色鉛筆/野辺に咲く黒百合
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 だれかを笑顔にするたびに、はりつけた仮面の下でないていた。
 風が吹き荒ぶたびに体のどこかにある空洞が、獣のさけびに似た音を立てる。
 偽りと絶望の拮抗する心をかかえて、訊くのだ。
 否、或いは許しをもらうために。
 なきひとの標の前にたたずむ男を、傍らのその花は見ていた。






 前方に伸びる中央通路に差し掛かって、サクラは歩みを緩めると、わずかな陽の差す窓の外を眺めた。中央にあるステーションからここを経由すれば、病棟から病棟を行き来できるようになっている。北側にあるその一つは、入院患者も疎らで、この日も付近は適度な静寂につつまれていた。
 前から来る医忍の声に、我に返ったサクラはカルテを抱え直す。緊張を解いた様子で世間話をする彼女達は丁度、担当フロアの巡回を終えたのだろう。元々病院勤務の彼らには及ばないが、人手不足の昨今、その役目は大戦に駆り出されていたサクラも請け負う。鍛えられたチャクラでのヒーリングは今もなお、戦渦の形影に苛まれる者を救った。
 擦れ違って、やがて後方へと遠ざかる話し声を、別の次元のことのように感じながら、サクラは長い通路の出口を目指した。ほの明るい曇り空の色が、おともなくサクラの面差しに、血色のない頬を殊更白く浮かばせる。それが少し、まぶしいようで目について、何気なく視線を窓に移すと、景色の中にふと佇む人影を見つけた。
 褪せた茂みと樹木の色に紛れて、いや、或る意味際だつ様子で、深い緑の背格好が立っている。敷地の北側はいつも人気がなく、殊更ここは色味の抜けた、枯れたような中庭であった。そんな場所でただ何もせずに、じっと過ごす心持ちを不思議に思った。近くのドアに回って、サクラは外に出てみると、羽織っている上着を引き寄せてゆっくりと歩み寄る。誰かが傍に来ても、押し黙った背中に特に変化はなかった。

「リーさん、どうしたんですか。こんなところで」

 反応をうかがいながら立ち止まったサクラは、やはり馴染みの装束をまとった、ピンと伸びた上脊を見上げる。土埃やしわの一切もなく、深みをたたえた緑は妙にうるわしく、修行や任務地に赴いた形跡はない。ここに留まる理由は分からないが、おそらく、療養中のガイを見舞いに来たのだと思われた。
 後ろでたたずむサクラを、リーは少しも気にしていないかのようだった。ただ、つづけて問い掛けるのをためらうような空気がただよって……いえ、とやっと間を取って、背中越しに声が返ってくる。

「少し……考え事を」

 振り返らぬリーの、拒絶に似た態度に、わずかに疎外された感じを受ける。端から近付くべきではなかったのだろうか、ただ気付いていたとして、多分サクラはほうっておけない。
 踏み込むきっかけをなくしてサクラが視線をおとすと、リーの足元付近を、暗紫色の花が息をころして群生していた。今の今まで、ここに。サクラがこの場所で見かけたのは初めてだが、確か……墓地の横手にも咲いていた。
 黙り込んだままのリーの動向が気になった。同時に彼が思案に没頭する理由を、しずかに悟った。

「……貴方だけではないわ」

 リーの苦しみの片鱗を、じっと感じ取るようにして、こみ上げるままにサクラは穏やかな声にのせた。未だ戦争の痛みに引き摺られる者を。肉親をうしなった仲間を。時としてこの手に得た知識と技術は、とても軽く、無力になる。
 漸く泰平のおとずれた現在に、すくわれるべき御影に寄りかかって何も悪いことはないのだと思う。本当は誰にも奪う権利などない筈だ。されど大切な人ほど、どうして。 
 傍らの存在に黙って意識をそそぐと、相変わらずリーは真っ直ぐに伸びた背中を此方に向けるだけだった。リーの心に踏み込むつもりはないが、どうもサクラとのあいだを見えない膜のようなものが隔てている、そんな予感に至った。それはかたくななリー自身の意思によるものなのか。うっすらと血の気が引いていく感覚の中、サクラは異形のものを見る眼でその足元をたどる。
 静寂を守り、それはひそやかに、リーのそばに寄り添って一様に黒々と染まった首をうつむけている。隙のあるリーをどこか惹き付けてしまうような、サクラはこの花がこわかった。

「……もう、いきましょ、リーさん」

 過去に向き合うリーの、何ものにも代えがたい時間を取り上げたくはなかったが、サクラは敢えて急かした。現実から逃れるというより寧ろ生き抜く為に。
 昨日をやり直すことはできない、けれど未来はある。故人が成し遂げられなかったこと、途方もなく大きな挑戦、日常に浮かぶ小さな夢、そのひとつひとつが今を生きる者に引き継がれていく。……もしもリーに、託されたものがあるのなら――。
 最初に返答したきり、依然として反応を見せない様に、サクラははじめて眉を寄せた。そしてはじめて核心に触れた。

「リー、さん…………何を考えているの」

 青褪めた声が胸の震えとともに駆け抜けていく。なかば吸い込まれそうな緑をサクラは息をつめて見守る。若しかしたら、追い詰めているのかもしれなかった。おそろしく暴力的な質問の答を、最初からリーが心にしずめていた思いなど。だれも触れることは許されない。
 大切な友人を奪われた僕の気持ちが貴女に解りますか。
 まるで、微動だにしない寡黙な背中はそんな強い意志を秘めていた。サクラには遠く思考がおよばぬ次元に。今リーがいるところは、とても、とても遠い。……光のとどかぬところだ。

「すみませんが、サクラさん」

 唐突に口を切ったリーに、サクラは思わずと身を硬くした。此方を射抜くような殺伐さはなく、凛とした佇まい同様に落ち着いていた。
 会話を向ける相手への最低限の心構え、というわけか、リーはわずかに顔をずらして、愁いのおびた横顔をみせた。少し伸びた前髪が睫毛にかかって、瞳に暗く影が降りている。サクラの知っている表情ではなかった。

「前々から、考えていたのですが……少しの間、木ノ葉を離れます」

 テンテンと、ガイ先生を……――。
 最後の方は、あまりにくぐもって聞き取れなかった。リーがいつも心に懸けていた、明るい班員と師の行く末を。最後まで案じて、そして放棄しリーはどこへ。
 段々と、散り散りになっていき、この先――あの班はどうなってしまうのか。

「ねえ、リーさん」

 俄かに旋風がおこってサクラは性急に声を向けた。この先絶対にひとりもかけてはならない。そんな信念が咄嗟にうまれて、荒ぶる風の中を構わず進む。病室の前を通り過ぎるたびに聞こえてくる和やかな笑い声を。あの場所には、リーの存在がきっと何よりも必要だ。
 必死の風貌で傍に来たサクラに、風の中に消えかけたリーが振り返る。リーの口元が何かを言おうとして、結ばれた。
 瞬間、弾かれるような衝撃を受けて、風が去っていった。付近の木の葉が舞い上がって、ほんの少し目を瞑っている間隙に、リーは忽然と姿を消していた。
 ほの白い空に、緑の葉がゆっくりとただよってその名残が見える。重い鎖に雁字搦めにされていた、彼の選び取ったひとひらの自由。それが破滅への軌跡にも思えるのは……またサクラの独り善がりなのだろう。




黒百合の花言葉:【恋・愛・呪い・復讐】


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