「あら……利吉、来てくれたの」
「相変わらず忍者顔負けの察知能力ですね」
今回も自分の負けである。こうなると分かってはいたが、それでも自分の実力不足を心の中で嘆いてから利吉は家屋の中へ入った。
「こっちにいらして」
彼女がそう言ってこちらに手を伸ばすので、利吉は近くへ寄ってその手を取り自分の頬へと押し当てた。すると彼女はぺたぺたと顔を確かめるように触って、それから首、肩、胸、手首と順々に触れていく。それは決して艶やかな行為ではなく、彼女にとってただの触診だった。
「怪我なんてしてませんよ」
「利吉はすぐ嘘をつくもの」
そう言いつつも、一通り触診を終えた彼女がにこりと微笑む。
「けど今回は本当に無傷だわ。よかった」
「だから言ったでしょう」
まあ嘘をつくのも本当だし、しょっちゅう怪我をしているのも本当のことではあるのだが。今回は怒られなくて済んだ、と胸を撫で下ろしていると「でも、」と彼女が利吉の頬を撫でた。
「怪我はないけれど、疲れているでしょう。薬湯を淹れてあげましょうね」
「えっ…またあれ飲むんですか…」
「好き嫌いはいけないわ。利吉はもう大きいから飲めるでしょう?」
相変わらず彼女の子ども扱いには頭が上がらない。けれどこの扱いはいくら利吉が文句を言ったところで変わらなかったのでもう諦めていた。……本当のところ、利吉もべつにそこまで嫌ではない。
てきぱきと家の中を動いて薬湯を作り始める彼女を横目に家の中を見渡す。
「最近何か困っていることはありませんか」
「ないわ」
「じゃあいつも通り適当にやっておきますよ」
「もう、いいって言っているのに」
利吉は彼女の言葉を無視して外へと出た。
彼女は目が見えない。生まれたときからのものではなかったようだが、相当若くして視力を失ったとか。だが、彼女は逞しく生きていた。彼女の父が医者だったことから医学の心得があった彼女は今は近隣の人々を診ており、立派に医者として頼られている。目が見えないことなどお構いなしに、毎度山へひとりでに入っては大量の薬草を獲ってくるものだから最初の頃はハラハラさせられたものだ。
そんな彼女に、利吉も救ってもらった身である。ある忍務に失敗して深手を負っていたところを手当てをしてもらい、しばらく面倒を見てもらった。その恩を受けて、利吉は何も用がなくとも定期的に通って彼女の様子を見に来ていた。
彼女は近隣の人々らにも慕われ、手助けを受けようと思えばいくらでも受けることができるほど人徳があったが、驚くことに何でも一人でこなしてしまうのである。だからいつも利吉が勝手に力仕事や彼女の生活が楽になるように細々としたことをこなしていた。
今日も周りの山道を彼女が歩きやすいように慣らすなどをしていると「利吉、」と柔らかい声に呼ばれる。薬湯ができたのだろう。あれを飲まされるのは一番最初に面倒見てもらっていたぶりか。下手な拷問より辛いかもしれない。だが断ることもできなかった。
「はい、召し上がれ」
「もう薬を通り越して毒ですよこの見た目と匂い」
「薬も毒も似たようなものだから間違ってはいないわ」
「とんちを聞きたいわけじゃないんですがね…」
ぶつくさと文句を言っても逃げられるものではないので、利吉は腹をくくって一気に飲み干した。途端、鼻を抜ける強烈な匂いと舌にいつまでも残り続ける混沌とした味に小さく呻く。
「いい子ね」
耐え忍ぶために丸めた背中を彼女が優しく撫でる。くすぐったい気持ちと壮絶な後味に悶えて忙しい気持ちがぶつかって訳の分からない感情になる。
「もう二度度飲みたくないと思ってたのに……」
「あら、じゃあ健康でいることよ」
からかうようにクスクスと笑う彼女があまりにも綺麗だったので、利吉は言い返せずに黙った。いくら見惚れても彼女には利吉の視線が分からないのだから、利吉は隙あらば彼女を見つめる癖があった。
「ああそういえば…」
彼女が思い出したように声を上げると、するすると利吉の腕を撫でる。何事かと利吉が身を強張らせていると、彼女が利吉の袖を摘まんだ。
「ここ、ほつれているわ」
確かに見ればつままれたところが破けている。きっと忍務の最中か何かに引っ掛けて破いてしまったのだろう。
「大丈夫ですよこれくらい」
「だめよ、繕ってあげるから脱いで」
「えっ」
この場で?と利吉の戸惑いと恥じらいが伝わったのか、彼女がけらけらと笑った。
「どうせ見えないんだから平気よ」
