せかいで、いちばん
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 消毒液の清冷に匂い立つ、厳かな道場は、普段の風情と異なり静寂を保っていた。
 凄まじい鍛錬の爪痕が刻まれた、年季の入った床が、座り込む二つの姿をおぼろげに浮かべる。
 ヒナタの手元が、浸した脱脂綿を差し向けては、甲斐甲斐しく何度も往復する。側にある消毒用バットの中は赤く汚れた脱脂綿で埋まっていった。
 目の前の黙り込んだ貌はある意味それを自由にさせている。剛健さをひそめた姿はどこかしおらしかった。窓から入る陽の光に色白の頬が境界をなくしてとけていく。だからか、しぶとくそこにまだ鎮座する滲んだ傷がなお痛々しいのだ。

「放っておいてください、ヒナタ様」

 おもむろに投げられた意思に、ピンセットを持つ手元が僅かにとどまった。今まさに身の上に降り注ぐ施しが、やはり不服であったのか、半分諦めの含んだような声はヒナタの眉を困らせた。

「でも手当てしないと……放っておくのは一番よくないよ」

 まるで家庭内における教育者ははおやと思しきヒナタの言葉に、返答はない。片側の頬に大人しく湿布を貼られた様は、やんちゃを咎められた子供のようでまた不服そうだった。
 少しくらいの負傷なら何ともないと、なおさら任務に赴く忍はいちいち頓着しないのかもしれない。ただ今は状況が異なる。治療に十分な時間を充てられた。だからヒナタがネジのために心を尽くしたいと此処に連れてきたのは自然の行為だ。
 ヒナタは綿棒に持ち替えて、先に口元にこびりつく乾いた擦傷を丁寧になぞっていく。一方で脱脂綿が吸い込む、足りなくなった消毒液を自然を装い補充しつつ、若干気が立っているような気配を窺った。

「ネジ兄さん、怒っているの」
「怒ってなんか」

 目の前の麗しい白い肌が牙を剥く。裏腹なことにヒナタの推測を認めているかのようだ。ただ幾らか荒立っているようなその感情は、すぐに収束を見せる。
 ……いませんよ、と。
 つとめておだやかに、大人げない振る舞いを戒めたネジは、眉間から力を抜いて溜息を吐く。
 落ち着いたネジの姿は、怪我を負っているにしても元気がなかった。ヒナタは手を止めて、その口元に添う名誉の擦傷を見つめた。

「……あれしきのことで倒れる、自分が不甲斐ないんです。あなたをきちんと守れなかった……情けないです。ヒアシ様に顔向けもできない。だからこうして、あなたに気遣われる資格なんて」

 希望の閉ざした乳白色の視線が、明るみを嫌うように部屋の片隅に落ちる。
 ヒナタから顔を背ける格好になったネジは、今ヒナタが向ける光を素直に受け入れたくないでいる。
 だけどもこれは、自分の被った傷を“あなたの所為だ”と怨むものではない。そんなこと少しも厭わないくらいに、ネジはヒナタを守りたかった。
 膝の上で戦慄きをひた隠すその拳に、ヒナタはとても、そう思えるのだ。

「……ネジ兄さんがすごい人だっていうこと、父上はじゅうぶん分かっているよ。だって私がいなかったら、怪我なんてするわけないもの」

 ネジと同じ乳白色がしっとりと微笑む。静まり返った道場はなお張り詰めていった。
 西側にある窓から陽が差し込んで、先代当主の時代に切りとられた古木の床に、質朴なぬくもりが充ちる。
 表情の見えないネジの背筋が微かに振れる。ヒナタに気づかれないように、そっとひそかに、息を呑んでいる。
 如何なる時も凛とした、寡黙で真面目なその背中は。きっとヒナタの知る誰よりも、ヒナタのそばで。

「兄さんは、ちゃんと私を守ってくれたよ……だから私には、兄さんを手当てする資格があると思うの……兄さん、こっち向いて」

 目には見えない勲章と一輪の花を、沈黙を守る背中に寄せて。ヒナタがネジのためにできることなどとても限られているけど。
 この手が、声が、どうか体の痛みよりずっと苦痛を強いられているネジの心を、少しでも包み込んではくれないだろうか。
 


















 班の合同訓練中に起きた、些細な事故だった。
 本当のところヒナタはネジがいることで、気が緩んでいたのかもしれない。
 空から降る、訓練の許容量を超えた忍具の雨に、いち早く動いたのは“敵陣営”のネジだった。
 一歩も動けなかったヒナタはろくに怪我もせず、気づいたら倒れ込んでくるネジを必死に抱き抱えていた。

 ーーあなたのそういうところを。
 私は心から誇りに思うし誰よりも勇敢と思うのです。

 



「……まったく、格好悪いな。あなたの“兄さん”は」

 膝の上に置かれたネジの手元がやわらいでいる。慎ましい空気に軽く吐息が混ぜられて、苦い笑みがヒナタを迎えた。纏っていた棘を削ぎおとして、道場に満ちる光と木の温もりに抵抗なく溶け込むネジは、いつもよりあどけなく見える。
 頼みます、ヒナタ様、と。
 素直になることにしたらしいネジは少しだけ目を伏せて、恭しくヒナタの施しを受け入れる姿勢だ。ひとつ違いの妹のようなヒナタに散々励まされて、心配されて、これ以上その清らかな心遣いを拒絶するのはどう見ても幼稚な選択だった。
 ヒナタのそばに置かれた消毒セットに、先回りするようにネジが視線を留める。折り畳んだ膝の上で品よく指先を重ね置くヒナタの、かすかに動きだした挙措は次の処置を選びとる。
 消毒液のつめたさも、湿布も脱脂綿も、今までの何もかもとも異なる。伸ばされたその手はあたたかく、なつかしく、無防備だったネジの思考を容易く抱きすくめた。

