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「あら、珍しい」

初めて来たとは言え、そこがレイさんの帰る場所であると知っていたから、珍しいというのが自分にかかる言葉なことくらいは分かった。緊張した面持ちのまま入り口で突っ立っていると、レイさんがくすくすと笑う。

「急に借りてきた猫のようじゃないか」
「だ、だって…!」
「ウフフ…取って食べたりしないわ。座って。何にする?」
「えっ、ええと…」
「ミルクティーを」

私がどもるのを見かねてレイさんが口を挟む。特に異議はなかったので、私は軽く頭を下げてからおずおずと席に着いた。
これがあの噂のシャッキーさん。想像していたよりもずっとずっと美人で格好いい。これならなんだか、色々と納得だ。少ししてアイスミルクティーの入ったグラスを持ってきたシャッキーさんは「甘いのが好き?」と問うので、私は大きく頷いた。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます…」

私の好みに合わせてガムシロップが足されたミルクティーを受け取って口をつけようとしたところで、表の看板を思い出す。ぼったくりという字面に釘付けになって恐怖を感じていたというのに、秒で忘れようとしていた自分の頭の軽さに呆れる。ストローをつまんだまま固まる私に何かを察したのか、シャッキーさんはニコリと笑って更にケーキも出してくれた。

「レイさんが連れてきた女の子からお代は貰わないわ。あの人につけておくもの」
「おいおい」

冗談めかしたそれに(本当なのかもしれないけど)不思議と緊張もほぐれていくようで、軽くなった心のままチーズケーキにフォークを突き刺す。私が上機嫌にもぐもぐと食べ始めると、シャッキーさんは穏やかに目を細めた。

「お名前、何て言うの?」
「あ、名前って言います」
「そう、かわいい名前ね」

何気ない返しでも、顔が熱くなっていくのを感じる。シャッキーさんには、女の私でもドキドキしてしまうほどのセクシーさがあった。

「で、レイさんはこんなかわいい子連れてくるなんて、どういう心境?」
「ただのお茶だ。彼女から誘われたんだが、すぐ近くにいい店がなかったんでね」

移動が面倒だったと言われればそれまでなのだが、わざわざここに連れてくる必要はなかったとは思う。店なんて探せばいくらでもあるのだから。
それでもレイさんが私をこの場所に招いてくれたというのは、何か特別な意味を勘繰りたくなってしまうもので。だって、シャッキーさんが初めに「珍しい」と言ったのは、多分そういうことなのだ。

ミルクティーを吸い上げて喉を潤した私は、この店に来てようやく自分から声を上げた。

「私、シャッキーさんに会えて嬉しいです。ずっとお話してみたかったものですから」
「あら…レイさん、この子もらっても?」
「やめてくれ」

レイさんが苦い顔で止めるのを面白い気持ちで眺めながら、私と距離を縮めてくるシャッキーさんにドキドキする。「私は除け者かね」とレイさんが珍しく拗ねたようにグラスに口をつけるので、更に面白くなってしまった。

レイさんを見かけて、少しの時間でもいいからご一緒したいですぜひお茶でもー!と強引に誘ったのは私の方だが、そんな私がレイさんを放ってシャッキーさんを口説くのはさすがに不満らしい。それもそうだ。シャッキーさんもレイさんの様子が可笑しくて仕方ないらしく「心が狭いわね」と揶揄る。

「この人関係なく、いつでも来てちょうだい。私、大歓迎だから」
「うれしいです!」
「それで、私と何をお話してみたいのかしら」

カウンターに肘をついてセクシーにタバコをくゆらすシャッキーさん。口に出そうとした内容に、レイさん隣にいるけれどとは思ったが、今更取り繕っても遅いことを悟って私は構わず口を開いた。

「私、レイさんに抱いてもらえないんです」
「ゲホッッ」

むせたのはシャッキーさんではなく、隣にいたレイさんだった。まさかシャッキーさんにその手の質問をぶつけると思っていなかったらしく、呆れ半分驚き半分で私を見つめる。構うものか。こちらは死活問題なのだ。ワンテンポ遅れて、シャッキーさんの大きな笑い声が店に響く。

