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TopMainいつくしみからの卒業は遠く
尊奈門を抱く腕は、いつも薄く甘い匂いがした。尊奈門はその腕に抱かれると、強がっていた気持ちがほろほろと崩れ落ちて、涙が溢れ出すのだ。「尊奈門はつよくなれるよ」と優しく繰り返された言葉が、まじないのように何度でも脳裏によみがえる。

見られたくなくて、俯いたつもりだったが、彼女相手にそれは通用しなかった。

「まあ、ひどい顔」

ひどい顔、と言われて傷つく気持ちがあったが、確かに擦り傷だらけだしチョークの粉にまみれているし、おまけにべそをかいている。ひどい顔なのだろう。

「また土井先生?」
「ち…!…なっ……、……うう…」

違います、なんで分かったんですか、どれも彼女相手では意味のない台詞なのはすぐに分かって尊奈門は情けなく呻いた。

「大丈夫よ、泣かないの」
「泣いてません!」
「そうなの?」

売り言葉に買い言葉、というか、この年齢になっても彼女に「泣かないの」なんてあやされているのが恥ずかしすぎて、どうしても泣いてないと主張するしかなかった。

「尊奈門が努力を怠らなければ五年後にはきっと一撃くらい入れられるわよ」
「長いし少ないです!!」
「だって、土井先生お強いんだもの」

なんて事ないように、さも当然と事実を述べられて尊奈門は撃沈した。分かってはいるが他人から突きつけられたくなかったものである。

「ねえさまはどちらの味方なのですか!!」

つい、むしゃくしゃとして声を張り上げると彼女が、それはもう、嬉しそうに顔を綻ばせた。

「もちろん、私はいつだって尊奈門の味方よ」
「……」
「おまえが一番よく分かっているだろうに」
「……まちがえました」
「あら、なにも間違ってないわよ。私はずうっと尊奈門のねえさまよ」

彼女のことを「ねえさま」と呼ぶのは卒業しようと何度も心に決めているのにも関わらず、自身の幼さが覗くとつい昔のくせで呼んでしまう。それを彼女も嬉しがるものだからタチが悪い。
彼女のことを「ねえさま」だと思わなくなった訳では無い。タソガレドキにいる彼女より年下の世代はみな彼女を「ねえさま」と呼び慕った。だが、年が上がるにつれて皆恥じらいを覚えて呼び方を変えていくのである。尊奈門も例に漏れずそうするつもりだったのだが、どうも。……上手くいかない。
尊奈門が百面相をしながら苦悩していると、彼女が困ったように笑う。

「いじわるはこれくらいにしないとね、またどっかの誰かさんにネチネチ言われちゃう」
「へえ、そんなやつがいるのかい」

いつの間にか彼女の後ろに立っていた雑渡に、思わず尊奈門の背が伸びる。彼女は雑渡の声に表情を曇らせると、うんざりするような動作で雑渡を見上げ冷ややかに目を細めた。

「……あなたの事よ?知らなかった?」
「初耳だね」
「無知って罪なんだけれど」
「じゃあ君も大罪人でしょ。知らないふり得意なんだから」

ばちばちと。音がしそうなほどの応酬を繰り広げる二人に、尊奈門が双方の顔を交互に窺う。尊奈門がこの二人に割って入れたことなんてただの一度もない。二人が火花を散らし合い始めたらもう、鎮火を願ってただおろおろとするしかないのだ。

「尊奈門、後でまた忍術学園の話聞かせてちょうだい」
「あ、はい…」

彼女は尊奈門にそう告げると、また雑渡と何やら言い合いをしながら二人して踵を返す。雑渡が用事があって彼女の元に来ていることを察していたらしい。あの二人の仲がいいとか、そういうことは決してないが、長年培ってきたものがあるのは確かだ。阿吽の呼吸といえば聞こえはいいかもしれないが、お互いになす事やる事分かるからこそ衝突し合う場面も多いように思う。
去っていく二人の背中を見ながら、尊奈門はまた幼い気持ちがよみがえった。昔から二人の遠い背中を見て育った。今でも近くに感じることはなく、ただがむしゃらに足掻き続ける日々。時折、どちらを羨ましく思うのか分からなくなる時もあって、きっと両方なのだろうとも思う。雑渡の隣に立てる彼女が羨ましかったし、彼女の隣に立てる雑渡が羨ましかった。

「…っあー!もう!……不毛だ」

この事に関しては昔から悩んでは結局は自身が成長するしかないのだと結論づけているものである。しかし、答えが出ていても悩む気持ちは止められない。そんなことをしても無意味だとは分かっていても、土井半助に敗北を喫したあとではより情けなさが募り無力感に満ちた。
いつも、彼女に甘えてしまっている自分がいる。こんな時も、彼女からの優しい言葉と受け止めてくれる場所が欲しいと感じてしまっている自分が。この歳になってまでこんな調子なのは本当に情けないことだが、あの腕には不思議な魔力があると昔から尊奈門は思うのだ。

「またシスコンっていわれる…」

とぼとぼと弱りきった背中を晒しながら、尊奈門はなんだかんだと自己鍛錬へ向かうのであった。


いつくしみからの卒業は遠く


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