色鉛筆/ジンジャークッキー
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 薄墨のさらさらと連なった仮名たちが、さっきからもぞもぞと動き出したそうにしている。実際サイには、夢のような話だがそれができる。ひとたび印を結び、そのこころに命じれば、この墨で描いた様々なものが紙から飛び出して、主であるサイに従う。墨や筆などに、特別な力があるのではなく(サイにとっては選び抜いた拘りの品かもしれないが)、術者のチャクラと呼応する仕組みとなっている。この忍界に数多と存在する、所謂忍術の一種である。今日は特に、呼び出すほどの用事もないため、微細な震えをおこす字面にサイはそっと掌を当てた。
 筆を置くと、サイは完成した和歌の写しを持ち上げて、目でたどる。そうすると、綴った文字から色彩が生まれて、古に詠まれた歌の風景がまざまざと浮かびあがる。と言っても、感傷に浸っているのではなく、しばしばこれは、サイが絵の題材や色合いをイメージする際の発想の手助けとなる。

「サイ、お茶にしましょ。今日はクッキー焼いてきたの」

 傍らにコトリとティーポットが置かれて、肉桂の爽やかな香りが届く。熱湯を淹れて少し曇っている、ガラス製のその中で、琥珀色の飲み物にオレンジの輪切りが浮かべてある。此処は街中のカフェか何かなのか、無彩色な墨絵ばかり飾られた自宅のリビングで毎日恒例開催される『お茶会』だが、サイは徐々に受け入れつつある。
 サクラが十分に蒸らしたお茶を、揃いのガラスのカップに注ぎ入れる。この前はポットだけだったのだが、いつの間に揃えたのだろう。心なしかサクラは鼻歌混じりだ。大体この洒落たティーポットなんて、サイには使わせてくれない。先日緑茶を淹れようとしたら「これはティータイム用なの」と怒られた。正直なところ違いなんて分からなかったが、落としても面倒である、以来サイは触らないようにしている。
 半紙や墨を、脇に寄せて、ちびちびと注ぎ入れるサクラのお茶を待っていると、皿に並べられたクッキーが目に入る。岩のようにごつごつした見た目だが、こんがりと焼き色がついている。先にどうぞ、横目でサクラに勧められて、サイは何も考えずに一つ齧った。
 さっくりとして香ばしく、甘いバターの香りが鼻に抜ける。ただ随分、辛みのあるクッキーなんだなあと、何か歯ごたえのあるものをガリガリ噛んでいると、サクラが隣で息を呑んでいる。

「あ……!? いやだわ、それ失敗した方だった」
「……サクラ……そういうの、本当にショック死しかねないからやめてほしい」

 指先で摘まんでいるクッキーがほろりと崩れた。
 調子良く食べられたのは最初だけで、後から後から辛さが前に出て、口中がヒリヒリする。断面を見てサイは更に絶句した。みじん切りとは言えない大きさの生姜がごろごろ入っている。漠然と、サクラの作ろうとしたものが解ったのだが。ジンジャーって、そういう意味じゃ……。大きな勘違いをしたサクラは、恨めしいサイの視線を迎えうつ優しさで笑い返す。

「やあねえ、サイは大げさなのよ」

 ちょっと失敗しただけなのに、そう呟く彼女はこんな思いきっとしたことないのだ。何の疑いもなく思い切りガリガリ砕いてしまったサイの悔恨など。普段からサイを諭したり、常識的に振る舞うサクラだが、不意打ちで発想が突飛になる。

「そんなことないよ。今、随分辛みのあるクッキーなんだなあって、思ってしまったよ。クッキーってこんな味なんだなって、危うく君に騙されるところだった」
「分かったわよ、悪かったわ、サイ……ごめんね? ほら、お口直しに、『本物』のジンジャークッキーをどうぞ」

 捲し立てるサイの肩を、軽く押さえて、サクラがキッチンから、クッキーの盛られた別の皿を持って来た。
 改めてサイの前にお目見得したのは、綺麗な円形の、滑らかな表面が芸術品のようで、到底同じ人物が作ったとは思えない出来栄えだ。
 何だか丸め込まれている感が否めないけれども。これ? と、今度は疑り深く指先をクッキーに伸ばすと、サクラは頷いて、静かに見守る。

「おいしい」
「でしょ」

 成功したクッキー宜しく、目をまんまるに見開いたサイの無邪気な表情。それが可笑しいのか、サクラはいつまでも口元に笑みをのせている。
 甘さの中に感じる、ほんのりピリリとした生姜の風味が後を引く。先程は間違えて持って来られたが、全く見て呉れが異なるのにどこをどう間違えたのだろう。だが、『根底』は同じ気がする。さっきの失敗作も、どちらのクッキーもサクラの味がする。

「あら……? ねえ、あれ……」

 サクラが何かに気付いて、サイの傍らを覗き込む。見ると、半紙に書き綴った文字が、まだ細かく震えている。
 ああ、これは……と、宥めるように文字の上に手を置いたサイだが、サクラがひょいと紙を手に取った。

「恋の歌ね……あなたに分かる? サイ」

 サイの流麗な筆遣いで、つらつらと書かれた歌をじっと見つめて、蒼い瞳はどことなく感慨に耽っている。サイよりも女性のサクラの方が、複雑なその心の内を了知している気がする。

「意味は分かるよ。同じような心情は、味わったことがないけど」
「あらそう」

 サクラが意外そうな顔をする。少し恍けたようなサイの言葉も、何てことない二人の日常の掛け合いだ。その証拠にサクラはクスクスと笑い出す。

「じゃあ……サイがいつか、自分の恋の歌を詠む時が、きますように!」

 明るい声のあと、手元のカップがカチン、と幸福を呼び込む音を鳴らした。いつかの未来に、それはサクラの元に齎されるのだろう。


 サクラの大切にしているティーポットと揃いのカップたち。視界からそれが一つ消えていく。
 ポリポリとクッキーを摘まみながら、サクラはオレンジの浮かべたフレーバーティーを楽しんでいる。サイが残された自分のカップを引き寄せると、スパイスの混じった独特な香りが鼻腔に届いた。初めこそ馴染みがなく気後れしたものだが、飲んでみれば美味しいものである。サクラは色々なことを知っている。この先もずっと、いつかの未来も二人でこうしているような予感が。
 それはそれで楽しそうだ。ひそかに心の中で思って、サイは歪な形のクッキーを口に放り込んだ。



「サイ、それ、失敗した方の……」
「いいんだよ。この辛みが、なかなか癖になるんだ」
「そうなの……?」


ジンジャークッキー/恋歌


500色の色鉛筆

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