「アッハッハッハ!!フフッ、そうね、それは名前ちゃんがかわいすぎるからじゃないかしら」
「ええ?それはどういう」
「手を出したくないんじゃなくて手を出せないんでしょう?ねえ、レイさん」
「んん…勘弁してくれ」

靡いたロマンスグレーに一目惚れだった。うっかり治安の悪いグローブを通ってしまった時、ガラの悪い輩に絡まれて困っていたところを助けてくれたのはレイさんだった。
老骨、というにはあまりにもしっかりとした体つきに、柔らかくて低い声。恋はハリケーン。愛の突風に襲われた私は、その日からレイさんに言い寄るしつこい女へと変貌を遂げた。

少しレイさんと話せば分かることだが、レイさんは身持ちが堅い男とは正反対の性分だったにも関わらず私に対しては首を横に振った。私が処女だからですか、と半泣きで見上げれば、やっぱり処女かみたいな顔をしていた。大変なショックだった。
じゃあそこら辺で捨ててきます、と立ち去ろうとすれば、こらこらと引き止められて、結局私とレイさんの間に未だに体の関係はなく、今日のようにたまにお茶する程度の仲に留まっている。
恐らくだが、レイさんに悪くは思われていないと思うのだ。いや、放っておけないと思われているのかも。いくらレイさんとは言え、NOの雰囲気はそれなりに分かる。私が迫ることに対して拒否は見せても、私が傍にいることに関しては何も、むしろちょっと嬉しそうな顔をするからずるい。

ずぶずぶと私が抜け出せない状況に陥りつつあるのは自覚できていた。それでもまだ私は諦めていないんだぞという姿勢を見せるために爆弾発言をかましてみたわけだが、シャッキーさんの答えはどうにも要領を得ない。やっぱり処女の恋情は重いって話だろうか。

「私、頑張ってみてもいいのか、不安で」
「ダメなんてことはないわ。私、名前ちゃんがレイさんに一泡吹かせる日が来るのが今から楽しみだもの。フフ」
「シャッキーさあん…」
「応援してるから」

パチンと妖艶なウィンクを貰って、私はカウンターに置かれていたシャッキーさんの手にしなだれかかった。レイさんは始終気まずそうな顔をしていた。ちょっとだけ、困らせているのが嬉しいとか、全然そんなこと思っていない。

***

普段だったら治安の悪いグローブに足を運ぶことなんてないのだ。怖いし、面倒だし、怖いし。けれど、レイさんに出会ってからそれは一変してしまった。彼の姿を見ることができるのはどうしたってそっち方面なのだから仕方ない。おかげでガラの悪い連中からの切り抜けスキルがここ最近上がってきているような気がする。
今日も仕事を終えてなんとなくレイさんがいそうな方面に足を運んで、まあ見かけなかったらシャッキーさんのところに遊びに行こうかなと考えていたところ、揺れる灰色が視界の端に映った。今日の私は本当にツイている。

「おや、」

私が声をかける前にレイさんがこちらに気が付いて歩み寄ってくる。それに嬉しさを感じながら私も駆け寄る。その腕に勢いをつけて飛び込めば、待ち構えていたかのように抱きとめられた。レイさんの香水の匂いに包まれて、抱えきれない胸の高鳴りと、ほのかな安心感。

「今日も賭場帰りですか?」
「キミも中々言うようになってきたな…」
「お酒の匂いはそんなにしないけど、タバコの香りがするので」
「いつから探偵になったのかね」
「えへへ〜」

勝手に誉め言葉として受け取って、上機嫌にすり寄ればレイさんの手が私の髪を梳いた。

「…レイさん、お時間あるんですか?」

これからどこに行くのか、と訊けないのはいつものことだった。だって、レイさんが女の人の所に寝泊りをしているのは知っていたし、もしその人の所に行くなんて言われでもしたら、うまく表情を作れる自信がない。レイさんの行く先は、基本的に知らないままでありたいのだ。

