白雪
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 真白な雪の、美しいこと。

 はらはらと仄明るい空から己に注ぐ、大振りな牡丹雪を眺めながらネジはそんなことを思った。綿のようにふわふわとしているが、頬に当たると酷く冷たい。しかしもうそんな感覚も薄れてきた。
 雪に白鷺。そんな形容が相応しいほどにネジは白く白く染まっていく。解けて雪の上に広がる髪はしっとりと水気を含んで、黒白の斑紋となっている。凍り掛けた睫毛の先が重々しく上下して、惜しむように寒々しい異国の空を見つめた。そうして恋しい故郷を重ね見ているのか、雪の絡むそれは宛ら死に化粧のようで、忍としての最期と呼ぶにはあまりに奇麗過ぎた。
 里に戻ったら、従妹の修行を見てやる約束をしていた。しかしもう、どうにも帰れそうになかった。手元の雪を掻くように力を込めてみるが、起き上がることも儘ならない。端からこうなると分かっていたなら、絶対に引き受けなかったのに。無責任にそんな約束、しなければ良かった。ヒナタの悲しむ顔が浮かんでツウと胸が、赤黒く染まった傷口よりも痛んだ。

 もう、そろそろ頃合いかもしれないな――と。今は遠くて届かない望みを彼方に描きながら突如そんな風に自覚した。痛くて辛いこの身体から解き放たれて、自由になる感覚。雪に埋もれていくのとは反対に精神だけが浮上でもするように、空が急速に近くなった。余りの眩しさに、その温かさにネジは目を細める。今しがたまで雪が降っていたようだがどうしたことだろう。いや、抑も何故そのような所にいたのか、自分が何者で何をしていたかさえ分からなくなる。都合の良い記憶の抹消措置はネジを随分と楽にさせる。重たい荷物は全て置いて、体一つで上がってきなさいとどこか懐かしい声が聞こえた。幼少の頃、襖を開けると目に入る、文机に向かう生真面目な背中が好きだった。顔も名前も思い出せない、だがこのまま導かれれば会えるのだろうか。淡い期待感を伴って光に惹かれるように片手を伸ばした―――刹那、身体を後ろから強く引っ張られて、背中に衝撃が走った。








「こンっのバカッ! なーにがオレに任せて先に行け、よ! カッコつけているからこんな目に合うのよ!? 大体私達がアンタを置いていくわけないじゃない! ほんっとバカね!」

 

 目が覚めるような鮮烈で乱暴な言葉の塊が幾つも幾つも空から降ってくる。その通りにぼんやりと覚醒したネジは、声と共に曇天から降り頻る白い雪を『地上』で今一度見た。今感じた懐かしい光をじっくりと辿っていたかったが、尖らせた声の主がそれをさせない。うるさくて頭が割れそうだ。馬鹿よ馬鹿よと、一体何を以てそう決め付けるのか。こんな暴言をネジ相手に寄越せるのは、一人しかいない。

「テンテン、今はそんなこと言っている場合では……」

 傍目にも重体と分かるネジを慮る、彼の口振りは落ち着いていた。こういう時にリーは無駄に燃えることなく冷静さを見せる。だから頼りになった。自分がいなくなっても安心して班を任せられた。その、覚悟だった。
 両側から自分を覗き込むふたつの顔の、何方を見るともなくネジは視線を彷徨わせる。あやふやだった記憶が呼び起こされて、頬に冷気の感覚が戻る。そう、何故、戻ってきた。そう詰りたかった唇はカタカタと震えるばかりで何も告げられなかった。

「分かっているわよ。リー、ここにネジを」

 僅かなネジの変貌を、注意深く認めていたリーがテンテンの声に意識を移した。深手を負って身動きの取れないネジに散々喚き散らしていたテンテンが、横たわるネジの傍に手早く巻物を広げてリーへと指示する。忍具を呼び出す素振りもなく、意図が分かり兼ねてリーは直ぐには動き出さなかった。テンテンの広げた巻物には、いつものそれとは異なる、見慣れぬ術式が施されている。

「里まで転送するわ。この距離だと、少し時間かかるかもしれないけど……綱手様に直接看てもらいましょ。急いで」
「えっ……そんなこと出来るんですか?」

 全く思いもしない要求に、失礼ながらリーはつい聞き返す。しかし今まで、忍具を口寄せするばかりだったので、彼女の巻物はそういう使い道なのだと思っていた。
 ネジを挟んだ両側で、白い息を吐き出す両者が緊迫した空気を作る。事態は一刻を争う。場所は木ノ葉から離れた雪深い他国だ。だが―――此方には時空間忍術に長けたテンテンが、ついている。

「私を誰だと思っているのよ。なめないでちょうだい」

 リーの辛辣な評価が心外だとばかりに、強気な茶色の瞳に力が籠もる。不敵に唇を緩めた頼もしい姿にリーの不安は完全に消えた。必ずネジを生きて里に帰らせる。テンテンの齎す望みの糸に先行きの明るい未来を見出した。――そんな頃合い。
 意識を取り戻し、呼吸の為に動き出した臓器の圧迫の為か、ネジの忍装束にじわじわと新たな染みが広がっていく。目にも鮮やかなそれを認めて、二人同時にはっと息を詰めた。すると、横から白雪と見紛う手がするりと伸びて、そっとネジの脇腹に添えられた。

