始まりの五月/天上の空
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ピィー、ピィー、と頭上で響く啼き声にネジは目を覚ました。
いつものように空を泳ぐ鳥を一羽ずつ数えて目を細める。
もう前程は見えなくなってしまったがネジには十分だった。
普通の人間の感覚も慣れれば面白い。
この鳥達が今度はどんな空を飛ぶのか、夕焼けか、曇り空か、それとも雨に打たれるのか、手の届かない情景を想像する楽しみがある。

春先に群れ立って飛ぶ鳥が時間に曖昧になっているネジに季を教える。
もう直ぐ此方は五月になる。











朧げなようで確かな記憶。
確かこんなような春の日だった。
暖かな春の陽だった。



菩提樹の下で見つめ合い、抱き締めて頬を寄せた。
抜けるような蒼天に暖かい風が吹いていた。
とても心地良い春の日。
紺青の髪が静かに舞っていた。



永遠の愛を誓い合ったというのに感じるこの虚無感は何なのだろう。
幸福に満ちる程それを失った時が恐い。
結局離れている時はいつもそうなのだ。
彼女がこの手の中にいないと絶えず不安が押し寄せる。


瞼をそっと閉じると面影が浮かぶ。
柄にもなくネジが愛を囁くと白い頬が真っ赤に塗り潰される。とても可愛い人。
心優しい彼女がネジを置いて行くとはとても思えない。
何故自分はこんな所にいつまでも独りきりなのだろう。
ずっとずっと避けてきた真実に、今日こそは辿り着ける勇気を持たなければ。



再び眼差しを上げると空がぽかんとあるだけだった。
その色が碧すぎて、明るすぎて、目元が熱くなる。
この空は暮れることがない。夜が欲しい。朝が欲しい。当たり前の日常が欲しい。
自分の隣で微笑うヒナタが欲しい。
―――ヒナタ。
自分の恋しい人の名前をやっとネジは思い出した。
触れたい。会いたい。欲しい。
他には何も要らないからもう一度だけヒナタに会いたい。


強く心に願うと春風がヒナタの声を運んだ。
『ネジにいさん』と、何処かから風に混じって声がする。
忍の界隈からは離れていたが、聴力は以前のまま研ぎ澄まされていた。
確かに小さく自分を呼ぶ声を拾う。
幻でも良いから縋りたかった。


これを逃したらもう二度と会えない。
そんな予感がして懸命に声を辿ってゆくネジの目が、今はもう遠くが見えなくなってしまった目がその姿を見付ける。
風よりも早く。その姿を見付ける。

「ヒナタ、様」

紺青の綺麗な髪を靡かせて此方に歩み寄る、それは紛れもなく彼女だった。
懐かしい顔立ちは無垢なあの頃のまま。
優しい笑顔に心が解かれて、そして引き千切れるくらいに切なくなった。
手の届く所に彼女がいる。自分が踏み出せば、手を伸ばせば触れられる。
迷いなくそうしようと決断した時、ネジは驚きに目を剥いた。
ヒナタの腹部は真っ赤に染まり、破れた忍服から血が滴っていた。

「酷い怪我を」

余裕を失くしてネジが駆け寄ると、次の瞬間には何もなかった。
ヒナタは変わらず微笑っている。
思えば自分もそんなようだったことをネジは思い出した。
そっと胸に手を遣るとありもしない古傷が疼いた。
ここに何か負った気がするのだがもう覚えていない。
今ネジの身体は生まれたてのように全てが真っ新だ。

「お待たせしてしまって、すみません」

少し申し訳なさそうにするヒナタにネジはゆっくりとかぶりを振る。
どちらかと言えばネジの方が早く着き過ぎてしまったのだ。
自分が独りだったということは彼女も同じ。ヒナタもきっと辛かった。
ヒナタ様。
言い掛けてネジは口を噤んだ。
もうそう呼ぶ必要はないのだ。
ネジはもう何にも縛られていない。額は白く滑らかだった。
胸を張ってヒナタと、好きなだけ呼べば良い。愛を撒き散らせば良い。








菩提樹の下で見つめ合い、抱き締めて頬を寄せた。
抜けるような蒼天に暖かい風が吹いていた。
とても心地良い春の日。
紺青の髪が静かに舞っていた。






●拍手御礼SS『始まりの五月(恋のマイアヒ)』●











昔流行ったオゾンの『恋のマイアヒ』という曲で妄想してみました。自分の好きな曲でした。
改めて和訳歌詞を読んでみると、とても切なくて……曲調の切ない感じがネジにぴったりでして。
『マイアヒ』とはルーマニア語で『五月』のことだそうです。ルーマニアでは新しい季節の始まりなのだとか……
歌詞では恋人に電話をする描写などがあります。失恋がどうしても嫌だった私はあまり歌詞気にして書かないようにしました(^-^;かなり自己満足な仕上がりです。
ここまで目を通していただきありがとうございます。

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