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TopMain君だけは
後になって思えば意地になってるところはあった。けれど、どうしても嫌だったのだ。あの男の名前を間違えることだけは。

「……鉢屋」
「なんだ」

用心深く名前を呼んでるとは言え、本人の反応を待つまでの間はほのかな緊張が胸の端でくすぶる。しかし、こちらを見下ろしてくる男は何てことないように返事をしたので、今回も自分は間違えなかったのだと小さく息をついた。

「これ、シナ先生からお預かりしてきたの。学級委員長委員会にって」

できることならこの男とは関わりたくなかったが、先生の頼みをこんな私的な理由で断わるわけにもいかない。あの時職員室の前を通るんじゃなかった、なんて詮無いことを考えつつ、私は手元の紙束を押し付けるようにして鉢屋に握らせた。

「それだけ」

そして私が今にも立ち去ろうとすると、少し慌てたように鉢屋が「助かった」と私に告げる。会釈でそれを受けてから、私は足早に自室へと戻った。ああ変に緊張した。これだから嫌なのだ。

別に鉢屋自体が嫌いだとかそういうのではない。ただ、忍務でもないのに誰かの振りをして人を騙す驚かすという行為がどうにも、受け付けない。鉢屋が素顔を見せない理由自体はまあどうでもいい。何か理由があるのかもしれないし、ないのかもしれない。
不破の顔を借りているのも別にいい。不破が了承しているのだから第三者がとやかく言うものでもない。問題は鉢屋がたびたび不破の顔のまま「ど〜っちだ!」という振る舞いをすることだ。私はそれが昔からどうにも苦手だった。

だから私は絶対に名前を間違えてやるものかと、低学年の頃からよぉく注意してきた。周りの人間が名前を呼ぶのを待ってみたり、不破と鉢屋が並んでいるのであれば二人の会話に聞き耳を立てて判別したり。鉢屋の変装を見抜く術は持ち合わせていなくても、気をつけてさえいれば名前を間違うことはない。それはこの五年間でよく分かった。
自分でも何に注力しているんだと思うが、もうここまで来たら絶対に卒業まで名前を間違いたくない。幸い、鉢屋と私は同学年なだけであって、別に深い仲というわけでもない。このまま私が油断することがなければ、まあ大丈夫だろう。……多分、それが気の緩みというやつだったんだろうけど。

言い訳がましいかもしれないが、その日は連夜遅くまで予習をしてたから寝不足気味だった。若干ぼんやりとした状態で図書室へと赴き、借りていた本を返そうとした。私は結構図書室を利用する方なので、不破とはぼちぼち話をする間柄ではある。だからいつものように視界の端に映り込んだ茶色の癖毛に、何の疑いもなく話しかけてしまった。

「不破、これの返却お願い…」

途端、嫌な予感が体中を走り抜けた。もうここまでくると長年の勘ってやつだ。ハッとして顔を上げると、目の前の男はにっこりと笑っていた。

「雷蔵ならあっちにいるぞ」

ドサドサッとその場に本を落としてしまい、その音を聞きつけた奥にいたらしい不破が顔を覗かせる。正直、そんな周りの様子も視界に入っていなかった私は、反射的に図書室を飛び出していた。
寝不足の状態で気が動転したからか、少し走ったところで眩暈を起こしてしまい、視界の端がちかちかと白くなる。すると、ぐいと後ろから体を支えられて、私はそのまま体を預けるようにして倒れ込んだ。

「おい、大丈夫か」
「……はちや」
「そうだ」

ぐわんぐわんと揺れる脳内にせり上がってくる吐き気。鉢屋が「ゆっくりしゃがめ。急に動こうとするな」と言い聞かせてくるので、支えられながら私はその場にずるずる座り込んだ。鉢屋の声って結構落ち着く、などと新たな発見をぼんやり噛み締めながら深呼吸を繰り返す。
ようやく吐き気が引いてきた頃に寝不足を反省していると、隣の鉢屋が「初めてだな」と呟いた。

「……」
「私の名前間違えたの、初めてだろ」
「……気を付けてたもの……」
「ふうん、やっぱりそうか」

どうやら鉢屋も気づいていたらしい。まあ、気づくか。殆どの人が名前を迷ったり間違えたりする中、私は確信を持ってから話しかけるようにしていたわけだし。

「何でそんなに気を付けてたんだ?」
「…鉢屋の…騙してやろうみたいなのが腹立って……」
「はは、なるほどな」

私の苛立ちを軽く笑い飛ばした鉢屋の横顔を見つめる。

「あと…、人の名前間違うの、嫌だから……」

鉢屋の態度が気に食わなかったからというのも勿論あるけれど、人の名前を間違うのって普通に嫌だ。相手もいい思いしないし、こっちも苦い思いしかしない。だから、気を付けていた。

「…なるほど」

鉢屋は何故だか少し意外そうにしてから、ゆっくりと頷いた。途端に気まずい沈黙が流れて、私は壁に預けていた体を起こす。

「もう大分収まったから平気」
「あーあー、急に立つな。ほら」

どたばたとする私を鉢屋がまたがっちりと支えるので、私は半ば諦めながらその手を借りた。

「本、返却しなきゃ…」
「いいよ、私と雷蔵でやっておくから。部屋に戻って休め」
「……じゃあ、そうする。ありがとう鉢屋」
「ん、」

礼を受け取るのはあまり慣れていないのか、そっぽ向いてひらりと手を振る鉢屋。観察はしてきたけれど関わってはこなかったから、鉢屋という人柄が見えるたび、なんだか不思議な感覚が湧いて出た。

「長屋まで送った方がいいか」
「いや、平気」

もうかなり気分は落ち着いていたので鉢屋の申し出を断って、その日はひとり自室へと戻った。

卒業まで鉢屋の名前を間違えてやるものかという目標は失敗に終わったわけだが、ただの惨めな失敗、というわけでもない気がしたので、また次から気を付けることにしよう。そう誓った次の日から、そんな必要がなくなることを私は知らなかった。

何を思ったのか不明だが、次の日から鉢屋が私を目視するたびに自ら名乗る謎習慣が生まれた。私に話しかける際も「鉢屋だ」と名乗ってから話をし始めるようになった。ので、気を付ける必要が全くなくなった。
私の、名前を間違いたくないという意思を尊重してくれたのか気まぐれか分からないが、何はともあれ私的には結構助かっているので、良しとしている。


君だけは


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