「あの……応急処置、ですが……」

 汚れるのも厭わず、傷口に宛がわれる小さな掌は、清楚な花の如く凛としている。ネジと同じ色の瞳を持つ、その表情も。テンテンとリーに連れられて、後ろから心配そうにネジを見つめていた彼女は、綱手から彼らの『援軍』を仰せ付かって駆け付けたネジの従妹だった。
 掌から与えられる熱をじっくりと感じ取るようにネジは瞼を閉じる。頼りなげに揺れる言葉とは裏腹、ヒナタのチャクラの波動は安定していた。彼女はチャクラのコントロール能力に優れており、それなりに医療忍術の手解きも受けている。そこに、この先の彼女の必要性を見越して、リーは重大な決断をした。

「テンテン、二人一緒に、いけますか?」

 真剣な眼差しでそう迫るリーはテンテンの思考を攫ったようだ。彼女の用意した転送装置に、ヒナタも入れるかと単純に頼んだ訳なのだが、反応のない忍具使いの彼女の表情から、多分実力以上のことを求めた。失敗すればどうなるかは、リーには分からない。

「え……ええ……たぶん。がんばるわ」
「が、頑張ってください! テンテン!」

 若干固い声付きを以てテンテンは頷いた。そこで、急にあどけなさを漂わせた班員を激励しようと、したのか、リーに行き成り『スイッチ』が入った。
 フレー! フレー! テ・ン・テン! と空を裂くような大音声で仲間を応援するのは宜しいが置かれた状況をもう少し考えて欲しい。今雪崩でも起こったら手負いのネジは明らかに逃げ遅れる。いよっ、忍界一の忍具使い! とリーから高過ぎる誉を受けたテンテンは満更でもなさげに頬を緩ませ、ヒナタはぽかんとしている。これだから不快だと言わんばかりに、ネジが思いっ切り眉を顰めた。

「……おまえ、ら」

 頭というか、傷口にまで響く騒ぎにネジは命懸けの突っ込みを敢行する。助っ人のヒナタはそこまでのスキルを持ち合わせていない。掠れた声の先を労わるように、リーがネジに向き直ったが、どこかあしらうようでもあった。

「あぁ〜〜もうネジはしゃべらなくていいですから! 大人しくしていてください。お礼なら後でゆっくり聞いてあげますから」
「リ、リーさん……! も、もっと丁寧に……」

 徐に、有無を言わさずに持ち上がったネジの体が、思いの外あっさりとリーの腕から離された。テンテンの広げた巻物上で、少しばかり派手に弾んだ従兄の体にヒナタは真っ青になる。

「大〜丈夫よ、こんなことくらいでくたばるネジじゃないもの」
「……っいい加減に、しろ」

 どうやらこの場に常識人は自分とヒナタしかいないのか。青くなった彼女とは対照的に朗らかに笑うテンテンに、ネジは顔を顰めながらやっとそれだけ言い切った。人事だと思って好き勝手してくれる。ついさっきまで危ういところを彷徨っていたのだが、何だか傷が軽いように思えてきた。このチームメイト達は易々と眠らせてはくれない。仕方ないからもう暫く付き合ってやるとネジは投げ遣りに自分の命を彼らに託した。

 テンテンが真面目な面持ちに戻って印を結ぶ。と、ネジの背中の下に施されている難解な術式が余白いっぱいまで拡張して、ネジを時空の歪みへ引き摺り込んでいく。既にヒナタもネジの治療を続けながらその側に付いている。多分一人分だろう転送装置は、それでもテンテンが、有りっ丈のチャクラと共に、飛ばしてくれた。ネジの体に掛かる自然には発生し得ない負荷が、傷口に触れている手からヒナタにも移る。あまりの圧に彼女がネジへと身を伏せた瞬間、どこかあの時受けたような閃光が目の前いっぱいに弾けた。

 これが父の加護だとするならば。
 彼はこの先もネジを見守っていてくれるということだろうか。





――――父と仲間達による、ネジの引っ張り合いっこ。背中に受けた衝撃は仲間達が勝利してネジを連れ戻した瞬間。
 天国の入り口まで迎えに来たのだが、死んでも離すまいとネジにしがみ付くテンテンとリーに、苦笑に塗れながら結果父がネジを諦めた。易々と眠らせてはくれないのだ。あと少しで『再会』を果たせる父子を前に彼らは一歩も引かなかった。

 ネジを下ろす前からリーの手が細かく震えていた。散々怒鳴りつけていたテンテンは目に涙をいっぱいに浮かべていた。気付いていないと思っているのだろうがネジにはちゃんと。







 ぼんやりと見上げてくる乳石英の瞳に、ヒナタが同じ色を合わせてゆっくりと微笑い掛けた。里に戻ったら手合いをするという彼女との約束が果たせそうだ。この分だと少し、遅くなりそうだが。
 口を開き掛けたネジにしかし、何も言わなくて良いとヒナタが静かにかぶりを振る。本当は父に会うところだったことも、話したかったのだが、ネジは大人しく年下の彼女に従って瞼を閉じた。身体がじんわりと温まってきて、少し休みたくなった。
 ヒナタの心地良いチャクラに身を預けて見る、ネジの夢は蒼天を翔けた。



(了)



(『amaryllis』4周年記念SS)

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