「ああ。…一緒に散歩でもするか」

腕を差し出してそう言ってくれるということは、しばらく一緒にいていいという事。私はレイさんの腕に飛びついて、幸せを肺いっぱいに吸い込んだ。
いつも通りに行くと、このまま二人でぶらぶらと歩いた後ご飯を一緒に食べて解散。しがみついている腕の体温に、僅かな欲が出た私はお決まりのコースをなぞるのが惜しくて、そろりとレイさんを見上げる。

「ん?どうした」
「…その…私の家に今、美味しいお酒があるんですけど…、レイさん好きかなって…」

家に誘ったのはこれが初めてだった。私も処女なもので、中々男性を家に誘うというハードルが高く挑戦したことがなかったのだが、そうも言ってられない。いつも通りをなぞってばかりじゃ、レイさんとの関係は進展しないのだから。
私の拙い誘いに、レイさんはしばらく表情が固まっていた。これは、ダメなやつだろうか。やっぱり家に入ったら襲われるとか思われてしまったか。そりゃあ、何かが起きるに越したことはないが、そんな急に覆いかぶさろうだなんて思ってない。ちょっといい料理と、ちょっといいお酒でそれっぽい雰囲気に持ち込みたいだけだ。

邪な考えが見透かされたのかと落ち着かない気持ちになっていると、ふと顔に影が差す。レイさんは私の頬に手を添えると、覗き込むように私を至近距離で見下ろした。

「…驚いたな。そんな誘い文句、どこで覚えてきたのか」
「お、覚えたなんて人聞きが悪い!私はレイさん一筋です!私はね!」
「はは、そうかそうか。突然成長を見せるものだから面食らってしまってね」
「ドキッとしたってことですか?」
「それはどうかな」

意地悪に笑ってかわされてしまうので、怒りで頬がぷくっと膨らむ。びっくりしたのはこちらも一緒だ。一瞬キスでもされてしまうのかと思った。熱い頬を冷ますようにぱたぱたと顔を仰いでいると、レイさんが「お言葉に甘えることにしよう」というので、間抜けな顔で聞き返してしまう。

「へ?」
「お邪魔しても構わないのだろう?」
「か、構わないです!歓迎します!」

大声で返事をすると、レイさんは満足そうに目を細めた。

それから二人で食材を調達して、私の家へと向かった。綺麗にしているはずだよね、問題ないよね、下着とか出しっぱなしにしていないよね、と自分の記憶に何度も問いかけたが、不安は拭えない。家に上げる側が何故かドキドキしながらドアを開けて、とりあえず人に見られても平気な状態だったことに息をつく。

「ど、どうぞ。あんまり綺麗じゃないかもですが…」
「そんなことはない。…キミらしい、いい部屋だな」

どういう意味だろう…と遠い目をしてしまったが、深く突っ込まないでおこう。墓穴な気がする。荷物を置いてから、酒のつまみを作るためにさっそくキッチンへと立つ。レイさんにはお茶を出して、座っていてもらうように言ったのだが、私が料理を始めるとふらりとレイさんもキッチンへと入ってきた。

「そんな凝ったものは作れませんからね」
「キミの手料理ならなんだって歓迎だ」
「みんなに言ってそう……」

レイさんの台詞に女性の影を感じてつい口を滑らすと、レイさんがきょとんとした顔を見せる。今更下降した機嫌を取り繕うのも遅くてわざとらしく視線を逸らすと、レイさんはくすくすと笑いながら野菜を洗っている私の袖を後ろから捲り上げた。距離の近さに言葉を詰まらせていると、レイさんが楽しそうにしているので仕返しされたと唇を噛む。
もう、出てってください!とレイさんをキッチンから追い出して、私はやや乱暴に包丁を振るった。怒りのおかげか、料理ができるのは速かった。

レイさんを釣るためのダシであったお酒と簡単な料理をテーブルに並べて、レイさんの分だけグラスを出す。すると、レイさんがぱちりと瞬いて私の顔を見た。

「キミは吞まないのか」
「お酒好きじゃないって知ってるでしょう」
「あんな風に誘われたら一緒に呑んでくれるものかと思ったんだが」
「…酔わせるつもりですか?」
「そんな悪い男に見えるかね」
「見えます。し、私はべつに、悪いことされてもいいですけど…」