彼女自身が言うと笑っていいのか微妙な冗談になるのだが、まあいい。彼女は昔からこういうところがある。諦めて利吉が小袖を脱いで渡すと、彼女はさっそく縫い始めた。
その間、手持ち無沙汰で彼女の手元と横顔を交互にじっと見ていると、彼女が「ふふ」と微笑む息を漏らした。
「熱心に見られているわ」
「…分かるものですか」
「分かるものよ」
じゃあ利吉がいつも彼女に見惚れているのももしかして気づかれているのか。真偽は不明だったが、途端に恥ずかしくなり、利吉は目線を天井に向けた。今更視線を逸らしたところで意味などあるわけないのに。
彼女はそのまま手際よく縫って、あっという間に小袖を綺麗な状態にしてみせた。はい、と彼女が小袖を広げるので、なされるがままに羽織らせてもらう。すると、肩をぽんぽんと軽く叩かれた。
「次はお嫁さんにやってもらうのよ」
その言葉に利吉はがっくしと項垂れたい気持ちになった。結構分かりやすく振る舞ってきたつもりなのだが、彼女ときたらまだ何も分かっていない。表情を見られないのをいいことに、利吉は分かりやすく眉間に皺を寄せた。
「そんな人いませんよ」
「利吉は男前なんだからきっとすぐにいいお嫁さんが見つかるわ」
「見たことないくせに」
「触ればわかるの」
彼女がぺたぺたとまた利吉の顔を触る。骨格から把握しているという事か、と冷静に考えつつも、彼女に触られているときは利吉はいつだって平常心ではいられないので、暴れ回る本能をどうしてくれようかと目を瞑り葛藤する。
「ほら、やっぱり男前だわ」
「……それなら、あなただって……綺麗なんですから夫を取ればいいじゃないですか」
「私が?」
ぽかんと鳩が豆鉄砲を食ったように呆けた表情をしたかと思えば、次の瞬間には手を叩いて笑い始めた。
「無理よお、あはははっ」
空気を誤魔化すとかそんなんじゃなく、心の底から笑っている彼女を思わず睨む。絶対にそんなことないのに。自分の言っている事の方が正しいはずだと利吉は確信していた。彼女はそれだけ魅力的な人物だった。
「利吉のように同情してそばに居てくれる人はいるかもだけれど、そんなので一緒になってもらうなんて申し訳ないわあ」
「は……はあ!?」
驚きより怒りに満ちていた。まさか彼女にそんな風に思われているとは露も思わず、本当に何も伝わっていなかったことに腹立ちを覚える。そんな利吉の反応に彼女はきょとんとしていて、それにまた苛立った利吉は彼女の手を取った。
「私があなたを憐れんで一緒にいると思ってるんですか!?」
息が胸に詰まる。言いたいことはいつも溢れていたはずなのに、口にしようとすると上手くいかなかった。
「私はあなたを憐れんだことなんて一度もありません!私は、私はあなたを……」
こんな時まで意気地がないのか自分は。あと少しというところで肝心の言葉が紡げずにいると、彼女の手が伸びてきた利吉の頬を包んだ。
驚いたのも束の間、まばたきをした頃には彼女の顔がすぐそばにあって優しく口づけられていた。
「…………」
「……本当にまずいのね、これ」
「……ご自分で飲まれたことなかったんですか……」
ふふ、と彼女は悪戯っぽく笑った。
頬を包む彼女の手に自分の手を重ねると、不思議なくらい心安らかに本音が零れる。
「好きです……誰よりもあなたのことが」
真摯に囁くと、彼女のくちびるが僅かに震えた。
「あなたがこの世でいちばん綺麗です」
いつも利吉を包んでくれる優しさが、たおやかに強く毎日を生きるその様が、時々幼子のように利吉を揶揄ってくるあどけなさが。彼女を構成するすべてを美しく思っていた。
「絶対におおげさに言いすぎだわ…」
「そんなことありません」
顔を逸らした彼女の目尻から透明な珠が落ちるので、利吉はたまらず彼女を抱き寄せた。
「利吉…、本当に私でいいの」
「あなたじゃないと嫌です」
「変な子だわ」
「幸せ者の間違いでしょう」
ここからの押し問答は負ける気がしなかった。ああいえばこういう利吉にやがて観念したのか、彼女が小さく笑う。
「じゃあ、よろしく頼もうかしら」
「頼まれます。一生離しませんから」
ずっとずっと、彼女の優しさに触れた日からこの日を思い描いていた。
念願叶って腕に収めた彼女は、思っていたよりも小さく頼りないものだった。
この世でいちばん
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