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TopMainかがやき、色めく恋よ
自分の癖だとは気づいていたが、やっているときは無意識の範疇なので手首を掴まれた瞬間酷く驚いてしまった。

「こらこらー、せっかくのかわいい手が台無しじゃないー」

はっと顔を上げると甘い香りが鼻をくすぐって、睫毛の先まで気を配られていることが分かる容姿が目の前にあった。

「ひ、ヒルダ…」
「それって癖?」

私はこくりと頷いた。何かと考え込むと爪を噛んでしまう、私の昔からの癖。よくないことだとは思いつつも直すきっかけが見当たらず、ずるずると今に至る。まさか、金鹿の学級の高嶺の花であるヒルダにそれを咎められるとは夢にも思わなかったけれど。

「だめよー。見た目もそうだけど、衛生的にもよくないんだからー」
「う……ごめ…」
「…ねー、ちょっとあたしに時間くれる?」

ヒルダはにっこりと笑って、返答を聞く前からぐいぐいと私の腕を引いた。意外と力強いところとか、大して話したこともない私に対して何をそんなに気にかけてくれるのか、とか驚きが私の脳内を占めたけれど、不思議とこれっぽっちも嫌じゃなかった。

招かれたのはヒルダの部屋で、入るなり寝具に座らされる。そして何かを手に取ったヒルダは椅子を引っ張ってきて、私の目の前に座った。

「うん、やっぱり名前ちゃんって手綺麗よねー」
「そんなことは…」
「あるのー。自分のいいところは認めて伸ばしたほうが得よー?」

自分の魅力を最大限に引き出しているヒルダに言われると説得感が凄まじく、それ以上謙遜もできずに口を噤む。すると大人しくなった私の手を取って、ヒルダはやすりで私の爪の形をテキパキと整え始めた。優しく、丁寧に扱ってくれるヒルダの手つきに照れ臭くなりながら、私は手際のよさに見入った。
爪の形をあらかた整え終えると、ヒルダは小瓶を取り出してきて蓋を開ける。その独特な匂いが鼻をついたが、小瓶の中から筆で取り出された色が、ヒルダの爪と同じ綺麗な桃色で目を奪われた。

「こうやってかわいくしちゃえば爪噛めないでしょ?」

すっすっと軽やかな手つきで私の爪が彩られていく。私の心が荒めば荒むほど汚くなっていた指先がヒルダの手によって可憐になっていく様が、私にとってはすごく鮮やかで。右手の指先に塗り終えて、まるで生まれ変わったかのように光る爪先を凝視する。するとヒルダは、いつものような愛嬌たっぷりの笑みではなく、ふんわりと柔らかく花が開くように笑った。

「ほら。ね?綺麗な手」

するりと撫でられた滑らかなヒルダの手の感触に、急激に体温が上がっていくのを感じる。ヒルダの睫毛が落とす影がいやに目について、ちかちかと視界が点滅した。固まって動けずにいる私をヒルダは特に気にも留めてないようで、もう片方の手も意気揚々と塗り始める。途端にヒルダの顔を見るのが気恥ずかしくなって、私は視線を床に固定したまましばらく耐えた。

「はい、このまましばらく乾かしててねー」
「……ありがとう、ヒルダ」
「どういたしましてー。あとはいこれ」

ヒルダは先ほどまで塗っていた爪紅の小瓶を私の手に握らせる。

「あたしとお揃いの色。大事に使ってよねー」
「え、でも」
「名前ちゃんが更にかわいくなった記念にあげる。お礼は名前ちゃんの作るお菓子がいいなー」

そう言ってヒルダは悪戯に片目を伏せた。ちゃっかりしている。私がお菓子作りが趣味なこともいつの間に把握していたのだろう。強張っていた体から力が抜けて、私が「何食べたい?」と訊くと、ヒルダが跳ねるように喜ぶものだからつい笑みが漏れた。

***

びしゃっと血しぶきが飛ぶ。竜が巻き上げた砂が目に入って咳き込み目を擦っていると、今しがた私の首を獲ろうとしていた敵兵を薙ぎ払ったヒルダが私へ手を伸ばした。

「乗って!」

砂埃の中ヒルダの高い声はよく響き、視界も定まらないまま必死に手を伸ばした。がしりと腕を掴まれ、同性とは思えない力強さで引き上げられる。乗り上げた竜の硬い鱗の感触と目の前のヒルダの背中に、危機を脱したことを理解してほっと息をついた。

「もう!なんであんなところで孤立してるのよー!心臓が止まりかけたじゃない!」
「ごめん…ちょっとドジ踏んだ…」
「ドジなのはマリアンヌちゃんだけにしてよねー!」

声の調子は普段とあまり変わらなかったがヒルダも相当消耗していたようで、負っている傷が目立つ。ヒルダの柔肌を流れる血に、ぎゅっと心蔵を掴まれた感覚がした。

「ちょっと急降下するわよー。掴まってて!」

ヒルダは竜を巧みに操り下降しながら自陣近くに飛んでいた竜騎士たちを手斧で仕留めていく。その鮮やかな手腕に見惚れる余裕があったらよかったのだが、竜に乗りなれていない私はただただヒルダにしがみつくのに精一杯だった。
あらかた掃討し終える頃には、我らが長クロードを筆頭に勝鬨が上がっていた。どうやら此度の戦は勝利に終わったらしい。ヒルダと共にゆっくりと地上に下りると、クロードとマリアンヌが駆け寄ってきた。

