a/hanagokoro/novel/1/?index=1
TopMain嫌よ嫌よも好きのうちではない
なんてことだろう。失態も失態、大失態である。くの一のたまごとのしての矜持がへし折れそうになるほどの屈辱を感じながら、私は土くれの中、空を見上げた。
忍たまの罠にはまってしまうなんて…。つい先ほど、図書室に向かうため近道を通ろうと忍たまの敷地を横断したところ、気の抜けていた私は印にも気づかずまんまと落とし穴にはまってしまったのだ。思いだすだけで恥ずかしい。
ああもう、上級生にもなってこんな失敗するなんて。早く穴から出なきゃという気持ちより、暴れまわりたいほどの羞恥が襲って穴の中で一人身悶える。本当に図書室に行って帰るだけのつもりだったから、穴から出れそうな道具は何も持っていない。自力で出るのは不可能だ。人通りも、夕暮れ時であまり期待できるような時間ではなかった。
返そうとしていた本は、すっかり泥で汚れてしまっていて、情けなさが大波の様に押し寄せる。鼻の奥がツンとしたところで、泣いたら更に惨めになるだけだと、私は勢いよく頭を振った。だめだめ、泣くなんて、くの一はそんな弱いところは見せないのだ。

深呼吸を繰り返して、私はどうにか平静を取り戻そうとする。手の甲を爪先で抓れば、僅かな痛みが幾らか気分を落ち着けた。そうして第一に思ったことは、こんな様、忍たまには見られたくない、という気持ちだった。なんて言われるか、最悪どんな辱めを受けるか分からない。そうなると、やはり一刻も早く出なければ。
自身の爪を見ながら素手で登ることも考え始めていると、がさりと物音がして人の気配。反射的に身を強張らせて、忍たまだと思うと声も上げれずに固まっていると「またこんなところに穴掘りやがって…」という低い声が聞こえた。

「ん?伊作…ではないな。くの一か」

くのたまか先生の誰かであれと祈る気持ち虚しく、ひょこりと穴を覗いたのは忍たまの六年生、食満留三郎だった。こんな現場を忍たまに見られてしまったという気持ちで顔に熱が集まるのが分かる。顔見知りの忍たまではなかったのが僅かな救いだろうか。

「大丈夫、ではなさそうだな。待っとけ、今縄梯子持ってくるから」
「結構ですっ!!」
「は?」

思わず反射でそう叫んでしまって、食満先輩がきょとんとする。食満先輩に救ってもらう以外の道はないと分かっていても、どうにも忍たまに助けられるという状況を体が拒否してしまって仕方がない。俯いた私に、食満先輩は「あ〜…」と困ったような声を出した。

「一応訊くが、望んでそこにいるわけではないんだよな?」
「……」
「見たところ落ちた拍子に怪我もしてるようだし…、まあなんだ。おれも先生方を呼んでくるほど暇じゃなくてな、諦めて救出されてくれると助かる」

そう言って、食満先輩は縄梯子を取りに行ったようだった。ああまで言われてしまっては私も観念するしかなくて、唇を噛みながら食満先輩が帰ってくるのを待つ。私が断った理由も、あっさり見抜かれているようで余計に情けなさが募った。

「ん、気を付けて上がって来いよ」

かちゃかちゃと音を立てて縄梯子が下ろされる。今更暴れまわる気にもならず、私は大人しく縄梯子に足を掛けた。上まで登り切ろうとしたところで、食満先輩の腕が伸ばされて力強く引き上げられる。全く予想してなかった補助に私は小さく悲鳴を上げて、食満先輩の体に倒れ込む形で地上に出た。

「悪い、怪我庇ってるようだったから。足と、手首」
「これくらい、平気です」
「そう言うと保健委員長にしこたま怒られることはおまえも知ってるだろ。ほら、行くぞ」

ほら、ってなに。ありえない気持ちで食満先輩を見ると、何故か当たり前のようにこちらに背を向けていた。おぶさって保健室に行くつもりであると気づいてから、私は這うようにしてその場を後にしようとする。

「行くとしても一人で行きますから!これ以上は助けてもらわなくても結構です!」
「あー…、じゃあ力ずくで行かせてもらうからな」

六年生の「力ずく」というのはそれなりに恐怖を与える言葉で、背筋にひやっとした感覚が走るのと、食満先輩の腕が私の体を持ち上げたのは同時だった。

「ぅ、わっっ!?な、なに、や、降ろしてください!」
「保健室に着くまでは何も聞こえなかったことにするぞ、おれは」
「食満先輩!!」

悲鳴のような声が出たが、食満先輩は本当に聞く耳を持たずにすたすたと歩いていく。まさか強制的に横抱きにされて運ばれるとは、思いもしなかった強引さに開いた口が塞がらない。こんなの人に見られたら私は今すぐ自殺を図る。幸運なことに、周りに人はいなかったが。

