甘い、体を犯していく毒を、少しずつ吸い込んでいるようだと思う。それはやがて骨の髄まで溶かしていって、私をダメにするのだ。
「ドンキホーテさん」
「ドフィでいいと言ったろう?」
「そんな呼び方したら、世界中のファンに刺されちゃうもの。それは勘弁したいわ」
「ファンねェ…」
そんなものいないと知っている。いたとしても私ごときの呼び方ひとつ、誰にも聞かれちゃいないことなんてよく分かっている私を、目の前の男は分かっているのだろう。自身の願いが今夜もまた適当にいなされたことを不服に思っているのか、逆に面白く感じているのか。恐らく後者であろう彼は、不敵な笑みを口元に湛えたままグラスを揺らした。
「付き合っちゃくれねェのか」
「営業中に酒は入れない主義って言ってるでしょ」
「もう終わりだろ」
「営業が終わったらあなたは帰るのよ、ドンキホーテさん」
この男はいつも営業終わり間際に来ては私の閉店作業の邪魔をする。本当に勘弁してもらいたいものだ。夜も更けて人が少なくなってくると、女一人で切り盛りしている酒場ではここぞとばかりに暴れる客がいたりもするので、そういうのを避けてくれるという意味では助かっている部分も、無くはないのだが。迷惑を被っている割合の方が圧倒的に多い。
そういえば、この男と出会った日もそんな迷惑な客がいたんだったか。
ド派手なピンクのコートを纏って店内に入ってくれば、嫌でも目に付く。更にその男が七武海ともなれば、さすがの私もグラスを拭く手が一瞬止まったものだ。男は店内をぐるりと見渡してから、迷う素振りもなくカウンターへと席に着いた。
「フッフッフッ、こりゃまた随分といい女が店をやっている」
「…どうも」
別にこの店は愛想を売っているわけではないので、私は笑顔を作ることもなく応える。そこら辺、馴染みの客はよく分かっているので私に酒と料理以上のものは求めないが、一見の客はほとんどの確率でそういったサービスを求めてくる。だから最初に分からせる必要があった。
だが、さすが七武海とでも言おうか。底辺をうろつく者たちと違い、私の態度にいち早く察したものがあったのか、案外彼はお利口な客だった。私が提供した酒の味を純粋に楽しんでいる様子に格の違いを感じていると、バリンッと派手にグラスが割れる音が店内に響き渡る。
酔っ払いのおイタかと思い顔を上げると、案の定そのようで。瓶を割った赤ら顔の男はふらふらとこちらへ来るなり、カウンターを力任せに叩いた。
「酒が割れちゃってよォ〜、新しいの出してくれるだろ?」
「タダじゃないけどね」
「あ…?ケチなこと言うもんじゃないぜ」
「払えないならさっきのお酒で我慢してもらうしかないわね。這って舐めるのも乙だと思うわよ」
「ふざけんなこのアマ…!!」
激昂した男が飛び掛かってくることなんて、想定の範囲内だ。私は近くにあった酒瓶を取って思い切り男の頭に振り下ろした。ガシャンという音と共に酒が飛び散って、男が床に沈む。つい勢いでやってしまったが、後に広がる惨状にもう少しスマートなやり方があったかもしれないと反省をした。
すると馴染みの客たちがけらけらと笑いながら沈んだ男を回収しに来てくれる。それをありがたく思いながら「適当なところに放っておくよ」と男を担ぎ上げた常連に「店先じゃないところにお願い」とだけ言って飛び散った酒を片付け始めた。
そこで、あ、七武海。と、今更ながらビックな客がいたこと思い出した私は布巾を手に彼の周りの酒を拭った。
「ごめんなさい、飛ばなかったかしら」
「おれは平気だが…、もったいねェな」
意外なことに割れた酒瓶を見つめながらそう言うので、私は肩を竦める。
「安物の酒ですもの、これくらい餞別にくれてやるわ。あの人も本望でしょ」
「フッフッフッ…優しいな」
「あら、ありがとう」
優しいなんて捻りの効いたお褒めの言葉に素直に笑って返すと、彼は私をじっと見つめてから「いいな」と零した。
「え?」
「おれの女になる気は?」
「……ないわよ。髪一本分だってない」
「そうか」
彼は私の答えに反して至極愉しげに笑うと、「また来る」とだけ言い残してその日は去っていった。
そして今に至る。まさかまた来るが本当のことだったなんてあの時は思いもしなかったし(嫌な予感だけはひしひしとしたが)ましてや厄介な常連客になるなんて。
目の前で上機嫌そうにする彼にため息をついて、そろそろ表の看板をしまおうかと出ようとした瞬間、不意に手を繋ぎ止められて固まる。カウンターの上で覆いかぶさった彼の手は、私の手の甲から手首までゆっくりと指先でなぞって、艶めかしく私を弄んだ。
こみ上げた熱は腕を伝ってやがて顔まで熱くさせる。じわりと汗の滲んだうなじに耐えきれなくなって、私は乱暴に彼の手を払いのけた。
「…何のつもり」
「フフ、酒が回ってきただけさ」
「あら、じゃあ夜の空中散歩でもしてきたら?」
「一緒にするか?」
「勘弁してよ。私高いところは苦手なの」
今度こそ外に出ようと扉の前まで来たはいいものの、次は足が縫い付けられたかのように動かないので私はもはや怒気がはらんだ声で「ドンキホーテさん?」と彼を呼んだ。
「悪戯が過ぎると思うのだけれど」
「今日は一段とツレねェじゃねェか、寂しいぜ?」
「…いつもと変わらないわよ」
次の瞬間には目と鼻の先に迫っていた彼の顔に、息が詰まる。ゆらりと持ち上げられた手はそのまま私の頬に添えられて、妖しく輪郭をなぞった。
私はもう、この人のことを大分許してしまっている。悔しくてしょうがないが、紛れもない事実だった。この人が回数を重ねて、まるで蜘蛛の糸を張り巡らすかのように、私という獲物を絡めとろうとしているのを肌で感じていた。必死で突っぱねて払いのけて、けれど拒否しきれずに執拗な糸は私の四肢に絡んでゆっくりと蝕んでいく。頭がくらくらするほどに。
それでも、私が最後の最後まで頷かないのは、そうしてしまった時点でこの人が私から興味を失うことが分かっていたから。
「フッフッフッ、お前も中々強情だな」
「嫌なら他所へ行ってちょうだい」
「いや…、オレはお前がいいのさ」
どうせ私をぱくりと食べた後は、次の獲物に興味が移るくせに。そんなのってあんまり、と思う時点で、毒に侵されているのだと頭の片隅で理解している。
唇に降り注ぐ愛撫の甘さに眩暈がして思わずふらつけば、彼の長い腕が腰に回って力強く支えられる。殆ど密着している体表面積にうんざりしていると、彼の蠱惑的な声がそうっと鼓膜を揺らした。
「上に行ってもいいぜ?」
「…生憎、うちは宿屋じゃないの。あなたのベッドはないわ」
簡単に食べさせてなんてやるものか。意地の張り合い、負けるつもりはなかった。
被食者のプライド
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