「大丈夫だったか二人共!」
「大丈夫じゃないわよー!血まみれ汗まみれ、早くお風呂入りたーい」
「とか言いつつ、名前の救出しっかり果たしてくれて助かったぜ、ヒルダ」
「はいはい」

クロードの言葉にヒルダはふいと顔を背ける。普段褒め言葉は何でも受け取るヒルダだが、クロード相手だと例外が多い。照れ臭いのだろうか、とぼんやり思っていると、何故かクロードは私を一瞥して意味ありげに眉を上げる。…なんだろう今の。

「ヒルダさん、名前さん!すぐに手当てを…!」
「ありがとうマリアンヌちゃん。あたしより先に名前ちゃんお願いー」

私もヒルダも相当酷い格好をしているので、心優しいマリアンヌの顔は真っ青だ。重傷を感じさせずに竜からひらりと下りたヒルダに続いて慌てて私も腰を上げると、自分の体なのに上手く力を入れることができずに、べしゃと情けなく地面に崩れ落ちた。穴があったら入りたい。

「名前ちゃん!」
「おいおい、大丈夫か!」

芋虫のように地面を這いつくばりながら、なんとかみんなを安心させようと笑顔を浮かべる。

「腰が抜けただけだから大丈夫…」
「もう、びっくりしたあ」

ヒルダはほっと息をついてから、「ほら」と私に手を差し伸べた。顔を上げると、先ほどまでよく見えていなかったヒルダの顔が鮮明に視界に飛び込んできて、ちかちかと光がつよく瞬いた。この感覚には覚えがある。太陽に透かされた桃色の髪の毛が、いつか塗ってくれた私の爪の色と似ていた。

私も、ヒルダも、生きている。そう認識すると、反射的に鼻の奥がツンと痛んだ。途端に訪れた安堵と、ついでにせき止めていた気持ちが溢れ出した。ヒルダが生きていてよかった。ヒルダが助けに来てくれてよかった。ヒルダの瞳に私が映っていて、よかった。
我慢をやめたら、転がり落ちるのは一瞬だった。どうやら生死の間際で理性が馬鹿になったらしい。これも生存本能というやつだろうか。この感情は私には負担すぎると学生の頃から目を背け続けていたというのに。

「もしかして立てないー?」
「え、」

そう言うや否や、ヒルダは私の膝裏に手を差し込んでいとも簡単に私の体を持ち上げる。びっくりした私が思わずヒルダの首にしがみつくと「落としたりしないわよー」と柔らかい腕でしっかりと支えられた。

「男前だこと…」
「クロードくんは先生のことも抱えられないもんねー」
「言うな言うな」

クロードが非力だとは言わない。ヒルダが力強すぎるだけだと思うから。どこか生ぬるい視線を浴びながら、私は黙ってヒルダに運ばれた。

自覚したばかりでどんな顔してヒルダを見たらいいか分からない。ただ、このまま体を寄せてしまいたい欲望が湧き上がってくるのを、必死に押さえ込んでいた。絶対これは今湧くべきじゃない邪念だと思うけど、恋心と欲望は切っても切れない関係なので仕方がない。

怪我人たちが集まっている救護の天幕まで運ばれ、人が少ない端の方に下ろされる。マリアンヌを呼びに行こうとしたのか、すぐその場を立ち去ろうとしたヒルダを、私は咄嗟に引き止めていた。ぱちくりとした瞳に見下ろされて、私は告げるのを忘れていた言葉を思い出す。

「ヒルダ、助けてくれてありがとう」

気にしないで、とか軽い反応を予想していたのだが、何故かヒルダがうっと怯んだ様子を見せる。視線を逸らした目尻が、ほんのりと赤い気がした。

「…当たり前じゃない」

いつものような明るく張った声ではなく、周りの人の声にかき消されてしまいそうなくらい静かな声音で落とされる台詞。ああ、そういえば先ほどクロードに声をかけられていた時もヒルダはこんな気まずそうな顔をしていたっけ。それって、つまり。

「死なせないわよー、あんなところで」

語尾は伸びているけど、ヒルダの言葉は真っすぐ私に響いた。

「…名前ちゃんのお菓子食べられなくなったら、困るもの」

今になってクロードの表情の意味を理解した気がして、耳が熱くなる。いや、でも、私の勘違いかもしれないし。自分の気持ちを飲み込むように俯けば、ヒルダがくるりと踵を返した。

「安静にしててよねー、傷薬取ってくるから」

去っていたヒルダの背中を見送ってから、私はその場に丸まった。戦時中にこんな気持ちでいていいのだろうか。戦時中だからこそ自覚したものではあるんだけれど。…いや、自覚自体はずっと前からしていた。だって、あんなかわいくて強くて眩しい存在に、惹かれないわけがないのだ。
自身の爪先を見つめれば血と泥にまみれながらも艶々とヒルダの色が輝いていて、また気持ちが溢れ出すみたいだった。うう、好きだ。どうしようもない。


かがやき、色めく恋よ


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