私は忍たまが、いや、男子が嫌いだ。うるさくて、粗雑で、汚くて、乱暴で。昔から、忍たまを罠にはめるとこれでもかというほど胸がすく。いつも見下ろしてくる男子をこちらが見下ろせる立場になるから。
だから、知らないのだ。男子という生き物は私のことを軽々しく抱き上げることができるほど、逞しい腕を持つなんて。
先程から節々で見せつけられる食満先輩の力強さと、それを優しさにしか使わない人柄に、私は許容量を超える混乱が起きていた。男子は昔からずっとずっと、大嫌いな存在のはずなのに。

打って変わって大人しくなった私に、食満先輩はちょっと怪訝そうな顔をしながら保健室の戸を足で開ける。…行儀悪いな。
鼻をつく薬草の香りと、善法寺先輩の「えっ!?」と驚いた声。そうだ、この人私を横抱きにしたままだ。

「くの一が落とし穴に落ちてたんだ。伊作、手当てしてやってくれ」
「ああ、なんだそういうこと…」

善法寺先輩は納得したように息をついて、降ろされた私の怪我を診ていく。「後は頼んだ」と食満先輩は立ち去る気配がしたので、私は慌てて振り向いた。すると、目が合った食満先輩はいつのまにか私が懐に入れていた、図書室に返却する予定だった本をかざす。

「これ、図書室に返すやつだろ?おれの方から返しておくぞ」
「えっ、」
「じゃあお大事にな」

私の礼も受け取らないまま、食満先輩は一方的に言い残して保健室を去っていく。私だって、ここまでされて礼を言わないほど不躾ではないというのに、それを聞く前に行ってしまうなんて。私が唖然としている間も、善法寺先輩のテキパキとした治療は続けられていて、気持ちが追い付かないまま私はそれを眺めるのだった。

***

後日、包帯を替えに来てねと善法寺先輩に言われていたので、大人しく保健室を訪ねると、善法寺先輩が私の顔をみるなり「あ」と声を上げる。

「これ、留三郎から預かってたんだ」

食満先輩から、と名を聞いただけでどきりとしてしまう自分がいて嫌になる。決して期待をせずに善法寺先輩の手元を見つめていると、懐から取り出されたのは私が故郷の友達から貰って大事にしていた小物入れだった。

「それ…、」
「留三郎が穴を埋めるときに見つけたらしいよ。落ちた拍子に壊れちゃってたみたいだけど」
「え、でも」

壊れていたというわりには、善法寺先輩から受け取ったそれはいつも通り、というかいつもより綺麗になっているくらいだった。私が呆けた顔で見上げると、善法寺先輩がにっこりと頷く。

「留三郎が直したんだよ」

私はそれを聞いた途端、もう堪らない気持ちになってぎゅっと強く歯を噛み合わせる。こうでもしないと今の感情を抑えられそうになかった。一から十まで助けられてしまって、もう認めたくないだなんて言ってる場合ではない。圧倒的完敗だ、色々な意味で。宝物である理由が一つ増えてしまいそうな小物入れを握りしめて、私は今更真っ赤になった顔を隠すわけにもいかず俯いた。

「何か伝言はある?」
「いえ……、直接伝えるので、いいです」
「そっか」

はい、と綺麗に替えられた包帯。私は善法寺先輩にお礼を述べて、ひょこひょこと足を庇いながらある人物を探しに向かった。


お目当ての人物は、今日も同級の迷子らを捜しに奔走していると思ったが、どうやら違ったらしい。見事に罠にはまって情けない声を上げている様を、私はいつもなら嘲笑っていたはずなのだが、今日はそんな気分にもなれない。これは恐らく喜八郎の罠ではなく、くのたまが仕掛けたものだ。悪意のある仕掛けになっているからすぐ分かる。
私が歩み寄ると、更に追い打ちをかけられるのではないかと作兵衛が怯えた表情をした。そう反応されるのは分かり切っていたことなので、特に何も思わず懐から苦無を出して作兵衛の足に絡みついた縄を切る。解放された作兵衛は思いがけない私の行動に動揺した様子で、私を見上げた。

「ねえ、作兵衛」
「な、なんだ!?」
「……食満先輩って、甘いもの好き?」

私の問いにさっと顔色を変えた作兵衛は、絶対失礼なことを考えてるに違いなかった。


嫌よ嫌よも好きのうちではない


prev │ main │ next