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どうしよう…、そんな情けない呟きは地面に吸い込まれて、世界に自分が独りぼっちな気がした。それぐらい落ち込んでいた。
くの一教室で出された、毒入り(と言ってもお腹を下すだけだ)お饅頭を忍たまに食べてもらうといった課題を、周りで私だけが達成することができずに途方に暮れていた。周りの子はみんな嘘をついたり、愛想良く振舞って陥れることが得意だけれど、私はどれも苦手で。次々と周りの子が課題をこなしていくのを横目でおろおろと見ていたらこのざまだ。私、くの一に向いていないのかもしれない。
どうしようもない現実から逃避するようにしゃがみこんで、捌けることのないお饅頭を見つめていると「ねえ」とあまり抑揚のない声が降り注いだ。驚いて弾かれたように顔を上げると、こちらを見下ろすまんまるな瞳。忍たまだった。同い年の二年生。名前は確か、そう。綾部だ。
私が驚きのあまり何も返せずにいると、ついっと視線を私の手元に向けた綾部は「それ、」と指さす。

「余らしてるんでしょ」
「え…うん…、そう」
「他に当てがないならよこして」
「えっ!」

なんだって忍たまからそんなことを言い出すのだ。今の時期、くの一教室の子は一斉にこの課題に取り組んでいるから、くの一が持っている饅頭は毒入りなことくらい分かるはずだ。この課題は遅れをとればとるほどこなしにくい。だから私が途方に暮れているわけで。
申し出の真意が読めずに私が固まっていると、綾部は少し眉を寄せて不機嫌そうに「あるの?」と訊いてくる。嘘をつく理由も見当たらずに私が首を横に振ると、次の瞬間には手元の饅頭を奪われていた。あっと驚きの声をあげると同時に饅頭を口に放り入れた綾部に、私はただ呆然とするしかなかった。

「な、なんで」

今この時ばかりは課題がどうとかではなくて、純粋に困惑が立ち込める。動揺のまま口を滑らすと、咀嚼のち、ごくんと飲み込んだ綾部が口の端を拭いながら、私をどこか呆れたように見つめた。

「だって、あんまりに落ち込んでるから」

それを聞いてようやく、目の前の綾部が他意なく本当に優しさで声をかけてくれたのだと分かった。じわじわ押し寄せてきた課題を達成できたという安堵と、唐突に触れた優しさに目頭が熱くなる。けれど、最後の矜持がここで泣くわけにはいかないと留まらせるので、私はぐっとこらえて口を開いた。

「ありがとう…」
「どういたしまして」

何を求めるわけでもない綾部の声に、忍たまだってそんなに悪いもんじゃない、と初めて認識を改めた。私にとって忍たまは、ただ恐くてできればあまり関わりたくないものでしかなかった。けれど、もしかして、そんな風に思うものではないのかも。…綾部が特別なのかもしれないけれど。
とにかくその日私は、綾部の気まぐれに救われたのだ。それは事実だった。

***

「楽しいの?」

普段、自分から忍たまに声をかけるなんてこと絶対にしない私が、そうして声をかけたのは相手が綾部だったからだ。饅頭の一件以来、話しかける機会はうかがっていたけれど実行に移せずにいた。周りの目があると、中々どうして勇気が出なかった。が、今は穴を掘る綾部以外、周りには誰もいない。唾を飲み込んでから覚悟を決めて、私は穴の中にいる綾部に問いかけた。

綾部は、私の声に反応して手を止めて顔を上げる。私の質問について考えているのか、無視をしているのか、動きのない瞳からは思考を読み取ることは不可能だったが、ややあってから綾部が穴の中で腕を広げた。

「来てみたら?」

突拍子もない提案に、巡っていた思考がぴたりと停止する。色々と言いたいことはあったけれど、腕を広げて待つ綾部に全て任せてみたいと思った。綾部が上がるように穴の中に垂らされている縄はあったが、それを無視して私は飛び込んだ。
私の体は大きいほうではないが、綾部の体だって別に大きくはない。綾部は受け止めようとしてくれたが、しっかりがっちりキャッチというわけにもいかず、二人して穴の中に倒れこんで土に塗れた。

「ご、ごめん。痛かった?」
「ちょっとね」

綾部は何でもなさげにそう言うと、体を起こして穴掘りを再開する。私は穴の中で手持ち無沙汰になるので、作業の邪魔にならないようにちんまりと膝を抱えて座り込んだ。
ざくざくと、土が削れる音を聞きながら少し暗い空間の中、やることもないので私は首を倒して上を見た。視界に飛び込んできたのは、穴の中から切り取られた空。普段何も思わない空が、切り取られてみると流れる雲も相まって目まぐるしく顔を変える万華鏡のようで、私は興奮のまま綾部の袖を引いた。