口を尖らせてぼそぼそ言うと、レイさんが朗らかに「しないよ」と答える。そんなはっきり言わなくてもいいのに。私は半ばやけになって自分の分のグラスも出すと、レイさんが嬉しそうにした。
二人のグラスにお酒を注いで軽く乾杯をする。レイさんが口をつけて美味しそうな反応をしたのを見てから、私も恐る恐るグラスに唇を滑らせた。

「あ、結構美味しい」
「それはよかった」
「今度シャッキーさんにもプレゼントしよう〜」

きっとこういうの好きだろうな、と持って行った時のシャッキーさんの反応を想像して勝手に上機嫌になる。今度訪ねる時が楽しみだ。シャッキーさんは手土産持っていくと必ず喜んでくれるから、ついつい貢ぎたくなってしまう。そんな私の様子に、レイさんは頬杖をつきながら意外そうに呟いた。

「キミは本当にシャッキーのことを慕っているな」
「かっこいいじゃないですか、シャッキーさん」
「ん、まあいい女だな」
「憧れなんですよね〜」

レイさんは何故だか複雑そうな表情を見せて、微妙に唸りながら顎をさすった。

「キミにああなられると、いささか困るんだが…」
「敵わないってことですか?」
「……」
「…目指しちゃおっかな」
「こらこら」

将来はシャッキーさんみたいな女性に、なんて素敵な夢だ。レイさんのこともきっと手のひらで転がすことができる。けれど、私がシャッキーさんのようになれる頃には、レイさん生きてるかな。…無理かもしれないな、と冷静になってくる。それでもレイさんが勘弁してくれのポーズをとるので、なれるかどうかは別として今この瞬間気分は良くなった。

気分がよくなって酒をあおり、自然とそのままペースが上がっていき、しばらくするころにはかなり出来上がった状態になってしまった。普段はここまで楽しくならないのだが、やはりレイさんと一緒だからだろうか。ついつい呑みすぎてしまった。
ふわふわとする思考の中、レイさんが水を差し出してくれる手をぼんやりと捉える。その手に顔を寄せると、レイさんの「かなり酔っているな」と困ったような声が聞こえた。

「れい、さん」
「うん?」
「やっぱり、魅力ないですかね。めんどう、ですかね……。わたし、女性には見られてないですか」

女性扱いはされていると思う。それでも、私に肉欲的なものを抱いてもらえないのは、どこか娘のような存在に思われているのかもしれない、という懸念がずっとあった。私、大人っぽくないしそう思われても仕方がない。

「そんなことはない。キミは魅力的な女性だ」

どうしても肉体関係になりたいかと言われると、きっと心の底はそうじゃなくて。女性としてレイさんに愛されたいと、そんな風に錯覚できるのはやっぱり肉体関係なんじゃないかと思って、ずっと求めていたけれど。体だけの関係ですら相手にされないのでは仕方がない。今のまま、娘のような、姪っ子のようなポジションに納まり続けるしかないのだろうか。
いつの間にか目尻に浮かんだ涙を、レイさんの指が掬い上げる。そのまま目元、頬、耳と撫でられて、レイさんの指の感触をゆらゆらと追いかける。

「キミを手放すことも抱くことも容易いのに、そのどちらともしないのは私の欲だ。……本当に、この歳になってもままならないものだな」

自嘲と、…愛情に満ちたような声音、そう感じた。その声がひどく私に染みるようで、嬉しくて。レイさんの指先をきゅっと握りながら、私はうわごとのように離れたくないと口にしてしまった気がした。

「…私もだよ」

低く甘やかな余韻が鼓膜を揺らして、私はするすると意識を手放していく。瞼に降りてきた口づけの気配に、幸福で喉が詰まってしまうんじゃないかと思った。どうか、夢じゃありませんように。


手折って純情


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