キス1/1
間近で息を潜めているような気配を感じて、ネジはふと手元の巻物から顔を上げた。
側にいたのは、目が合えば殺気を飛ばすような、物騒な忍などではなく、相変わらず愛らしい容貌をしたヒナタだ。優しげな、とろんとした瞳を自分に向けて、何かを思案しているのか。ネジが少し、視線をずらすと、大凡が分かった。
「ああ、コーヒー……淹れてくれたんですね」
小さなテーブルの上に、まだ湯気の上るコーヒーカップがそっと用意されている。それほど脇目も振らずに、熟読していたのだろうか。こまやかな心遣いにネジは礼を言って、カップを持ち上げて一口啜った。
「にい……さん」
飲み終わるより早く、ネジの袖が控えめに抓まれる。
放っておかれて詰まらなかったのか、袖を辿ってヒナタがネジの元に来た。
「ん……? 一緒に見ますか?」
甘えに来たようなその微笑ましさに、口元が緩む。片腕にヒナタを招き入れると、ネジは巻物を広げて見せた。ネジの胸に、頭を寄せる格好になったヒナタは、大人しく目の前の跳ね上がる筆致を眺めている。
「体術の指南書です。日向とは、流派が異なりますが……色々と、学ぶものがありますよ」
コーヒーを含んで、僅かに湿ったネジの唇から、苦い香りが漂った。それが気になったのか、将又休日も勉学を怠らないネジに呆れたのか、ヒナタは黙ってネジを見上げてくる。と言っても、抗議するような冷めた態度でもなく……視線を受け止めたネジは、不思議に思いつつ、至近にいるヒナタに息を詰めた。
いつもはネジに微笑い掛けられれば、恥ずかしがって俯いてしまうようなヒナタが、一心にネジを見つめてくる。眠たげにも見える優しい瞳が、縁取られた睫毛の中で恋情を募らせたように潤んだ。
ネジの胸元に、やわらかなヒナタの掌がそっと重なる。徐々に近付いてくる可憐な面立ちに、ネジの頭は混乱を極めた。
「ちょ……ヒナタ様……」
咄嗟にヒナタの肩を押さえるも、既に直ぐ側には睫毛をおろした美貌があった。ネジにやんわりと制止されても、ヒナタは止まるどころかネジの口元に唇を寄せて、クイ、クイ……と拙く顎を上げてくる。まるでキスでも強請るように。唇にかかる、身を震わすようなヒナタの吐息に、顔が俄かに熱を帯びてくる。
「ど、どうしたんだ、一体……」
もう少しで触れ合いそうな距離に、ネジは堪らず顔をそらし、迫るヒナタから遣り過ごす。
少し名残惜しそうに、睫毛をそっとあげた白い瞳は、依然恋に恋するような静かな輝きを纏って、ネジを見つめている。
「私……キス、してみたいの」
だめ? ――ふくりとした桜色の唇がそうたどるのを、ネジは心を無にして眺めていた。
成程。だからか今日のヒナタはどこかぽうっとしているというか、口数が少なかった。
この不意におとずれた急展開を、驚き半分ながらもネジは何とか理解した。おっとりとして見えるが、彼女も実際そういう年頃だ。
そして今自分達は、単純に“従兄妹同士”というだけの間柄ではなかった。つまり“許し”を貰っているのだ。所謂暗黙の了解という形だが。
「……こういうことには、順序があるんですよ……オレとヒナタ様は、まだ……ね?」
眉間から力が抜けおちて、ヒナタには見せない冷徹な忍の様は影を潜めていた。普段、任務に修行に……と真面目一辺倒に明け暮れている自分が、何を恋人に言い聞かせているのか。
だが正直に、ヒナタには早過ぎると思っている。偶にお互いの家に遊びに行って、お茶をしたり気に入った書物を持ち寄ったり、と……こんなのんびりとした関係が、今の自分達には似合う。
「兄さんは、私とはしたくないの?」
「そうではないですが……」
寂しげに眉を曇らせた、いじらしいヒナタについ歯切れも悪くなる。
果たして晩熟と思われたヒナタの方が、痺れを切らしている様子にネジは内心気後れした。自分の後をついてきた幼い従妹、など、もう何年前の話だろう。
思いをかけるヒナタに、キスを強請られるとは偏に光栄なことだ。ただ、ネジは曲がりなりにも日向に生まれた男である。ヒナタとの関係は、大事な娘を預けてくれたヒアシの意も汲んで、大切に育んでいきたいと思っている。
そんな胸の内など露知らず。言い濁したネジに、隙を見つけてその懐にヒナタが入り込んできた。柔らかな身体にきゅうっとしがみ付かれて、文字通りネジの心臓が飛び跳ねる。鼻先にある、藍色の髪からえも言われぬ香が漂った。刹那、潤んだ白眼と視線が合ってネジは不味いと身を引く。しかし反応が僅かに遅れて、身を乗り出したヒナタ諸共、背後のベッドに凭れ掛かった。
「……っ、ちょ、ちょっと」
広げっ放しの巻物が床に転がった。躊躇なくネジの頸に抱き付いたヒナタが、頬を染めつつなおネジの唇を求める。今までこんな大胆さをどこに隠していたのだろうか、などと感心している場合ではない。
ヒナタを受け止めつつ、その肩を押し留めて、ネジは辛うじてやわらかそうな唇から避ける。やろうと思えば無理矢理にでも、身体を引き剥がすこともできたが、ヒナタ相手にそのような力技は極力行使したくない。
こんなヒナタ……ヒアシが知ったら卒倒しそうだ。
ネジは今まさにベッドに倒れ込んでいるも同然だが。更にはこの頭を埋めている清楚なシーツからも、ヒナタの移り香が匂ってきて万事は休した。孤高の天才はじわじわ追い込まれていく。
――ヒナタ様、お願いだ。
最早恥も外聞も無し。このように許しを願うのは生涯でアナタの前だけだ、ネジは心に固く誓いを立てて、ヒナタの情に縋った。
「あなたとのキスは……何と言うか、もっと考えて、したいんです。軽はずみに、したくない」
直後、ネジの手からふっと、ヒナタの重さが消えた。聞きようによっては、拒絶とも取れた。若しかして、傷付けてしまっただろうか……恐る恐るとネジが視線を遣ると、ヒナタは真っ赤に染まった頬に手を添えて、うっとりと睫毛を伏せていた。
「兄さんったら……ふふ……ロマンチックなのね」
呆然としているネジから、いそいそと身を離すヒナタは、いつもの恥ずかしがりで大人しやかな様相に戻っている。その、貞淑を示すかのように、ヒナタはネジからほどよく距離を置いて、慎ましやかにテーブルの側に座った。
「はい……私、ちゃんと待っています……兄さんが、その気になるまで」
手近にあった盆を取って、ヒナタはぽうっと染まり上がった頬のまま、夢見心地でぎゅうっと引き寄せる。その胸に抱かれた盆は、若しかするとネジを想定している。
その様子から察するに……ネジが思いの外純情であったことに、彼女は見事ハートを射止められたようだ。
何か壮大な勘違いをされているような、妙な違和感があったが、もうそれで良い。
「ああ、いや……分かってもらえれば、それで」
ヒナタの両手にしっかりと抱かれた盆を横目に、官能を揺り起こす危ういベッドからネジはそそくさと離れた。
何だかどっと疲れが出て、そろそろお暇しよう……と床の上で波打っている巻物を拾い上げた。その矢先。
夢心地のヒナタが飲み掛けのネジのコーヒーに口をつけて、巻物がスルリと手から滑り落ちた。
兄さんは、いつその気になるのかしら。
キス/end
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