「空が、綺麗」
「空?」
「うん、万華鏡みたい」

綾部は私の言葉につられて、空を見上げる。そして、「ほんとうだ」と呟くので、私は綾部の小さな喉仏を見つめながら、自然と笑みをこぼしていた。

「楽しい」
「…そう、よかったね」

緩やかに笑った綾部の、揺れる睫毛から目を離せないでいた。多分、その時にはもう好きになっていた。


学園生活は、恐ろしく過ぎるのが早かった。いつの間にか私もこの忍術学園の門をくぐってから四年が過ぎようとしている。四年も経つと、くの一教室からは格段に人が少なくなり始める。行儀見習いなんかで入っていた子たちは、実習などが過酷さを増していく前に、家に呼び戻されお嫁に行ってしまうからだ。
かくいう私も、将来はバリバリのくの一、というわけにはいかなかった。両親からの手紙には、そろそろ縁談もまとまりそう、残りの短い学生生活を楽しんで、と書かれていた。私の刻限も、近いのだ。

「喜八郎、この前の実習怪我したって聞いたけど…」
「ああ、うん。滝夜叉丸のせいで」

ちっと舌を打った喜八郎はその時のことを思い出しているのか、忌々し気に顔が顰められる。見える部分に怪我はないので、したとしたらお腹あたりだろうか。課題手伝ってと呼び出したのは私だが、怪我人に痺れ薬入りのお茶は飲ませられない。手を伸ばしてきた喜八郎からお茶を遠ざけるように腕を上げると、喜八郎がむっと唇を尖らせた。

「別に大したことないよ」
「でも…」
「どうせぼく以外に飲む人いないんだから」

そう言い切って、喜八郎は半ば強引に私の手からお茶を奪い取った。反論の暇もなく飲み干されるお茶を、ああ…と自分の無力さを思いながら見つめる。飲んでしまったものは仕方ないので、せめて痺れが回る前にと私は解毒薬の入ったお茶も喜八郎に差し出した。

「大きな怪我じゃないんだよね…?」
「かすり傷だよ」
「それなら…いいんだけど…」

本当はもっと心配したい。それでも煩わしく思われるほうが嫌で、私はそのまま俯いてしまった。すると、僅かに喜八郎が距離を詰めてきた気配がして、つむじ目がけて喜八郎の声が降る。

「ねえ、ぼくが君に嘘ついたことあった?」
「……ない」

私がかぶりを振ると、置いていた手に喜八郎のタコだらけの手が重なった。分厚くて、穴ばかり掘っている男の子の手。

「大丈夫だよ」
「うん…」

応えた声は涙に震えてしまって、喜八郎のため息が聞こえた。あやすように伸ばされた指先が、落とさずに目尻に溜めているしずくを掬い取る。

「そんなに泣き虫で、くの一になれるの?」

くの一じゃなくて、お嫁さんになるの。とは、答えられなかった。

私たちの関係はこの広いようで小さな囲いの内側でしか存在できない、ひとたび外に出てしまえば何の肩書きもなくなってしまう、そんな頼りないものだと焦り始めたのはいつからだったか。早く、諦めがつくようにしなくてはいけないのに。
次に受け取った両親からの手紙には、縁談がまとまったので学園をやめる手続きを進めると書かれていた。

何故、忍者の三禁に色があるのか。分かった気がする。これは、病気だからだ。痛くて苦しくて、中々治らない、厄介な病。

両親への返事の手紙は、何も書きだせずにいた。埋めるべき言葉は分かっているのに、筆を持ったまま動けずにいる。
やがて、白紙に涙が落ちた。まだ宛名すら書けていないのに、乾かしたら何とかなるだろうか。ぼたぼたと、続けて涙が落ちていく。もうこれ以上紙を濡らさないように、私は筆を置いて声を殺して泣いた。こんなときいつも慰めてくれた同室は、もう三月も前に学園を去っていた。


「喜八郎、私明日には学園を辞めるの」

結局、嫌なことはずるずると先延ばしにする癖が最大限発揮されて、言い出せたのは前日だった。喜八郎はもうすでに周りから聞いていたのか、特に驚いた様子は見せなかった。

「お嫁に行くんだ」

自分に言い聞かせるようにこぼす。そう、私お嫁に行くの。くの一、自分でも向いていないと思うけれど、なりたかった。シナ先生に胸を張って卒業したかった。喜八郎が六年生の制服を着たところ、見たかった。
喜八郎はずっと黙っていたけれど、やがて薄く息を吸い込んで私をまあるい瞳で見つめた。

「元気でね」

相変わらずのっぺりとした声だったけれど、私も喜八郎との付き合いは長いもので、それが真摯に告げてくれた言葉なことくらい分かった。声にならなくて、こくんと頷いてぼやけた視界の中、必死に喜八郎の輪郭をなぞる。

「喜八郎、も…元気でね」
「うん」

喜八郎はゆっくりと私の手を取ると、握るというには淡い力で私の手を包んだ。

「女の子に、元気でいてほしいと願ったのは君が初めてだし、最後だよ」
「きはちろ、」
「…元気でね」

その言葉を一等大事にして生きたいと、そう思った。
喜八郎も、どうか。立派なプロ忍者になっても、いつまでも元気で。


どうか健やかで


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