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TopMain夢追の航海
心もとなくふらついた目の前の女を、咄嗟に受け止める。枝葉を受け止めたのかと思うほどその体が軽いことに、アイスバーグは驚いた。

「ごめんなさい」

まだ意識が遠のいているのか、伏し目がちのまま女が謝罪を零す。アイスバーグは「気にしないでくれ」と返してから、女の症状が落ち着くのを待った。深く呼吸をついてから、女はゆっくりと顔を上げてアイスバーグを見ると「あら…、」と目を瞬かせる。

「市長さんに助けられるとは思いませんでした」

ふわりとほどけた笑い顔に、アイスバーグはしばし目を奪われた。しかし、すぐに良いとはいえない顔色の方が気になり、アイスバーグはそのまま腕を差し出す。

「病室まで送ろう」
「まあ…、ありがとうございます」

羽が触れたかのようにそっと添えられた手にまた心配になりながら、アイスバーグは女の病室を目指した。市長として顔が知られているのはアイスバーグにとって当たり前のことであったが、どうもあのように言われると少々やりにくいものがある。行く途中、アイスバーグが若干無言の空気を持て余している横で、女は血色のない顔でにこにことしていた。
病室に到着してベッドに腰を降ろすまで甲斐甲斐しく手を貸すと、女は「ありがとうございます」と細い首筋を晒した。

「お忙しい身なのに、こんなに親切にしていただいて」
「ンマー、あなたを放り出して仕事に急ぐほうが市長失格だ」
「あら…、ふふ、素敵な市長さん」

人と接するときに笑顔を絶やさないのは元来の性格なのか、病人としてついた癖なのか。アイスバーグには医療の心得はなかったが、病室や彼女の雰囲気からここにいて長いのだということは何となく察しがついた。

「市長さんはお仕事でここに?」
「いや、おれも一応患者だ。もう何ともないって言ってるんだが、主治医が過保護でな」
「ドクターお優しいですものね」

麦わらの一味とフランキーがここを去ってからもういくらか経つが、あの時無理をして色々と動いていたアイスバーグはその後ドクターにそれはもうこっぴどく叱られた。そのせいか、定期的に顔を出すよう言いつけられており、逆らうこともできずに病院に足を運んでいるというわけだ。
ドクターとの付き合いも長いらしい彼女は、アイスバーグの苦笑に納得したように頷く。アイスバーグはその伏せられた睫毛を見つめながら、この後に当たり前のように詰まっている予定が頭を過りながらも、早々に話を切り上げてここを立ち去らなければという気持ちは微塵も湧いてこなかった。

「名前を訊いてもいいか?」
「え?」
「何かの縁だ。次おれがここに来るときは見舞いに花でも持ってこよう」

彼女はアイスバーグの申し出に素直に驚いたようで、ぱちりと目を丸くした。

「まさか、市長さんがお見舞いに来てくださるなんて…。生きていればこんなこともあるものですね」
「ンマー…市長さん、ではなくアイスバーグと呼んでもらえたほうがおれとしても気が楽なんだが…」
「まあ、ごめんなさい。アイスバーグさん」

彼女は悪戯っぽく目を細めて「私、名前といいます」と軽やかに名乗った。

「お花も嬉しいんですけれど、アイスバーグさんが来てくださるなら私ぜひお話が聞きたいです」
「話?」
「造船所でのお話、聞かせてもらえませんか?」

そう言うと、彼女は窓の外に視線を移して宝物のオルゴールを愛でるかのように目元を緩める。アイスバーグもつられて窓の外を見ると、そこからは1番ドッグの景色がよく見えた。

「私、ずうっとここから造船所を眺めてたんです。だからお話聞けたら嬉しいなって」
「それは構わないが…、」

果たして聞いていて面白いのだろうか、というアイスバーグの率直な感想が顔に出ていたのだろう。こちらを一瞥した名前はくすりと笑って、少し誇らしげに顎を上げた。

「これでも、トンカチの音がいちばんよく眠れる子守唄なんですよ」

ベッドの上で微笑む彼女が自分と似たようなことを言うのが、アイスバーグは何だか可笑しかった。

***

アイスバーグは定期健診と共に、名前を見舞うのが習慣となった。なんなら、定期検診が無い日でも時間があれば彼女を見舞った。ドクターからは「来いって言ったら来なくて、来なくていいってなったら来るんだもんなあ」と揶揄られる始末。咳ばらいをして誤魔化すしかなかった。

今日も自分の検診は無いにも関わらず名前に会いに訪れたアイスバーグは、ベッドの横でリンゴの皮むきをしながら名前と語らった。アイスバーグは最近、ようやくウザギの剝き方を覚えたのである。

「やっぱり大工さんは器用なんですね」

少々不格好なウサギを手にして名前が嬉しそうに眺めるものだから、アイスバーグは気恥ずかしくなりながらせかせかと手元を動かす。他にも飾り切りの仕方はいくつか教えてもらったが、アイスバーグには耳が欠けたウザギが精々だった。

