをうろついていないかと、不安を感じてネジの声も小さくなる。

『大丈夫なんですか……? 無断で使ったりしたら、後で……』
『大丈夫、もう戻るから……ネジ兄さんも、お忙しいと思うし』

 コロコロと楽し気に笑っていたのも束の間、ヒナタはしおらしくなる。ネジの都合も考えて、折角繋がった電話を、惜しみながら終わらせようとした。
 電話口からの応答は、直ぐにはない。細くなって消え失せたヒナタの声の余韻を、ネジは黙って辿っているようだった。忙しくしていると思うのなら、最初から掛けてこない筈だと。 

『オレのことは良いんですが……ヒナタ様、何かオレに用事があったんですか?』

 もしかして、用件を言い出せずにいるのかと。この唐突なヒナタからのコールをネジはそう推察した。
 ネジの配慮が優しくヒナタの耳を打つ。初めは聴き慣れぬと辟易していたのに、今は心に安らぎを齎した。姿は見えないけれど、感じる。二人を繋ぐ、この細い電話線の先にいるのは、ヒナタを気遣ってくれる、いつものネジだ。

『ううん、本当に、なんにもないの……急にごめんなさい……あのね、私……ずっと“電話”、してみたくって』
『電話?』

 拙いヒナタの言葉を返すそれも、ネジが紡げば子供に菓子を与えるような甘さを持つ。ヒナタは低く穏やかな声に擦り寄るように、耳に受話器を押し付けた。

『うん……これを見た時から、ずっとネジ兄さんに掛けてみたくって……兄さんと、こうしてお話してみたかったの』

……本当のところ父が羨ましかった、など、あまりに年相応でない発想でネジには言えないが。実際ヒナタはそれと変わりないことを口にしてしまっている。しかし嘘ではなかった。
 ヒアシが電話を掛ける姿を、何度も見ていた。時折『ネジ』と、堅苦しい父の口からその名が零れれば、ヒナタの心は空を浮遊するように楽しくなった。離れた所にいる従兄が側にいるような感覚。そしていつしか、あれを使って自分もネジと言葉を交わしたいと思い始めた。ヒアシのいない時を、狙って。普段の大人しい性格は時に大胆になるものだ。

『オレと……話、ですか……? おかしなヒナタ様だ。オレとは年中会っているではないですか』

 至極意外そうに、そう言ってネジは微かに笑った。ヒナタの大胆な行動を咎めるでもない。未知なるものに目を輝かせるヒナタを、子供のようだとからかうでも。
 ああ、こんなネジだから……ヒナタは電話がしたくて堪らなかった。

『そうなんだけど……でも、一番は、ネジ兄さんが良いなって……ネジ兄さんの声が、聴きたいなって……ふふ……本当だ、変だね、いつも会っているのに……ごめんなさい……やっぱり、ご迷惑だったね』
『……いいえ。迷惑などでは』

 口数がめっきり減った従兄は、静かにそれだけ返した。受話器から聞こえる砂糖菓子のような声を、心に閉じ込めて。
 覚束ない指先で、拙くダイヤルを回すヒナタが、彼の瞼の裏にひっそりと浮かんだ。

『本当に……? ……あ! そろそろ父上が戻ってきちゃう』
『大変です。早く切ってください』

 電話の向こうで、ヒナタの慌てふためいている様が容易に見える。ネジも慌ただしく現実に引き戻された。“部屋の主”が気付いてやって来る前にと、急いで退散を促すが、おっとりとしたヒナタは何やらまごついている。

『えっと……切るっていうのは……?』
『受話器を、そのまま元の場所に置いてください。それで通話が終了します』
『あ、そうなんだ……はい、やってみます……』

 本当に今知り得たみたいな反応をして、どこかヒナタの気配が遠くなった。受話器を耳から離しているのだろう。これで良いのかな? という小さな呟きを耳に拾って、ネジは咄嗟に思い付き呼び掛ける。

『ヒナタ様、ちょっと待って。もし、ヒアシ様に見つかってしまったら……その時は、オレが掛けたと、言ってください』
『え……?』

 耳元にヒナタの声が戻ってくる。生返事のようなそれに、しっかりと言い聞かすように、ネジは受話器を握る手に力を込めた。

『オレからヒアシ様に掛けた電話を、たまたま廊下を通り掛かったあなたが受けた……これで、怪しまれないでしょう。そうしてください。後で何か聞かれたら、話を合わせておくので。大丈夫です』

 受話器を置く手前で受けた、そつがないネジの提案に、ヒナタは有り難さ半分に、内心戸惑った。此方から勝手に掛けたのに、そこまでネジにして貰うことはなかった。

『でも……そんなこと……』
『迷惑ではないと、言ったでしょう? ……一番にオレに掛けてくれて、ありがとうございます』

 いかにもネジらしく、丹念に礼を述べられる。まるでお返しだと言わんばかりの、温かさで。ヒナタが一番にネジを選んだというのなら、ネジも一番にヒナタのことを考える。
 褒められた訳でもないのにヒナタの頬が照れて桜色に染まる。でもやっぱりネジに掛けてみて良かった。そう思うと……もう時間が迫っているというのに、今度は中々切れなくなった。今ネジと自分を繋ぐ一本の電話を、この二人の時間を手放してしまうのは、とても惜しい。

『……ヒナタ様。また掛けて良いですから』
『!』
『いつでも良いですよ。またお話しましょう』
『う……うん……っ』

 ヒナタの溢れる気持ちが、中々切れない電話からネジに伝わってしまったのか。何でもお見通しの従兄にはその白眼を封じても敵わない。きっと一生、敵わない。それでも気を利かせて次の約束を取り付けられたら、ヒナタの表情がふにゃりと緩んでいく。そんなに甘やかされたら、もう明日にでも掛けてしまいそうだ。

『じゃあ……あの、おやすみなさい』
『おやすみなさい』

 ヒナタの言葉をなぞるように、ゆっくりと丁寧に、ネジはこの夜最後の挨拶を返した。それから声は聴こえなくなった。しかし電話は途切れず、ヒナタが切るのを待っている。
 もう“切り方”は教わっていたから案ずることはない。慌てることなくヒナタは耳から受話器をそっと離した。
 これは単なる別れではない。この先に待っているのは……きっと新しいお喋りの始まりだ。



(もしもし、ネジ兄さんですか……? あの、私、ヒナタです)
(はい、分かりますよ……ヒナタ様ですね? こんにちは)


『Love call』






(アイノカンザシ 開設記念SS)

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