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TopMain銀の再会
肺が痛い。ひゅうひゅうと鳴る呼吸音は自分でも聞きなれないもので、全身から警報を打ち鳴らしているのだとよく分かる。座り込んだら立てなくなると理解していても、足が石になったかのように動かないので八左ヱ門はそのまま木に凭れるようにして崩れ落ちた。
どこもかしこも痛くて、もはや鈍い、熱い、やがて暗く──。
意識が飛びかけた時だった。ざっと土を踏む音が聞こえて、僅かに働く理性が動けと命令を飛ばしてくる。しかしどうあがいても反撃ができる状態ではなく、傍に来た気配に八左ヱ門は無我夢中で手を伸ばした。
誰かの頭を、掴んだようだった。霞がかる視界で、銀が揺れる。

「大丈夫です」

その声は澄み切っていて、あまりの透明度に鼓膜を上滑りする。もう一度、八左ヱ門を宥めるように声をかけられた。

「大丈夫」

母の寝かしつけるときの声音にも似た不思議な心地で、八左ヱ門はすとんと意識を失った。


ぴちょんという水音で、意識が浮上する。感じる布団の温かさと木造りの天井に、八左ヱ門は学園の長屋で目が覚めたのかと思った。が、よく意識を研ぎ澄ませれば節々が見慣れた環境と違っていて、それを理解した八左ヱ門は一瞬のうちに跳ね起きる。
その瞬間痛んだ体に呻いて顔を顰めると、視界の端に女物の小袖が目に入る。はっと顔を上げれば、浮世離れした容姿の女が、きょとんと幼子のような顔で八左ヱ門を見つめていた。

「…起きたのですね」

女はゆったりとした口調でそう言うと、八左ヱ門の傍へとにじり寄る。思わず身を引くと、女はまた少し目を丸くした。

「あっ…の、あなたは…?」

喉はごわついて仕方なかったが、なんとか声を絞り出して八左ヱ門が問う。三拍ほど、女は瞬きもせずに固まるので、八左ヱ門はもしかして異国の人だったのか?と馬鹿げたことを考えた。今先ほど目の前の女が慣れ親しんだ言葉を発していたというのに。
だが、八左ヱ門は何もそれだけで異国人だと思ったわけではないのだ。色素の薄い灰色の髪、何を映しているのかいまいち分からない珠のような瞳。女の容姿はとんでもなく浮世離れしていた。浮世離れ、とは美人にも使われる表現ではあるが、そうではなく。本当にこの世のものとはあまり思えないのだ。

「わたしは…、怪我をしていた、あなたを助けました」
「……」
「それだけです」
「それ、だけ…?」

己が何者か語る気は無いようだった。改めて自身の体を見下ろせば、全身手当てが施されており、確かにあの時死にかけていた自分が助かっているという事実がある。ゆったり、どこかたどたどしく言葉を紡ぐ様子に、敵意や猜疑心なんて気持ちを八左ヱ門は到底持てず、強張っていた肩を下ろした。

「ありがとう、ございます…」
「いえ…、」

女はふるりと首を横に振って、俯いた。

「あの、ここは?」
「…今は使われていない民家、のようです。あなたが倒れていたところからそう遠くもありません」
「?あなたの家ではないのですか」
「ええ」

とにかく情報を集めなければと質問をしたが、ますます謎が深まっていく。張り詰めた空気はないものの、どこか掴みどころのない雰囲気ばかりが漂って、困惑を極めた。

「では、何故おれを見つけられたんです…?」
「……血の、においがしたので」

そう言った女の肌は白く、指先は水仕事の一つもしたことがないような綺麗な手をしていた。華奢な腕は人を殺せるようにも思えない。歴戦の忍者から放たれたような台詞を、目の前の女が言ったというちぐはぐさに八左ヱ門は面食らったが、飲み込むほかなかった。嘘をついているようには見えないのだ。
問答が終わったと思ったらしい女は、八左ヱ門に手を伸ばした。今度は体を引かずに何かと思いながら体を強張らせていると、ひんやりとした手が八左ヱ門の額に当てられた。

「まだ熱が高いです」

続けて「横に」と言われるので、八左ヱ門は何故だか大人しく従ってしまい横になる。すると、無意識に入っていた力が抜けていき、途端に体の重さと共に意識が引きずられた。重くなってきた瞼に逆らう気にもなれずぼんやりとしていると、女の顔がすぐ近くにあった。

「…お名前を、」
「え…?」
「あなたの、名前」

よく知りもしない相手に名を明かすなど忍者として言語道断だが、考えるより先にするりと口が動いていた。

「八左ヱ門…竹谷八左ヱ門」
「…よい名前」

女は柔らかく笑うと、白魚のような手で八左ヱ門の目を優しく手で覆う。

「長生き、してくださいね」

透けるような、重みのなかった女の言葉が、不意に慈愛をまとって八左ヱ門の鼓膜を揺らした。同時に懐かしい匂いを感じ、八左ヱ門は温かな何かに包まれたような気がした。

「八左ヱ門さま…、ありがとう」

波にさらわれるように、遠く、次の瞬間には意識は彼方へと。

次に八左ヱ門が目を覚ました時、女の姿はどこにもなかった。

***

「心配かけてごめんな!もう大丈夫だから」

八左ヱ門の傷が完治し、久しぶりに委員会に顔を出すと後輩たちが涙を浮かべながら出迎えてくれた。飛びついてくる小さな体を受け止めて笑っていると、一人その様子を眺める孫兵に気が付いて手を伸ばす。

「孫兵も、おれがいない間まとめてくれてありがとうな」
「いえ…、殆どぼくのペットですから」

それはそう、と思いつつ少し素直じゃない後輩も精一杯労い、可愛がった。

その後、孫兵から生き物たちの近況を聞きながら学園を周っていると、世話をしている忍犬たちが八左ヱ門の姿を見かけて、後輩たちと同様に飛び込んでくる。ぶんぶんと吹っ飛んでしまいそうなほど振られている尻尾に面白くなりつつ、応えるようにその体を撫でた。

そして八左ヱ門は不意に、以前、山で足の手当てをしたやった銀色の狼のことを思い出した。


銀の再会


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