「いや、船造りよりもよっぽど難しい」

そう冗談を零せば、名前がくすくすと笑う。そして、肩を竦めるアイスバーグを見つめると、何か思い当たったように頬に手を添えた。

「アイスバーグさんの船かあ…」
「?、どうした」
「アイスバーグさんが手がける船ってどんなんでしょうって、気になってしまって」

どんなんでしょう、と言われると困るものがあるが、どれも魂を削って生み出したものばかりだ。見せられるものなら名前にも見せたかったが、すぐには写真も何も用意できていないのでそれは叶わない。だが、不思議と名前の反応は、目に浮かぶようだった。

「きっと素敵な船なんでしょうね」

目の前の名前が、アイスバーグの想像と重なる柔らかく晴れ間のような表情を浮かべたことに、思わず声にならない吐息が漏れ出た。名前は窓の外に視線を向けると、弾んだ声で「いつもね、」と話し始める。

「ここで造られたり修理されたりする船を見て、この子はどんな航海をするのかな、どんな航海をしてきたのかなって、考えるんです」
「ンマー…船は、多くを語るからな」
「そう、船のことは詳しくないけど、なんだか分かる気がして」

殆どの船大工は共感できることである。アイスバーグは深く頷きながら、名前の話を静かに聞いた。

「想像の中だけでも、海に出るのは楽しいんですよね」
「海賊にでもなりたかったのか?」
「海賊?ウフフ、それも楽しそう!」

名前は子供のように無邪気に手を打った。そこで、アイスバーグは彼女がドッグの船を通して海を見ていたことに初めて気が付き、歯がゆい気持ちになった。彼女にとって船は、想像だとしても自分を運んで海へ、遠くへ連れて行ってくれる存在だったのだ。
この白い病室が、途端に狭く息苦しく感じて、アイスバーグは潮の香りが恋しくなった。きっと名前も、ただ、海風を浴びたいのかもしれない。

アイスバーグはその日の帰り際、ダメ元でドクターに名前の近場での外出許可を申し出たが、あんまり外の風にも当たっていられない体らしい。そこでようやく、アイスバーグは思っていた以上に彼女がよくない状態であることを知った。
アイスバーグは家に戻ると、机にかじりついて一つの製図を引き始めた。小さな船の製図。それは、彼女をどこまでも運ぶための船。甲板に出て光り輝く太陽の下、海風を気持ちよさそうに浴びる名前の姿が、アイスバーグの瞼の裏にはあった。

次にアイスバーグが病院へ訪れると、名前はいつもに比べて青白く、細くなっていた。それでも相変わらずたおやかである様が、いつ消えてもおかしくないような脆い雰囲気を生み出していた。

「こんにちは、アイスバーグさん」
「ああ。調子はどうだ」
「ふふ、少し瘦せちゃいました」

名前は自身の手首を見つめて寂しげに呟いた。アイスバーグは何も言わずに、傍の椅子に腰を降ろして持ってきていた紙袋を足元に置く。「渡したいものがある」アイスバーグがそう言うと、名前は驚いてアイスバーグの手元をじっと見つめた。紙袋から取り出した、その小さな船の模型をアイスバーグは名前に差し出した。

「まあ…っ、これ…!」
「おれが、名前のために造った船だ」
「……すてき…」

細い手で名前は模型を受け取ると、くるくると色んな角度から眺めてはすごいすごいと笑顔を浮かべた。気に入ってもらえてよかった、と胸を撫でおろしつつ、アイスバーグは自身の設計を指さして説明していく。それもまた一言一句聞き漏らさぬようにと、しっかり頷いて楽し気に聞く名前に嬉しくならないわけがなかった。

「私、今まで人様の船の航海を想像するばかりでしたけど、これは私の船なんですね」
「ああ、そうだ」
「私の航海を、考えていいんですよね」

すると、弾んでいた声が僅かに震え始めて、名前の瞳から涙が一粒落ちる。シーツを濡らしたそれは、初めて彼女が見せた本音で、心のやわらかい部分だった。

「退院したら模型じゃなく、その船を造らせてくれ」
「いいんですか…?」
「ここまで来ておれが仕事を放り出す男だと思うか?」
「…思いません、プロですもんね」

目尻の涙を拭いながら名前が微笑む。そんな名前に、勢いで言おうとしていたことが途端に気恥ずかしく思えて、アイスバーグは頭をかきながら歯切れ悪く口を開いた。

「その…実を言うとそれは二人乗りに設計してある」
「え?」
「できれば、処女航海は一緒に」

やや間を置いてから「まあ」と口に手を当てた名前は、目尻をほんのり赤く染めた。

「それってなんだかプロポーズみたいですね」
「…ンマー、そうだな」

項垂れるように視線を床に彷徨わせていると、膝に置いていた手に名前の手が重なる。驚いて顔を上げると名前がにこにこと幸せそうにしているので、照れて誤魔化していた自分が馬鹿らしくなったアイスバーグは、そのまま手を繋いで名前と唇を重ねた。


次にアイスバーグが訪れたときに、病室は空になってた。彼女の荷物はすっかり無くなっていて、船の模型も見当たらないので先に旅立たれたのだと、アイスバーグは理解した。
不本意ながら、共に出航と言うわけにはいかなかったわけだが、彼女はのんびりしている性格なのできっと一人での冒険を楽しみながらアイスバーグを待っていることだろう。そのうち合流することを胸に抱き、アイスバーグは彼女の航海が晴れやかになることを祈った。


夢追の航海


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