「ヒナタ様?」

 ヒナタのすぐそばで響く低い声が鼓膜を震わせる。不思議そうに問いかける乳白色が想像できて、ヒナタは寄り添っているネジの首元にぎゅうっと力を込めた。

「ネジ兄さんは格好よくって、いつだって私の自慢の兄さんで……だから兄さんがどう思おうと、私はこれからもネジ兄さんのことがずうっと大好きだよ!」

 今度はネジの鼓膜を、ふたりの成長を見守ってきた静粛な道場を、凛々とふるわせて。
 ネジが意思を曲げぬのなら、ヒナタの想いをそこに重ねあわせよう。
 いつまでも、いつまでもネジは誇らしい“兄さん”だ。ヒナタの目標であり世界で一番素敵な人。
 そう胸の中だけでひそかに想いを込めて、呆然としている白い頬にヒナタはそっと唇を寄せた。

 きっとあの時も、こんな眩しい夕陽にふたりでそまっていた。
 目蓋の裏に蘇るのは、泣き噦るヒナタをなだめて優しく手当てをしてくれた、いつかのネジのあどけない微笑み。
 



「ヒナタ様……分かりましたから、手当ての続きを……」
「う、うん……」

 苦心惨憺の末に押しだされたような声に、そっとうながされてネジの肩口からヒナタは顔を上げる。
 ネジはヒナタの浮かべるような思い出など、もう覚えていないのだろう。今はもう成長し、いつしか家柄に相応しき儀容を身につけた佇まいに、まだ何かを伝えたかった両手はだがそろりと白装束から離れる。
 なるべくにっこりと振る舞うヒナタを、どこかネジは視界に入れずに、ヒナタの処置に身を任せてされるがままに腕を差し出した。
 痛々しく滲む切傷はまだあちこちにあって、ヒナタは気を取り直すと手際よく消毒を再開した。
 ネジとしては特に“痛い”とも訴えないし、抑も不要なことのように落ち着き払っている。手当てを願ったのはそうしないとヒナタの気が済まないから。そしてヒナタには“そうする資格”があったから。

「……あなたの所為じゃないから」

 心を込めて張った包帯の上から、ヒナタの音もなく波立つ心情をそっと気遣われた。
 だからネジは断ったのかもしれなかった。

「うん……」

 一瞬だけ、動きを止められたヒナタの手はまたスルスルと包帯を広げていく。ネジの腕はそんなに大男の如く太くもないのだが。先ほどは拗ねたように背を向けていたネジは、そんなヒナタを案じてか不器用で優しい静寂を作った。

「すまない……何だか昔と逆になった」

 余った包帯の端を綺麗に結び終えた後、解放された腕を確かめるようにネジは少し摩って、白い袖の中に仕舞った。夕陽に染まった道場の、在りし情景をネジもまた瞳の奥に浮かべているのかもしれない。

「そんなこと……ネジ兄さん、ありがとう」

 満足そうでいて、どこか申し訳なさげなネジの呟きにヒナタは胸がいっぱいになった。一時は仲違いして距離ができてしまったが、またこんな風に笑い合えるまでになった。昔と逆でも、同じでも、互いを大切に気遣う思いは変わらない。
 きっと早く治るように。あの時小さなネジの手がヒナタを撫でたように。ネジへの祈りは暖かな道場を一層柔らかく包んだ。







〈おまけ〉

「ヒアシ様にはこのこと……言わないでもらえますか」

淡い夕色に満ちる庭の、日没までの僅かな瞬間を、縁側に二人座って静かに見つめていた。
 もう肌寒くなってくるし、家に上がって一緒に夕食をとヒナタは誘ったが、すぐ帰りますから、とネジは辞退した。

「オレの立場がないんです。幾らあなたが気にしなくとも」

 湯呑みを持つネジの袖口から、包帯の巻かれた手首がチラリと覗く。
 知らずに湯気を払う吐息の、口元の擦り傷が未だ生々しい。そこから逆光になったネジの頬に目が留まる。一口茶を啜る様を見守って、あ、そっか……とヒナタは気づいた。

「うん、言わないよ。ネジ兄さんが嫌なこと、わたし絶対言わない。約束するよ」
「いや、あの……ありがとうございます」

 妙な気迫とともに差し出された、純真な約束の言葉をネジは受け取る。
 ヒナタに手当てをされたなど、あまり無用なことを屋敷の人間に知られたくはない。ネジとしてはこの傷のことは秘めておきたい。道場であったことは、何もかも。

「……ん?」
「大丈夫だよ、ネジ兄さん。私達の秘密にしよう」

 純粋な白眼にしっとりと見つめられて、段々とネジの記憶の片隅が紐解かれ始める。蘇るはあの、ヒナタに抱きつかれた温かくも愛しい感触だ。

「ええと……それはオレの手当てのことですよね」

 冷静を装い確かめるも、うん、大丈夫! と明るく返されて、ネジはそれ以上言えなかった。疑問が残されたが、手元の茶はほどよい温度で、さらりと髪を攫う夕風は確かに心地良かった。
 自分の湯呑みに口をつける穏やかなヒナタの様相を見届けて、ネジも残りの緑茶を口に運ぶ。傷が癒えたらまた此処で鍛錬をして。他愛もない言葉を交わす。そんな感じで歩んできた二人だ。
……やっぱり夕食を頂こうかな、と思い至るネジの眼が空に呟く。
 薄青の混ざり、星の出でる。



(了)

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